第9話

 思えば、あの時すでに傑王には惹かれ始めていたのかもしれない。

 大将軍の称号を継いだ鎧兜の下に、灼熱のような憎悪に支配された少年はもういなかった。一族根絶やしは四十を過ぎた今でも悔恨の残る憂き事件ではあったが、気付けば、哀れみが憎しみを追い抜いて、心の水瓶から溢れ出ていた。

 愛、憎悪、羨望――どんな形であれ、「思う」という行為と費やす時間。それはかけがえのない己の心の一部を他人に割くことだ。割いた心と傍にいた時間の数が翻って親密にさせたのか、或いは単にほだされただけなのか。

 いつからか傑を殺して一族の仇を討つ意志は揺らいだ。十数年で揺らぐほど弱い意志だったとは思わぬし、時が感情を昇華したとも思いたくはなかった。ただ、亡きビュレの敵討ちに一生涯しがみつくのは哀れなことだ、とある時から頭の片側でもう一人の己が囁き始めたのだった。



 きっかけは遠征先だった。ブグラ領にさしかかる礫砂漠の関城で部下が異民族の子供を殺した。調べれば、子供は反乱のかどで誅されたブルキュット族の出身だった。ブグラの商人の奴隷として働いていたが、曄の鎧を付けた集団を見るや否や、無謀にも小刀を手に生身で飛びかかってきた。両親の仇と叫んだという子供は小刀を打ち合うこともなく、槍で一突きされ、絶命した。

 騒ぎを聞いて駆け付けてみると、過去の己と同じ境遇の子供の死体はとても小さかった。骨と皮のみで形作られ、神が気まぐれに人形に魂を込めたものが、また天に還っていったかのような。子供の死は戦で幾度となく目の当たりにしてきた。だのに、この子供の死はどこか現実離れしているよう思えた。まるで過去の自分を、過去に起こり得たかもしれないもう一人の自分の人生を追憶するかのようだった。

 敵討ちなどせずに暮らせば、いつの日にか平穏が訪れたかもしれない。死者のことばかり想って、自分の命を顧みず酷使するのは果たして正しいのだろうか。子供の死でありえたかもしれない過去を追憶して、みじめに安堵したのは誰か。死者に人生を囚われ続けたままで良いのか。死者は誰の人生を縛るのか。真に縛り付けているのは誰――。

 それは、子供に対する問いかけであると同時に己に対しての問いかけでもあった。模糊とした風景の中で突然天啓が降りてきて、彼方に地平線を見つけたような実に鮮やかな発見だった。

 だが、己の人生を縛り付けているのが誰であれ、殺害された大勢のビュレの英霊を背負うのがもはや我が身しかおらぬことは確かであった。己が復讐を諦めれば、この魂たちは一体どこへ還れば良いというのだ。故郷へも天へも帰れぬというのに。

 若いドルジは悩んだ。傑を殺すという目的こそが己を生かす力の源であり、自我といっても過言ではなかったとのに、今更敵討ちをやめるというのか。夜、目を瞑ると亡霊たちが口々に諌めてくるのではないか。

 だが、夜が何度明けても恐れていた亡霊たちは現れなかった。それどころか、傑の命令で「西方将軍」を名乗り、反乱鎮圧に遠征したブグラとの国境や自治領で、遊牧民たちをはじめ、異民族と蔑まれた被支配民たちはドルジを草原の誇りと口々に讃えた。同様の出来事は北方の地へ遠征した時にも起こったのだった。

 ――戎にありて戎にあらざりし誉れの将。天下に名を轟かせし褐色の将。

 天下巡遊の際に出会ったヨルワスの女性のように、皆が将軍ドルジを讃え、曄に尽力せよと鼓舞した。従来の曄にはなかった遊牧民族の騎馬部隊の様式を軍に教え、曄の将として遊牧民たち同志の地に遠征するなど紛れもない裏切り行為だ、と考えているのはまるで己ただ独りのようだった。

 王の傍にいて、遠征の成果を上げることで、異民族たちへの差別は抑制された。何よりも戦争のない時期に行われていた交易が、関城で活発に開かれるようになったことは遊牧民、曄人の双方にに大いなる恵みをもたらした。もちろん傑が異民族懐柔政策のひとつとして打ち出した手段であったが、多くの利益を生んだこの政策は最終的に北戎たちの剣と弓を納めさせることに成功した。

 ドルジの働きにより存在が認められた、ひいては傑王の慈悲の何と深いことか、と遊牧民たちは口々に感謝を述べた。単純な武勇への賛辞は励みになったが、その尾に傑の賛辞がつくと微笑んだ顔の裏で急激に血の気が引いて冷え冷えとした気持ちになる。だが、こうなると例えドルジが不本意であろうとも、同志のため、真に傑の傀儡とならざるを得なかった。同志の幸福が故郷を取り戻せないまでも背に負った英霊たちの慰めになると信じて。

 その頃にはドルジの名は曄風に猛爾元と改めさせられていた。弓の名手メルゲンの称号から傑が好き勝手に音写したものだった。

 誰もが両手を挙げて傑の名を讃え、万歳を声を大にして唱え、傑の死や曄の滅亡を望んでいないことを知った時、猛爾元の生きる目的は「傑の殺害」から「彼の死を見届けること」となった。異民族懐柔のために己を利用するのであれば大いに利用されてやろうと。亡きビュレの民が深淵から現世を覗き込んだ時、これ以上恨みを募らせないで済むような世に成し遂げるまで。

 北方の民の安住の願いが叶わぬうちに、傑が何者かの手によって妨害、或いは殺害されぬよう、猛爾元はやっと王が下賜した剣を佩いた。ようやく真の意味で傑の将軍になったのだった。

 しかし、滅びの影は曄国の栄華に覆いかぶさるようにくっきりと伸びていた。他でもない傑自身の手によって。



 現王・張祐は曄朝第十四代皇帝であるが、数奇な運命により玉座を手にした。

 彼の母親である第四妃は元は第一妃に従う女官だった。傑の戯れで抱かれ、偶然明かした一夜で身籠った子が祐だ。故に寵愛が深かったわけではなく、四妃自身も運命に翻弄されて「妃」の位を与えられただけの存在であった。

 寵愛がない妃と子はひっそりと宮殿の片隅で息をして生活していた。まるで多くの飼い猫のうちの二匹のように、主人から深い思い入れも示されず、ただ衣食住だけを与えられていた。

 祐が玉座に付くことになったのは、傑の酒乱が原因だった。傑の酒癖の悪さは若いうちから有名であったが、猛爾元が傍にいる時だけは諌言を聞いた。だが、猛がひとたび遠征に出てしまうと、傑は誰の話も聞かなかった。猛の“手厚い介助”でなければ傑の高揚した気持ちは納めることが叶わなかった。

 若い頃はそれでもまだ分別があったが、中年を過ぎた頃から猜疑の気が出てきた。それからは酒に溺れては呪詛や王位簒奪の疑惑を呈し、罪状を明らかにせぬまま子女を殺し、或いは去勢し、妻を殺した。

 少年の頃から賢君の誉れ高かった嫡男・均は長い間曄南を治めていたが、母親である第一妃が呪詛をした流言の疑いを晴らすために父王に酒宴の席でとりなしを頼み、却って呪詛に加担した疑いでその場で誅された。

 数日中には冤罪であることが分かり、傑は深く悲しんだ。傑は均を殺害したこと、それに加え、北西の要衝を守っていた鄭将軍を讒言により処刑したことを死ぬ間際まで後悔をし続けたが、この時既に疑心のあまり物事の正誤を即座に判断できず、気を激昂させるを抑制できず、心と意思が裏腹に動くことへの苛立ちに支配されていた。これを機に傑はよく自棄になった。そうして、嫡男がいくらしても帰ってこない悲しみの憂さを晴らすように、より酒に浸っては未熟な後継者であれば居らなくて良い、と容易に子女を斬り捨てたのだった。

 傑は死の淵にこう言った。

「均が生きていれば……」

 そうして、猛爾元を枕元に呼び、

「ついに貴様に殺されることなく、病に殺されることになったな。占定は当たったようだ。貴様は余を裏切らぬ。そして――銀の獣の子を重宝すれば余の代に国が亡びることはない、と。だが、それもここまで。次の王が誰であれ、適さぬと思ったならば余の代わりに首をすげかえよ」

 曄の後を最期まで寵愛した猛爾元に託したのだった。

 猛爾元はもはや傑を殺すことはできなかった。傑が死んだ時、悲しみが満ち潮のようにざあざあと己の胸を占めるのが分かった。明け方の湖畔のように静かで物憂げな空気が満ちていた。心のどこかを欠落したようにも思われた。散々恨みを募らせた相手が死んでしまったのだから、確かに心の一部を失ったのだろう。猛爾元は入朝して今までずっと傑を追いかけてきたのだから。だが、それは烈火のごとく燃えさかる単純な恨みではなかった。共に過ごした長い時間は、純粋な感情と歪な感情を複雑に絡み合せ、別のものへ変質を遂げた。決して傑を許したわけではなかったが、育まれた感情には少なからず愛があったのだと猛爾元は認めざるを得なかった。そうでなければ彼の湖面のような瞳から自然と涙が溢れ出るはずがない。

「あなたを殺すのは俺であったはずでしょう……」

 猛爾元は誰もいない部屋で独り呟いた。

「あなたを許したくない、あなたを殺したかった」

 頬を伝う熱い感情に、ひとりごちたこれらの言葉はあまりにも白々しく響いた。もはや何事も叶わなかった。

 幾人かの武将は傑王に殉じ、共に王陵に葬られたが、猛爾元は殉ずることはなかった。殉じれば傑を根本から愛し、赦し、自らの意思で従ってきたこととなる。そうではないことこそ、背中の英霊たちに示さねばならなかった。――それに、鷹の群れの中に突如放り込まれた子兎のような祐と改めて対峙した時、瓦解を続ける曄の終焉を己の生が続くまで見届けねばならぬと思ったのだ。終焉の靴音がすぐ後ろに迫っている気がした。

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