第10話

 傑は猛爾元に後事を託したが、しかし、彼には傑を失った後の国の混乱を止める力がなかった。

 彼は傑に仕えた多くの時間を北方遊牧民侵犯と遠征に割いた。傑の死後、多くの領地拡大策が中止され、ようやく凰都へ舞い戻ってきた。凰都での長い滞在は少年の時分、禁軍の鍛錬兵だった時から数えて二度目だった。領地拡大と軍事の縮小は猛爾元の、そして武官たちの居場所を狭めた。腕っぷしの立つ武官は兵の鍛錬こそ役には立つが、それだけだ。曄は戦争を起こさぬよう腰を低くして慎重になっていた。勢いを失った。それは王の威厳も失われていくように人民には映った。

 傑は生きてそこに立つだけで人を圧倒して従わせる英雄的資質を持った人間だった。故に、無理難題を押し通すことが可能だった。即ち、傑は権力を狙う外戚や官の鎖を押さえつける大きな杭であった。杭は朽ち果て、地中に還ってしまった。新しく選ばれた杭はまだほんの小さく、あまたの鎖を押さえつけることは不可能だった。猛爾元が手を添えても、隙をついて鎖の先に繋がれた魔物は王の杭をすり抜ける。

 曄国は傑の時代からほころび始めていたのだ。大衆の口を傑が圧倒的な力で塞いでいた。無理に塞いでいる事実を中枢の者たちは見ようとしなかった。度重なる領土拡大のための遠征、徴兵、支配地との衝突、建設のための税……。幾重にも民草に課された不満の塊が祐の即位とともに顕現しただけの話だ。

 将軍として有能な猛爾元も政治家としては何ら力の無い民草のひとりだった。長く外にいたせいで王宮の内情は把握しきれなかった。跳梁跋扈する外戚を諌めたとて、彼らは聞く耳を持たぬ。戦の起こらぬ今、外戚にとって武官は張子の虎であった。彼らを武力でねじ伏せることはできる。だが、心優しき祐王はその手段を望まなかった。武力で外戚や旧い官をねじ切れば、粛正から始まる王権とみなされ、再び人民の心を澱ませてしまうと考えたのだ。

 祐は即位にして一挙に祖父と父の代の附けを身に課された。課されたものの重さを支える前に、隙を突かれた。反乱の徒はのろしをあげた。最初は遊牧民たちの一団からはじまり、わずか一年半で反乱軍は今や陰で不満をくすぶらせていた曄の民まで抱え込んでいた。

 こうなれば、反乱の徒を鎮めるか、或いは王は自らを弑し、王座を明け渡すことでしか附けを払えない。

(それはあまりにも哀れだ……)

 城下が火に染まり、ついにこの城堡に押し寄せてくる。

 石造りの窓から戦況を眺める。兵たちの戦いの怒声がどの門で上げられているのか一目瞭然なほどに、幽鬼の手はもうすぐそこまで迫っていた。

 猛爾元はひとつの決心をして衛兵に命じた。

程駿ていしゅんを呼んでくれ」

 代々文官を排出する程一族の若い男で、程粛の子だ。猛爾元より年嵩の程粛は老年になって官を退き、後進に座を譲っていた。猛とは王のことで衝突することも多かったが、曄の行く末を考えてのことであるのは互いに承知していた。彼は己の邸宅でこの戦火をいかに見ているのだろうか。或いは生きながらえているのだろうか。

 猛爾元はしばし思い出に耽った。

(程粛様には愚かだと言われるかもしれぬが、私にはもうこんな拙い策しかない)

 猛爾元は若き王に近づくと、跪いて拱手した。

「皇上、今から私めがいうことをお聞きください」

「うむ」

 祐は硬い表情のまま首を縦に振った。事態が好転せぬことは幼い彼にもよく分かっていた。終焉の時を察して緊張で口を真一文字に結んでいる。

「無礼を承知でお願い申し上げます。玉璽を私にお授けください」

「なにゆえだ」

 祐の顔が一層強張った。しかし、猛爾元は続ける。

「このままでは皇上には自死の道しかございませぬ。幾多の王朝の最後の皇帝は逆賊に弑されるを良しとせず、皆供を連れて矜持を保ったまま縊死してきました。しかし、私は一か八かにかけてあなた様をお救いしたい。すべてはこの猛が玉座を簒奪せんと武王の死後に企んでいたものと程駿に取り次いでもらい、反乱軍の首魁の元へおくだりください」

「そのような……!」

「そのようなことがあなた様の矜持に反するのは存じ上げております」

 猛爾元は階段を上ってくる足音に、残された時間がわずかであることを悟って祐の言葉を遮る。

「しかし、もしも生きながらえることができたのならば、曄国の、そして新たな名を持つこの国の民が真に幸せとなったか、天帝の選びし子として見届る義務があるはずです。ですが、決して再び王座につこうと考えてはなりません。庶民に身を落さねばなりません。それがどんなにか過酷なことかと分かってお願い申し上げております」

 祐は一度言葉に詰まったが、悔しそうな顔をして懐から龍紋が刺繍された小さな紫色の袋を取り出した。

「余は王になりたくなかった。だが、なったのであれば責務をまっとうせねばならないと思った。王になんかならずにずっと母上と静かに暮らしたかった。この椅子の孤独は欲しがるものには見えていないのだ」

 祐は袋を無造作に落とした。絹の袋の中から龍をかたどった金色のつまみが顔をのぞかせる。

「父上は沢山の官らに囲まれていたがずっとお寂しそうだった。誰も父上のことが分かっていないようだった。けど、お前が傍にいる時はとても嬉しそうであったよ」

 言い終えると、彼は跪く猛爾元の脇をすり抜け、冕冠べんかんを床に捨てた。繊細な刺繍の上着をも脱ぎ捨てると、部屋の扉の前で息を切らせる青年に目くばせした。

「余を……、いや、僕を連れて行ってくれ、程駿」

 文官にしては精悍な顔つきの青年は頷くと、あらかじめ用意していた隠し通路に誘導した。祐は決して振り返らなかったが、猛爾元は若者たちの背を無言で見送った。祈るような眼差しで。

 そして、布袋を拾い、玉璽を掌に出す。見た目に反して重い。玉璽も玉座も見た目に反して重い。しかし、それらが背負う人民の命のなんと比べようにならぬ重さか。

(再び馬を競うことはありませんでしたね)

 猛爾元は玉座に語りかけた。ついに叶わなかったが、密かに馬を競うのを楽しみにしていたのだ。だが、約束のあの日よりこのかた、己も曄国も随分と遠いところまでやってきてしまった。曄という一匹の馬と二人きりで草の海を迷子になってしまったようだった。

 しばらくしてから、多くの兵が怒涛のように階段を駆けあがる音が聞こえた。脚甲をつけた靴がかちゃかちゃと石畳を踏みしめている。やがて王座の部屋へ侵入してくるのを察して、猛爾元は左手に金の玉璽を握り、右手は傑に下賜された剣を抜いた。

「叛逆者、猛爾元!」

 威勢よく王座の間に入ってきたのは片側に辮を結う青年だった。かつての猛爾元も結っていた遊牧民の髪型だ。青年は北西の遊牧民が持つ弯曲刀を前に突き出す。

「この男を捕えろ!」

 命じると、背後に控えていた男たちが一斉に剣を抜いて飛びかかる。

 猛爾元は素直に捕まるつもりはなかった。少しでもこの場に敵兵を留め置いたほうが祐たちの時間を稼げる。四十を過ぎて体力が陰ってきたものの、まだ若者に後れを取りはしなかった。寄せ集めの反乱軍に一瞬で捕えられようものなら、大将軍の称号が泣いてしまう。

 容易に兵をいなされて、指揮官とおぼしき青年はちっと舌打ちをする。奥歯を噛みしめ、怒りの炎を瞳の奥に燃やしている姿に、猛爾元は遠い過去の幻を見た気がした。

(この男は……)

 まるで若かりし頃の己を見ているようだった。敵の大将に向ける恨み、そして殺意。随分昔に己から霧散した苛烈な熱を、指揮官の青年は周りの誰よりも強く抱いていた。

「反乱軍の首魁、名を聞こう」

「ふん、あの世に行く前に教えてやろう。アルトゥン・ビリム・ブルキュット。貴様ら曄に滅ぼされたブルキュットの生き残りだ」

(やはり……)

 猛爾元の口から笑みがこぼれた。

「ふ、はは!」

「何がおかしい!」

「反乱のかどで誅されたブルキュットの若造に叛逆者と呼ばれるとは笑止」

「何をぬけぬけと! その手に持つ玉璽が何よりの証拠! 貴様は幼い祐王を傀儡として権力をほしいままにするつもりだったか。曄の狗が、己の欲のために主の喉笛を噛み切るか」

「なれば、私を弑して玉璽を奪い、次の玉座に着こうとする貴殿も同じではあるまいか。大義名分を掲げて玉座を簒奪するのではあるまいか」

「違う! 俺はそのためにここへ来たのではない! 俺はブルキュットの仇を討ちに来た! 曄という国の息の根を止めて、俺のせなにあるすべての霊の無念を晴らすのだ!」

 アルトゥンは顔を赤くして続けた。

「そう、俺は貴様とは違う。貴様のように部族を滅ぼされたのに曄に下り、王の男娼となり、将の号を得て安穏と暮らしていた貴様とは違う! ヨルワスとトゥルケもお前とは違う! ビュレが滅んで以来、秘密裏に力を温存し、いつの日か報復せんと意志を秘めていた。ヨルワスとトゥルケは俺に呼応し、俺もまた彼らに応えたのだ!」

(ヨルワスとトゥルケが……)

 猛爾元は意外だった。ヨルワスとトゥルケは過去の反乱が失敗するとすぐさま曄に恭順を示した。男たちは労役を課せられ奴隷のように扱われ、辛うじて故郷に帰る許可を得た老人と女子供は故郷のある地に戻るまでに多くが離散した――はずだ。ビュレである猛爾元からすれば、彼らのほうこそすべての責任をビュレに押し付けて逃走した裏切り者だった。それでも、一族離散の憂き目にあったのであれば同情すべき哀れな仲間だと思い込んでいた。だが、二族の生き残りたちは四散して他の氏族に吸収されたわけではなかったのだ。時をかけて密かに元の故郷を復元していたのだ。

 思えば、ビュレの滅亡から三十年近くが経過しようとしている。当時離散したヨルワスとトゥルケの民が、遺志を継ぎ、血を継ぎ、成長して故郷にもう一度集まって蜂起するには十分な時間だ。

 猛爾元はこんな単純な年月の経過を見落としていた己がおかしくて仕方がなかった。知ろうともしなかった。あの二族に辟易としていたがゆえの重大な見落としだ。

 だから、再び他者を擁立して反乱を起こそうとするヨルワスとトゥルケが憎らしく辟易とした。彼らにとって先頭に立つ人間は己の部族でなければ良いのだろう。数十年を経て反乱が失敗しようが、また先導者たちの首を捧げて保身すればよいのだ。

 だが、アルトゥンはヨルワスとトゥルケが彼を擁立し、反乱にしくじれば責任を彼に押し付けて保身に回るであろうことすらも見越して中央に立っているように思われた。たったひとつ残った血が何をせずともやがて絶えるのならば、利用される代わりに己もおおいに利用してやる。そういった気概が青年の瑞々しい瞳の奥に見え隠れした。

(――ああ、これは私がなれなかった私だ)

 猛爾元はアルトゥンをどこか眩しく感じた。羨ましくも思えた。

 何度でも機会はあったはずだった。王の巡遊に同行した時に曄を脱走することも、西方鎮圧を任された時にブグラの反乱一派に下ることも、或いは遠征先で自ら反乱の一派を取り込んで首魁となることもできたのかもしれない。

 ただ、猛爾元はいずれも選ばなかった。

 最初こそ傑王を殺すという目的で近くにいたが、遂には殺せなかった。それどころか、傑を恨みながらも彼の覇道を、暴力を、慈しみを、美しい玉とはほど遠い、ひび割れて欠けた不完全なひとりの人間を愛してしまったのだ。

 選んだのは曄の将軍となることだった。そして、今、ここに至る。占士の占定は遂に当たってしまった。

「皆の者! 我ら遊牧民の裏切り者であり、曄の簒奪者である猛爾元を捕えよ! だが決して殺すな!」

 アルトゥンが再び弯曲刀を頭上に掲げた。先ほどの剣士たちに替わって弓兵たちが狭い王の間で矢をつがえる。刀が空を斬って前に振り下ろされると同時に、数本の弓が猛爾元の肩や太腿を貫いた。

 手の甲を射抜かれ、傑より下賜された剣が床に滑り落ちる。剣が床に広がった敵兵の血溜まりをぴちゃりとはねた。直後に、猛爾元は自身も床の血溜まりに膝をつく。敵の冷たくなった血を白袴が吸い上げ滲んでいく。

 これ以上の反撃は不可能だった。アルトゥンが刀の柄で猛爾元の首の裏を打つと、大将軍の号を得た男とは思えぬほど静かに目を瞑った。

 薄れゆく意識の中で、祐の生死が気がかりだった。程駿がうまいこと敵軍に下れていれば良いのだが。アルトゥンは祐からの王位簒奪を企てていると己に言ったが、二人が反乱軍に保護されたのであればどれだけ僥倖か。

 猛爾元は一個の哀れな少年に生き長らえてほしかった。父親の傑のように武にも長けず、馬も乗ったことのない、ただ楽器を奏でることだけを生きがいにしていた少年。いつか己のように生きながらえた後の人生の最後に、小さな誇りと幸せを心に刻む日が訪れるのを願って。

 凰都陥落は反乱軍の王都包囲からわずか二か月で成し遂げられた。

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