第7話

 しばらくして、人事の異動があった。ドルジは同輩たちの羨望の視線を得て傑王の傍付きとなった。傍付きとなった者は過去、皆将軍に値する地位についているので、羨ましがるのも当然であった。同輩がいかな手法で王に約束を取りつけたのかと興味本位で質問するが、ドルジは皆目見当がつかないと困惑を見せた。

 ドルジが困惑していたのはなぜ己が選ばれたのかではない。選ばれた理由ならば見当がついているからだ。そうではなく、これからずっとあの夜の出来事のように心安らかに休息をとることもかなわず、傑の床で組み敷かれるのかと思うと、恐怖と怒りが湧き上がるからだ。

 ある時、傑は自ら天下を巡遊すべしと言った。

「王こそ己の目で見聞きし、手ずから祭祀し、辺境の民に曄の威光を知ら示さねばならぬ」

 まだ平定したてで盤石ではない土地として曄北の遊牧民自治領を挙げ、巡遊の候補地とした。曄東北の滅亡したビュレ族の地をはじめとし、ビュレに加担し甚大な被害を受けたトゥルケ、ヨルワス。そして、それら東方三民族の敗戦を見て連盟に同意した遊牧八部族連合――セッキズ・カビーレ――の主要都市を巡るという。

 これらの土地は曄の都である凰都から遠く離れている上に、隙あらば盟約を取り付けようと遥か西方の騎馬民族たちが虎視眈々と狙いを定めている。特に遊牧八部族連合に属しているとはいえ、商人の多いブグラ族、傭兵の一団であるエイク族はいつ連合を脱退して裏切りを見せるか分からなかった。

 王座を空けるのを良しとしない臣下の一部は、将を派遣、駐屯すれば視察と牽制になると反論したが、傑は神話の御世より王は自ら巡幸して徳を広め、分け与える義務ありと一喝した。

 独善的で他の意見を取り入れぬ暴君の妄言だとドルジは唾棄したが、草原出身の先導者として傑に同行することが決まった。

 どんなに悲惨な生活を強いられているのだろう。

 ドルジは出立が近付くにつれ胸が痛んだ。ビュレが反乱したことにより、遊牧民たちの生活は奴隷のように厳しいものとなり、囚人のように厳しく監視されていることだろう。何の償いもできずにのうのうと凰都で飼われてきたどころか、今では王に同衾し、半身を差し出して快楽の駒になっている。顔向けできるはずもないのに巡遊の日は刻一刻と近づいていた。

 ドルジが遊牧民の土地に足を踏み入れるのは、実に四年ぶりであった。

 白毛の馬に跨り、傑を先導する。この白毛は本来傑が騎乗するのと同じく青毛として生まれるはずだったが、突然の変異により白く生まれたもので、吉祥の表れとしてカラ・アット族が巡遊を前に献上してきたものだ。貴様と同じ白い毛に青の目だ、と傑より下賜された。

 一軍に匹敵する巡幸行列に、ドルジは牧草となる草を踏みつけられるのが嫌だった。故に宿営地を決めたら一軍はむやみに牧草となる草を踏みつけず、宿営の町で待機するよう願い出たが、威光を知ら示すためには数で圧倒する必要があると聞き入れられなかった。

 曄の北方から出てすぐがビュレの旧領である。ビュレの反乱が鎮圧されて四年、領地は曄のものとなっていた。新たな道が開拓され、農地が広がり、寺院の建設が進んでいた。河川は治められ、所々に船着き場が作られている。新たに建設されたものはすべて曄の様式に則っており、赤や黄を基調とした色彩が周囲から浮いて不釣り合いだった。馬車も船も盛んに行き来し、何度も目に触れたが、反対に羊や山羊の遊牧の白い群れはいつまでたっても現れない。

(俺の知っている草原ではない)

 口に出すと動かざる事実になりそうだった。そんなことはない、とドルジは煉瓦で舗装された道を先導しながら心の中で頭を振った。本来であれば領土の西に位置する岩山には家畜が放牧されているはずだった。思いがけず遠くまで歩いていく家畜や、足場の見当たらぬ険しい高所にまで登る家畜を見かけては、あいつめと馬を走らせたものだった。

 だが、今や放牧の徒はどこにもいない。ドルジはどこか薄ら恐ろしい気持ちで道行く光景を眺めた。

 道の両側に点々と広がる農地を過ぎると、しばらくして村に当たった。砂土で固められた家屋があり、交易の拠点となっているのか、人々は色とりどりの布を地面に広げ、盛んに物を売り買いしている。

 ドルジは愕然とした。

(――曄だ。曄の町と一緒だ)

 顔つきを見れば遊牧民風の者が多かったが、家並みも服装も曄国の辺境を思い起こさせた。辺境の土地では、凰都のようにきらびやかで洗練されたものではなかったが、辺境の土着の文化と曄文化が混じりあって、垢抜けないなりに独特な風合いを感じたものだった。それが己の故郷で起こっている。

(ビュレの地は本当に曄領になったのか……)

 凰都に居ながら、ドルジはずっとビュレの誇りを忘れなかった。力強く、決して軟弱にしなを作ったりなどしない。ひらひらと鑑賞魚の尾びれのように靡かず、迎合しない。獣のようだと揶揄されても構わなかった。先人が築いてきた動物的な力強さと素直さは美徳だと考えていた。

 しかし、故郷の地は今や曄そのものである。曄に抵抗していた土地の風情はなく、むしろ進んで曄に内包されようとしているようだった。

 傑が村を通ると人々が歓声を上げて手を振ったのが何よりの証拠だった。

 色紙が空に撒かれ、花びらや穀物が撒かれた。万歳! 王を讃える言葉が飛び交い、それに傑が手を挙げ応えると、歓声や口笛はより大きな喜びの声に変わった。祭りのようだった。だが、祖先を祀る厳かで静かなそれとは違う、興奮と酩酊を孕んだ祭りだった。

 ふいに袖を引っ張られた。

 驚いて馬上から見れば、褐色肌の中年の女だった。

「ナツァグドルジ! ビュレの酋長の息子だったろう?」

 女は人懐こい笑みを浮かべながら、いかにもドルジを知っているふうに話しかけてきた。

「あたしはヨルワスのアルバト氏のクトクトゥの妻だったんだ。生き延びてここまで帰ってきた。夫は死んだけど、あんたがこうして出世するのを目にすることができて嬉しいよ!」

 ヨルワス族の女だったか。道理で顔を知らないはずだ。

 クトクトゥの妻は馬が闊歩するのに小走りで着いてきた。ドルジの袖を引っ張りながら、がっしりとした肩を小刻みに震わして涙を流している。

「あたしたちの暮らしは傑王のご配慮で段々と良くなってきている。セッキズ・カビーレは自治権ももらえたし、あたしたちもじき返してもらえるかもしれない。あんたのおかげでもあるわ。これで一族が滅亡してご先祖様を見捨てずにすむよ! 一族の文化を伝えていくことができる! 本当にあんたのおかげだよ」

 頭を大槌で殴られたかのようだった。まさか、遊牧民たちは皆斯様な思いで生きているのだろうか。もしかすると傑が女を金で雇って己にけしかけているのではなかろうか。

 ありえない、と思いながらもドルジは傑の差し金を疑わずには居られなかった。だが、すぐ前で手を振って歓声に応える傑にそんな素振りは見られない。それに、彼が回りくどい手を使ってドルジを屈服させようと考えるはずがないのは己自身がよく知るところだった。

「どうかこれからも傑王の元で頑張っておくれ! 頼んだよ!」

 何よりも、この女性の感謝の涙を――救われて流す美しい涙を疑いたくはなかった。泣き女のような芝居とは到底思えぬ。

「おばさん、ご無事で何よりです。お達者で。健やかなる人生が訪れますように……」

 何とかしてクトクトゥの妻に声をかけられたものの、冷え冷えとした気持ちは収まらなかった。

 建前上では確かに同盟だ。だが、誰の目からも明らかに、北方はいまや曄に支配されている。甘んじて曄の足元にひれ伏し、援助を喜んでいる。誰もビュレを讃えない。遊牧民の誇りとして散ったと両手を叩かない。心の底に生まれたはずの憎しみの種火は、曄の赦しによって速やかに消化されてしまった。

(でもおばさん、あなたのご主人が亡くなったのは、他でもないその傑王のだまし討ちが原因なんですよ!)

 もはや、東方三民族の反乱は遊牧民たちにとっても重大な過ちなのだろうか。その過ちのかたき討ちを亡霊のように未だ成し遂げようと狙っている己が愚かなのだろうか。少なくとも、さっきの女のように考えている遊牧民は少なくないのだろう。でなければ、巡遊の祝賀の列に向かって、曄万歳を叫ぶなどしないのだから。

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