対岸の空き部屋
対岸にある賃貸マンションの一室は、何年も借り手がついていなかった。川向かいの安アパートに住む彼の部屋から、そのがらんとした室内はよく見た。
彼は学生時代から数えてもう十年その部屋に住んでいた。
注意して観察していたわけではないが、対岸のマンションの空き部屋はその間一度も入居者がなかったようだった。ひょっとしたら事故物件か何かなのかもしれない。
ある夏の晩、彼は暑さのせいで目を覚ました。
風を入れようと窓を開けたとき、彼は対岸の空き部屋で何か黒い影が蠢いているのに気がついた。網戸越しにじっと目を凝らしてみると、それが巨大な魚であることが分かった。そうとしか見えなかった。部屋は水に満たされているように見えた。
その中に人が浮いていた。頼りなく揺れ沈んでいくその身体を、巨大魚が旋回しながら小突き上げて弄んでいた。巨大魚は鋭い歯と強力な顎でその肉を食いちぎった。
よく見ると、水中に浮かぶ身体は彼自身だった。
彼は、己の身体が食い荒らされ、飛び出した
まだ夜だった。
次の眠りから目覚めたとき、彼は巨大魚が出てくる夢を見たことをかすかに覚えていた。何か生々しい手触りのある夢だった。
その夢の名残りに導かれるようにして、窓の外に目をやった。
そこには、夜の暗い川の向こうに彼が十年暮らした安アパートの部屋が見えた。カーテンは締め切られていた。そのせいかどうか、室内がどうなっていたかまるで思い出せなかった。
彼がいるのはマンションの空き部屋の方だった。今はがらんとして何もなかった。しかし、その部屋がかつてどんな様子だったか、彼はよく知っているようだった。
もうずっとそこにいたような気がした。それでも、この部屋のことも、他のあらゆることも、ゆっくりと忘れてゆく一方のようだった。
彼はもうほとんど何も覚えていなかった。
そのとき、暗がりから巨大な魚が現われて彼の身体を弾き飛ばした。彼の身体は浮き上がり、またゆらゆらと沈みはじめた。
彼は水の中にいた。
夢ではなかった。にもかかわらず、苦しくなかった。
巨大魚が彼の脇腹を食いちぎると、水中に腸が飛び出した。彼は己の腸が水中にたゆたう様を、何の感慨もなく見ていた。
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