第8話
巡遊は旧ビュレ領を越えて、旧トゥルナ領を抜け、西側の山脈を迂回する形でトゥルケ、ヨルワスを通り、セッキズ・カビーレの自治領へと進む。
セッキズ・カビーレは兄弟の契りを結んだ弟国のようなもので、自治を約束している。草原の東端――曄から比較的近くに位置するブルキュットの長を訪ねて改めて兄弟の契りを神に誓う。その後、南下して曄領に入り、今度は曄の北方に位置する主要都市を巡幸して凰都に戻る予定となっている。
これら一連の旅は、毎日遅くとも夕暮れまでに終え、ある時は町が王のために建てた仮宮で休み、またある時には遊牧民より献上された穹廬を建てて休んだ。
曄の北方の土地は単純な草原地帯ではなかった。広陵とした草原である場合もあれば、岩山や林であることもあった。故に、移動式穹廬は大いに役立った。
ドルジは傑の護衛に呼ばれて毎夜同じ穹廬に寝泊まりした。最初に傑の殺害に失敗したあの日以来、ドルジは傑の褥に呼ばれることが頻繁にあった。傍付となったからでもあったが、主な理由は傑の乱れた趣向のためといえた。声がかかる度に苦痛に思いながらも、ドルジは様々な暗器を手に入れてはすべからく傑の命を取りに行った。しかし、傑のほうがうわてですべて阻まれてしまう。傑が寝所に護衛を置かぬのは心が休まらぬという理由もあったが、本来腕っぷしが強く必要ではないのだろう。
もとより肌色の違う北戎の民が宮殿に出入りすることで好奇の眼差しを差し向けられていたドルジだが、傍付となってからはより一層に舐めるような視線を送られた。――一体異民族の男がどうやって傑王に体で取り入ったのか。この鎧や服の下にある王を魅了する体とはいかようなものか。そういった下世話な噂話は求めなくともドルジの耳に入っていた。
一方で傑に忠実な臣下には歓待された。長らく護衛を拒んでいた傑がやっと身の安全を守る剣を傍に置く気になったというのは、臣下たちにとって安堵すべきことであった。彼らにとっては傑の倒錯した趣味は憂いの種ではあるものの、それ以上に国と王の命が大切だった。ドルジはまだ若く、未熟ではあるが、四年も趙将軍のもとで研鑽を積んできているのだから、誰も護衛につかぬよりは役に立つだろう。そう期待されていた。
「久々の故郷だというのに嬉しそうではないな」
傑が床に寝そべりながら何度目かの酒杯を傾けた。着乱れた寝着に凰都から持ってきた黄酒が数滴零れる。こっくりとした甘い香りをかぎ取りながら、ドルジは杯に井戸水を注いだ。
「そんなことはありません」
ぶっきらぼうに答えながら、傑に水を差し出す。
「皇上、呑み過ぎですよ」
「まだほんの序の口だ」
傑には深酒の癖があり、ドルジが窘めるのは毎夜のことだった。いわゆる酒乱で、酔うと理由もなしに人を斬るなど手が付けられないのだ。だが、傑は露とも気にせず手元の酒杯を飲み干し、次に差し出された水を一気に飲む。
「当ててやろう。おおかた曄の民に“おちぶれて”いたのでがっかりしているのだろう」
「誰のせいでっ……!」
見透かされている。図星を当てられ、きっと睨み付けると、傑はものともせずにとろんと酔いのまわった目をしている。
「……いえ、失礼いたしました。どうかお許しを」
ドルジは襟を正すが、傑は赤らんだ顔でにやにやとだらしのない笑みを浮かべる。
「恨みを隠すことを覚えたか、小宝。だが、余はそなたの根の深い、宝剣の切っ先のように尖った恨みが嫌いではないぞ。貴様と違って皆は余を殺したいのではない。王を殺したいのだ。曄の王を。そして自分の首に挿げ替えたい。だが、貴様は違う。余を殺したいのだろう。余でなくてはならない。他の王などどうでも良い。それが心地良い」
「何をおっしゃる……」
「他の王ではビュレを殺した張本人でない。それは貴様にとって重要なことだろう」
確かに、傑以外の誰かを殺害しても、ドルジの中に溜まった澱は掃き出すことはできないだろう。
「そうです、とでもお答えすればよろしいですか」
ドルジがむっとすると、反対に傑は笑った。
「貴様はビュレの誇りを忘れるな。狼の名の通りいつでも余の喉笛を噛み切ろうと狙い続けろ」
はじめて日なたのように優しい微笑みを浮かべる王に、ドルジは一瞬でも見とれてしまった。愚かしいと自己嫌悪すると同時に、そんな表情もするのかと思った。暴力的で力で捩じ伏せることを最良の手段とする傑が、今の笑みのような政治をしたならば、何か別の道が開けるのではなかろうか。そう思いかけて、何と馬鹿馬鹿しい考えをしているのだと首を振る。
ふいに酒杯を片付ける手を掴まれてドルジははっとした。日も沈みきらぬうちからまた床に引きずり込まれるのかと体を強張らせたが、
「何か曲が聴きたい。奏でよ」
ぐいと手を引っ張られた方向に視線を移すと、穹廬の片隅に懐かしい弦楽器が置かれていた。
「ビザーンチ……」
「昼間手に入れたものだ。弾けるか」
大槌を逆さにしたような琴に馬の尾の毛を使った弓がついている。二弦のように見えるが実際は四弦で、二束の弦が二組、棹に張られている。
ドルジはじっとビザーンチを見つめた。四年前、この草原地帯にはたくさんの穹廬が並んでいた。人々は馬を駆り、家畜を追い立て、楽器を奏で、歌い踊った。
(ビュレはどこへ消えてしまったのだろう。俺の中にいたはずのビュレは)
弓を弦に対して垂直に立て、一弾きする。楽器の見た目の印象とは違う、低めの音が女の歌声のように響く。
「俺はあまりうまくないですよ」
「構わぬ」
傑に腕前を見せるのが嫌だった。それどころか、ビザーンチの音色を聞かせるのも嫌で仕方がなかった。自分の心の一部を傑に開くように感じられたからだ。が、久方ぶりに故郷の草原に帰って、ドルジは言葉にできない憂いを弓に託したくもなった。
本当は白毛の馬でなく、薄墨毛の馬が良かった。背が高く、華奢で美しい西方の馬ではなく、長い距離を悠然と走れるがっしりとした体躯、小型で頭の大きな、しかし愛嬌のある馬が良かった。村は砂土で塗り固められた家ではなく、穹廬が良かった。己と同じ褐色肌の手垢のついた朴訥な人々こそビュレの民だった。
四年、たった四年で変わってしまった。
己が弓を弾く袖口を見ると、ビュレの着る袖のすぼまった袍ではなく、袖口のひらりと広がる曄服である。旧ビュレ領が曄領へと変わってしまったのと同じで、自身も曄の子飼いとなってしまった。
(もう一度あの広いフフ草原で仲間たちと賽馬ができたなら)
ドルジは薄墨毛の馬が淡い褐色の毛並みを揺らして駆ける姿を頭に描きながら右手で弓を弾く。大きく弓を動かせば伸びやかな音が穹廬に流れる。左手で弦を制御し、音階が変えれば、音はたちまち色を伴って曲となった。
大きく弓を弾けば、広い草原に風が吹くようだった。時に小刻みに弾けば、馬が鬣を揺らして走るようだった。弓を置いて弦を指で弾けば、馬蹄の音が響き渡る。再び弓を持ち、力強く奏でれば、馬は草原の中を疾走した。
ビュレは祭りの時にこの曲を弾いたものだった。馬の曲と言えばこの曲なのだ。そして、馬はビュレの生活に欠かせなく、祭りの度に競い馬が行われ、力強く草原に軌跡を残す。賑やかだった。時に黒馬を祖霊に祀るカラ・アット族の来賓が自慢の黒毛を連れて競った。
ドルジは弓の腕前は部族一だったが、競い馬でも若者の中では一二を争った。父にはついに敵わなかったけれども。
そうしたすべてが、まるで古老の伝承の中の話だったかのように、今のビュレの地にはない。
ドルジは弾き終わるとビザーンチを床に置いた。
「良いではないか。北戎の曲というのもまたおつなものよ」
酒でふらふらとした傑が気怠そうに手を叩く。ドルジは曲の中から現実に引き戻され、どう返していいものか戸惑ってひとまず拱手した。
「本来は馬が競うようにもっと速い曲調なのですが、俺にはこれが精一杯です」
「構わぬ。夜も次第に深まる。少しばかりゆっくりなほうが休息には丁度良い」
傑は手をひらひらとさせると、ふいに横たえていた身を起こした。
「好し」
立ち上がり、ドルジの片付けた酒杯を取ると、手酌で水を入れて飲み干す。ドルジは主の動向を椅子からじっと見守っていたが、千鳥足の主が穹廬の扉を勢いよく開いたところで、何事かと立ち上がった。
見事な朱に染まる空を背に、傑は気分良さそうにへらへらとした笑みを浮かべると、
「馬に乗るぞ!」
と、小走りしながら外へ出て行った。
ドルジはぎょっとした。
「何をおっしゃるんです! 酔いが回っているのに怪我をしますよ!」
「貴様こそ何を言ってる。余が落馬して死んだら僥倖ではないか。それとも余に情が移ったか」
陽気に笑いながら傑は駆け出した。まっすぐに走れず体が左右に揺れているが、厩舎への道は間違っていないので、頭ははっきりしているのだろう。
(あんたが死ぬのは良いけど、俺が殺さきゃ意味がないんだよ!)
「貴様に乗る前に馬に乗るだけよ、大したことないわ」
傑は厩舎に着くと、馬番に借りるぞと一言だけ声をかけて適当な馬に飛び乗った。すぐに腹を蹴り、馬を駆る。
「ああ、くそ! やっぱり落馬して首の骨でも折って死ね!」
ドルジも馬番に断りを入れると一番手前の馬に乗る。
「小宝! あど丘まれ勝負するぞ!」
着乱れた白い寝着を靡かせながら、遥か前で騎乗する傑が叫ぶ。呂律が段々と回らなくなってきている。
「何を考えていらっしゃる!」
「競い馬ら!」
ドルジはうんざりした。傑は酒に酔うと素面の時よりもいっそう突飛な行動に出る。本人は思うがままに行動しているだけだろうが、周りにしてみれば手が付けられない。
(だけど、前回のように突然兵士を切り殺すよりはましか……)
手綱を持ち、馬の腹を蹴る。否応がなしに傑を追わなくてはならない。
彼を止めるには文字通り命がけだった。いつも以上に理性のたがが外れているので気まぐれに切り殺されかねないが、決して王を乱暴に扱い、傷つけてはならない。
誰もが命が惜しい中、ドルジは王を制止するのにうってつけだった。切り殺されるのは少しは嫌であったが、宮中でずっと生かされ続けるのも好ましくなかった。王を乱暴に扱って殺してしまっても、或いは返り討ちにあっても、ビュレの民が続々と処刑される中、処刑を免ぜられ残されてしまったあの日ほど悔しい思いはしないだろう。軍の友はそれは自棄であると諭したが、否定はしない。言い得ているだろう。
(いい加減にしてほしいですが、今宵は俺も馬を駆りたい気分なんで付き合って差し上げますよ!)
一度現実に引き戻されたはずなのに、ドルジは不思議とまた曲の世界に没入した気分になった。赤く燃えた空が段々とほの暗い蒼色に傾く。薄闇にぼんやりと浮き出た欠けた月に、棚引く王の寝着、草原に馬、蹄に蹴られて風に舞う草――酒を飲まずともどこか酩酊させられそうな幻想的な光景だった。己が思った以上に憧憬が過ぎたのかもしれない。
ドルジは腰を浮かせ、膝を軽く抜いた。そよと吹く風を顔に浴びながら、夕闇に飛び込むように馬を駆る。やがて視界は茫洋とした草の海を捉え、先を駆ける主の背を目指す。馬の呼吸と風の呼吸をこの身に受ける。馬の背骨が己の背骨に続いて一体となるようだった。
(何て気持ちがいいんだ)
鼻から吸う息が草の青臭さを孕んでいて心地良い。思いっきり馬を駆るのも久しぶりで、王の御守をしているとは思えぬほど爽快な気持ちで溢れていた。時もしがらみも気にせずに、このまま遠駆けできたならどれだけ良いだろうか。
そう思っていた矢先、傑の体が馬上にぐらりと倒れ込んだ。
「危ないっ」
このままでは落馬してしまう。ドルジは内心舌打ちすると、競い馬の時のように前を目指して一直線に走る。砂埃を上げて傑のやや手前に回り込むと、傑の手から手綱を奪い取り、馬を制御する。互いの馬が速度を落とすと同時に、ドルジは馬から飛び降り、ずり落ちかけた傑の体を支えた。
「落ちて死んだらどうなされるおつもりです!」
怒りを露わにするドルジに、傑は不敵に笑う。
「落馬のせいにして殺すこともできるといったろう」
「お断りします」
「酔わせて殺すのは定石らぞ」
「おっしゃる通りですが、今はあなたを殺す気分ではありませんので」
何度馬上の体勢を整えてやっても、傑は左右に体を揺らしつづけ、まるで危なっかしかった。仕方なしにドルジは傑の後ろに乗り、二匹の馬を牽いて帰ることとなった。
「ドルジ」
傑がドルジの胸に頭をもたれかけて呼ぶ。名で呼ばれるのは珍しい。どういう風の吹き回しか穿っていると、傑は返事を待たずに続けた。
「北戎は本当に馬を駆るのが早いのだな。次に草原を訪れた時はきっと貴様に勝とうぞ」
「何をおっしゃるのかと思えば……」
これは見せたくもないと思っていた己の心の一部を開いた見返りなのだろうか。心のどこかで柄にもなく喜んでいる自分が恥ずかしく、ドルジは平生を装うよう努めた。
「また競い馬をするぞ」
ドルジは是とも言わなければ、首肯もしなかった。
「そうですね、皇上が素面でどれほど早く駆けられるのか見て差し上げましょう。でも俺には勝てませんよ」
「何だそれは」
「俺はビュレですから。曄人のあなたよりずっと馬の扱いに慣れていて当たり前でしょう。ビュレは馬上で育つと言われてるのをご存じで。俺たちは馬のことを“魂”と呼ぶのですよ」
傑はまどろみながら、幼子のように素直に、ふぅんと聞いていた。
厩舎の周りは複数の松明がちらついていた。恐らく傑とドルジが馬を駆った後、馬番が兵を呼んだのだろう。近づけば官たちが不安げな表情で厩舎の前をうろうろとたむろっている。ドルジたちを認めると、中からひときわ青ざめたようすの官が駆け寄ってくる。
「ちっ、程粛めがやってきたわ……」
傑がうんざりとしながら身を起こす。ドルジが禁軍に入るよう命じられた時に国家大綱を持ち出して反対した文官の弟だ。兄弟そろって王の節度に目を光らせている。
「ドルジ、先ほどのこと、誓え。好いな」
競い馬のことだと分かると、ドルジははじめて心の底から拱手し、是と返事をした。
皇上! と叫ぶ声がいよいよ間近になって、傑は観念して千鳥足のまま馬を下りた。
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