手斧



 地面に転がり落ちていた地蔵の首を足蹴にしたら、下から蛇が這い出てきた。それを見たとき、和樹はどうしてもやらなければと思った。


 家に帰ると、和樹は今や誰も近寄ることのなくなっていた離れの物置の戸を開けた。破れた壁板の隙間から、隅で埃を被っていた手斧に一条の光が射していた。亡くなった祖父が、裏庭で伸び放題になった蔦や木の枝を断ち切るのに使っていた手斧だった。


 和樹は、荒々しく斧を振るう祖父の後姿をおぼろげに覚えていた。どこか近寄りがたいところのある人だった。しかし、まだ小学生だった自分に祖父が無理やり刃の研ぎ方を手解きしてくれたのも、このときに備えてのことだったのだと今の和樹には思えた。


 父が一階の部屋にいる気配があった。腹を空かせた妹の希海にスナック菓子を与えると、和樹は二階の自室にこもった。こっそり持ち込んだ道具で、慎重に刃を研ぎはじめた。無心だった。


 母が半年前に家を出て以来、二人の妹の面倒は和樹が見ていた。希海はまだ二才。葉月は中学に上がったばかりだった。しかし、自身も高校に上がったばかりの和樹に、何ができるわけでもない。食事はすべて弁当で済ませるようになり、雨戸は締め切りになった。台所にはゴミ袋が積み重なった。


 父は何もしてくれなかった。必要なだけの金はくれた。しかし、それだけだった。それ以上何か言えば、生意気だと決めつけられて殴る蹴るされた。祖父の血を継いで大柄な体格の父に対し、和樹はどちらかといえば貧弱な体つきだった。もう高校生とはいえ、力ではとてもかなわなかった。


 和樹は父と顔を合わせるのがいやなために、もらった金はなるべく長くもたせようとした。しかし、金はいつもすぐ底をついた。それでも、父の機嫌の悪いときに言えば、散々暴力を振るわれたあとでなければ金はもらえなかった。


 父は、母がいなくなるしばらく前から仕事に行かなくなっていた。最初は別の仕事を探している様子もあったが、今ではそんな素振りさえ見せなくなっていた。


 母がいなくなってから、父は家を出たきり何日も帰ってこないことが度々あった。そんなとき、和樹はこの家から逃げようと何度となく葉月に持ちかけた。しかし、その度に葉月は死んだような目で兄を見返すだけだった。


 近頃では、葉月は学校から帰るとほとんど父の部屋から出てこなくなっていた。和樹は妹がそこで何をされているのか、今やはっきりと分かっていた。だからこそ逃げようと言うのだった。それなのに、なぜ葉月がその気にならないのか和樹には理解できなかった。かといって希海を連れて自分だけ逃げることもできず、和樹はただ己の無力さを思い知らされた。


 母は何も告げずに突然いなくなった。しかし、父が働かないことだけが原因ではないことは、和樹にもそれとなく理解できた。土地の名家の出で、プライドが高くひどく体面を気にする父方の親族を、母は昔からひどく嫌っていた。母が祖父や近くに住む親戚たちを口悪く言うところを、和樹は子供の頃から繰り返し見ていた。


 母の抱えていた憎悪を思いながら刃を研いでいるとき、和樹は、祖父が庭で手斧を振るっていると、母が決まって縁側でそれを見ていたことをはたと思い出した。そんなとき、母はいつも祖父の背をすごい形相で睨みつけていた。そして、その母の傍らに自分はいたのだった。


 これが何を意味するのか、和樹の中で一つに結びつきそうで結びつかなかった。考えようとすると、こめかみの辺りで血がどくどくと脈打ちはじめた。無理をして考えれば、頭が膨れ上がって破裂するのではないかという不安に駆られた。その記憶はただ重苦しい塊となって和樹の頭の中につかえ、むしろ混乱さえ招いた。


 刃を研ぎ終わると、和樹はぼんやりして何も考えられなくなっていた。

いつの間にか部屋に入ってきていた希海が、学校鞄をいじっていた。和樹はしばらく黙ってそれを見ていた。やがて、鞄の留め金がはずれ、希海が中身をすべて床に空けてしまった。中から、その日返却された答案用紙がいくつか出てきた。それは高校で初めての試験で、点数はどれも一桁だった。和樹は授業にまったくついていけなくなっていた。


 赤書きされた数字を希海が嬉しそうに読み上げるのを見て、和樹は急に小さい妹が哀れになった。思わず涙が出るのをこらえて、和樹は希海の後ろからそっと近づいた。そして、そのか細い首を一思いに絞めた。苦しそうに手足をばたつかせる希海は、悲しいほど非力だった。希海の身体はすぐに何の抵抗も示さなくなった。


 和樹はぐったりとなってベッドに身を投げた。それから、机の上で鈍い光を放つ手斧を見た。その刃は、申し分ないほどの切れ味を取り戻していた。手を伸ばして指先をそっと刃に当てると、少し引いてみた。皮膚が切れ、血が滲んできた。傷口を見ているうちに、やがて痛みが襲ってきた。和樹はその血を嘗めた。


 重苦しい何かが頭の中で膨らんで、和樹はベッドの上で身もだえした。何度も寝返りを打ち、頭を抱え込んでうずくまっていると、やがていったん収まった。しかし、消えはしなかった。もうこれが消えることはないのだと和樹は思った。


 どうすればいいのか分からなかった。全身の力を使い果たしてしまったようになって、和樹はただぼんやり天井を見つめた。そのうち浅い眠りに落ちた。


 次に目を覚ましたとき、家の中は息をするのもためらわれるほどの静けさに包まれていた。葉月はとっくに学校から帰っている時間だった。今、階下で何が行われているのか、和樹にははっきりと分かった。


 やらなければならなかった。和樹は手斧をつかむと、そっと部屋のドアを開けた。そして、息を詰めて階段を下りていった。



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