あわいの町



 目指す場所もないまま電車を乗り継いで、女は東北のある小さな町まで来た。すべてを捨てて逃げてきたのだ。


 名前を聞いたこともないその町を当てもなく歩いていると、ある家の縁側の窓がわずかに開いているのを見つけた。なぜか招かれているような気になって、女はその家にするりと上がり込んだ。


 つい今しがたまで人がいたような気配があったが、無人だった。テーブルにまだ温かいお茶が出ていて、まるで人が来るのを待っていたかのようだった。


 女はじっと座り込んで家の者の帰りを待った。対面してどうするつもりなのか、自分でも分かっていたわけではなかった。ところが、いつまで経っても誰も帰ってこなかった。次の日も、その次の日も誰も帰らず、女はそのままその家に居ついてしまった。


 周囲の誰も女を不審がらなかった。まもなく、近くの温泉施設に仕事を見つけ、中古車を安く手に入れた。少しの間、女は静かに慎ましく暮らした。


 その町に来て一年が過ぎた頃から、女は職場の若い男と関係を持つようになった。時折ひりひりするほどの焦燥感を見せる男だった。お互い相手に何か先の約束を迫るような付き合いではなかった。ただ一緒にいると虚しい気持ちが紛れることもある。それだけだった。それでも、女は男を家に上げようとは決してしなかった。その家は、女だけの居場所だった。


 ある日、男が職場の売り上げを持ち逃げした。女は何も知らなかった。男との関係を問い詰められ、職場に居づらくなった。仕事を辞め、車も置いて、消えるようにその土地を離れた。


 あちこち寄り道をしたが、長居できる場所は見つからなかった。結局、女は捨てたはずの場所に戻った。そこには、少し老けた夫が待っていた。


 それからしばらく、平穏な日が続いた。女は家を出ている間のことは何も話さなかったし、夫も何も聞かなかった。


 ある年の秋、夫の提案で夫婦は東北へ旅行することになった。


 車での旅行だった。ある山道を走っているとき、女は短い間暮らしたあの町がそう離れていないところにあると気がついた。そう思うと、もう一度あの家を見たくてたまらなくなった。あの家に、何かひどく大切なものを忘れてきたような気がした。


 女は、車を運転する夫にその町まで行くように頼んだ。妙に思った夫だったが、すぐに察して黙って車を走らせた。


 職場だった温泉施設への行き来にいつも使っていた道に乗って、女はあの家を目指した。ところが、ここを曲がればもうすぐという角を曲がった先に、まるで見覚えのない光景が広がっていた。あの家はどこにもなく、女は道を見失った。もう一度引き返してきて、別の方角から近づいた。ところが、やはり途中の角を曲がったところで見知らぬ住宅地に紛れ込んでしまった。いくら探してもあの家は見つからなかった。


 道端に以前顔見知りだったある婦人を見かけ、女は車を停めて声をかけた。しかし、その婦人は女のことなど知らないと言うばかりだった。


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