「朝、店に来ると、床が水浸しになってるんです」


 国分寺のとある蕎麦屋の店長Sはそう語った。


 最初は空調設備の故障かと疑ったが、小さな水溜りが床のあちこちに点在していることを考えると違うらしい。水道管も調べてみたが、ひび割れなどは見つからなかった。営業中は何も起こらないし、特に害になることもないからしばらく放っておいた。どうせ開店前にモップがけをするのだから、その水をそのまま使ってしまえばよかった。


 しかし、度々そんな現象が起こると、やはり次第に気味悪くなってきた。


 店長Sが改めて原因を考えてみたところ、昨年の夏、短い間だったがその店で給仕のアルバイトをしていた女性Yの存在が思い当たったという。


 Yは近くの大学に通う一人暮らしの学生で、上京したての一年生だった。アルバイトをするのも初めてという話だったが、かわいらしい容姿で困るとハの字になる眉がなんとも愛嬌があり、店の看板娘にと採用した。


 ところが、もともと緊張しやすい性格だったこともあって、Yは毎回のように何らかの失敗をしたという。料理を別の客に運んでしまったり、丼を割ってしまったり。あるいは、注文を忘れてしまったり、お釣りの計算を間違えたり。一つ一つは誰もが経験するような取るに足らない失敗だったが、それが日常的に起きた。


 中でも困るのが、しょっちゅう足をもつれさせて転ぶことだった。


 特に、来店した客に水とおしぼりを出すとき、Yはよく転んだ。接客の最初ということで、必要以上に硬くなるらしい。「あっ」とか「きゃっ」というYの小さな叫び声が、厨房にもしばしば届いたという。


 まだ学生だったこともあるし、持ち前のルックスと相まって、失敗はむしろ微笑ましくさえあった。また、そんな彼女を目当てに来店する客も実際いたので、やがて慣れるだろうと店長Sも大目に見ていた。


 しかし、客に水を引っ掛けてしまうことも何度か起こり、あるときついに被害を受けた客から大目玉を食らうこととなった。相手は近くのビルに入っているある企業の上役で、いつも些細なことに難癖をつけてくる年配の男性だった。その会社の社員には他にも数名の常連がいたこともあり、店長Sとしてもトラブルは避けたかった。それに、悪いのは確かに水をかけてしまった店側だった。


 Yと店長Sの二人で必死になって頭を下げ、クリーニング代を包んでその場はなんとか怒りを静めてもらった。店長Sも、これを機にYには厨房や洗い場を中心にやってもらうことにしようと決めた。


 ところが、その件がよっぽどこたえたのか、Yは翌日のアルバイトを無断欠勤した。それから三日無断欠勤が続き、ついには連絡が付かなくなった。辞めたと判断するより仕方がなかった。


 それから数週間後、店長SはYがアパートで自殺したという話を耳にすることになるのである。


「いくら繊細だと言っても、お店でのことが原因で自殺までするなんて考えられません。だから、他に何か悩んでいたことがあったんだろうと思っていました。しかし、最近店で起きていることを思うと……」


 店長Sは言葉を濁した。


 客の少ない時間帯に表からその蕎麦屋を観察していると、客に水を出しに行こうとするYらしき女性の姿が、窓ガラス越しにうっすら透けて見えるのだという。

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