対 ライオン⑥


俯せで地面に伏せていたサーバルは、きつく閉じていた目をゆっくりと開く。

何が起こったのか未だに理解が追いついていなかった彼女は、そこでようやく自分の置かれている状況を把握した。

次々と倒れてきた木をがむしゃらに避けていたものの、転がった倒木により逃げ場がどんどん失われてしまい。

最終的にできたのはただただ地面に伏せて身を低くし、目を閉じて衝撃に備えることぐらいだった。

その結果。

幸いにも、一度に無数の木々が倒れた故に重なってできた隙間にその身が収まり、押しつぶされることはなかったようだ。

この惨状を怪我無く乗り切れたのは奇跡だ。

自分は本当にラッキーだ。



――ただ一つ。



複雑に絡まった枝や重なり合った幹に、完全に身体が捕らわれてしまい、身動きが全くできないことを除くならば。


(どうしよう…!動けないよ…!!)


唯一自由な右手を動かして自分の上に重なる木の幹に手をかけるも、体勢が悪いことも相まってびくともしない。

ならばとその手で地面を掴むように爪を立て、腕の力だけで身体を木の下から引きずり出そうとするも、下半身が枝や幹で圧迫されていて動かせなかった。


「みゃ――」


必死にもがいていたサーバルは、大地を踏みしめる足音に動きを止めた。

顔と瞳を動かして正面を見る。


目と腕をギラギラと光らせるライオンが、舌なめずりをして立っていた。

その表情は、すばしっこい獲物をようやく捕らえた喜びに心なしか笑っているようにも見えた。


「あ――」


歪んだその笑みを見て、サーバルはゾッとする。

一歩、また一歩とライオンは確実に近付いてくる。


「う…う゛ぅー!!うみゃああーー!!」


このままでは、まずい。

サーバルは来るなと言わんばかりに、必死に牙を剥いて叫びながら動かせる右手で宙をひっかく。

なけなしの抵抗と威嚇に、ライオンはうっとうしげに眉を顰めたものの、足を止めることはない。

開いた指の先に鋭利な爪を光らせて、木の檻に捕らわれたサーバルへと迫る。


「みゃ……み……」


威嚇の声が、恐怖と絶望で喉の奥へと消える。

俯せの状態からライオンの姿を見上げ、サーバルは懸命に振るっていた腕さえも、ついには止めてしまった。

そんなサーバルの様子を見たライオンは、ニィと牙を剥いてほくそ笑んだ。

その時だった。



……ウオオオオオオオォォォォ……



雨音だけが響く夜の森に、細く長い遠吠えが木霊した。

サーバルだけを視界に捉えていたライオンは、その鳴き声に反応して頭を上げて視線を巡らせる。

目の前の絶好の獲物から、ライオンの意識が一瞬途切れた、そんな刹那。




トスッ…




消え入りそうな音を立てて、ライオンの背中に小さな石が飛来し、直撃した。

ぱちゃっと水しぶきを軽く立てて地面に落ちたその石に気付いたサーバルは、ライオンの背後に視線をやって、目を見はる。

オオカミの遠吠えに耳を傾けていたライオンは、痛くもかゆくもない、ただ癪に障ったその石ころが飛んできた方へと、ゆっくり、ゆっくりと振り返る。




サーバルとライオンの視線の先には、茂みから姿を現したかばんが、石を投げた姿勢のまま立っていた。




「食べるなら…」


投擲の姿勢のまま、かばんは低く呟く。

震えるその手できつく拳を握ると、顔を上げ。

ライオンをキッと睨み付けて声の限りに叫んだ。


「食べるなら、ボクを!!!」


理解しがたい出来事に愕然としていたサーバルは、一瞬間を置いてからハッとして、悲鳴に近い声をあげる。


「ダメだよ!!かばんちゃん、逃げて!!」


焦るサーバルの目の前では、ライオンが新しい獲物をまじまじと見つめていた。

爪も牙もなく、貧弱そうに見えるその身体はとても柔らかそうで、おいしそうで。

オオカミの遠吠えにより、サーバルから意識をそらされたライオンには、もはやその魅力的な獲物しか視界に入ってこなかった。


「グァオオオオオオ!!」

「ライオン!やめて!!かばんちゃんはダメだよ!!やめてよぉ!!」


サーバルの必死の叫びなど気にも留めず。

ライオンは大口を開けてかばんへと迫る。

かばんは暴れる胸の鼓動を無視して、冷静にライオンのその姿を見つめた。

まだ。もう少し。確実に狙いを定められる距離まで。


「――今だっ!!」


ライオンの爪の間合いに入る直前、かばんは手に握っていた【ある物】を、ライオン目がけて投げつけた。


「ガッ!?」


バシャッと音を立てて彼女の顔にクリーンヒットしたのは、雨で泥濘んだ土を器用に丸めて作った――泥団子。

たっぷりの水を含んだ土が目に入り込み、ライオンの視界を奪った。


「ガアアアアアアアアア!!」


予想だにしなかった攻撃と目に走る激しい痛みに、ライオンは苦悶の咆吼を上げた。

頭をぶるぶる震ったり、指を丸めた手で顔をこすったり、怒りにまかせて腕を振り回したりと、荒れに荒れる。

かばんはその隙に、ライオンの脇を走り抜けてサーバルの元へと急ぐ。

自分の力でなんとかなるかわからないが、それでもどうにかして、一刻も早くサーバルが身動きを取れるようにしてあげなくては。


「サーバルちゃん!」

「か、かばんちゃん…!すごいけど、無茶しすぎだよ!」


サーバルに乗りかかる木の幹に手を触れつつ、彼女の前にしゃがみ込むかばん。

サーバルは心配やら、安堵やら、感心やら、様々な感情がない交ぜになった複雑な表情を浮かべ、かばんを見上げる。


「待っててサーバルちゃん。今、動けるようにしてあげるから――」


急いで重なりあう木々の状態を確認し、かばんは頭の中でこの木の檻の解除方法を組み立てようとする。

そんなかばんを見つめていたサーバルが、彼女の背後にふと視線をやった瞬間、焦燥を含む叫びを上げた。


「あぶない!!!」


――しかし、その警告はあまりにも遅かった。

視界を奪われたライオンは、それでも獲物への執着心と怒りを収めることはなく。

聞こえてくる声を頼りに動きながら、ただがむしゃらに腕を振り回していた。

その、やけくその襲撃が。大きく振るわれたライオンの裏拳が。


運悪く、かばんの身体を捉えてしまった。


「ぁうっ…!!」


華奢で軽いかばんの身体は、その偶然の一撃でもやすやすと弾き飛ばされ、大地を跳ねた。


「かばんちゃん!!」


サーバルが悲鳴をあげる。

爪の一撃を受けなかっただけましではある。しかし地面に転がったかばんは、全身に走る鈍い痛みに体を起こすことができなかった。


「ぅ…」


なんとか瞳だけ動かし、ぼやけた視界にライオンの姿を捉える。


「ガアッ!グアゥ!!」


拳に手応えを感じたライオンは立ち止まり、指を丸めた手で顔をしきりにこすりながら憤りの哮りをあげていたが。


「――」


ピタリ、とその動きを止めると、だらりと腕を垂らす。

露わになったその目は赤く血走り、凄まじい形相で倒れ伏したかばんを睨み付けていた。


「…っ」

(動か、ないと…!)


睨まれただけで息が詰まる。それでも立って逃げなければと腕を動かし、手を地面についたものの、その腕に力を込めて身を起こすことはできない。

痛い。動けない。意識が飛んでしまいそうだ。


「かばんちゃん!かばんちゃん!!しっかりして!!――ライオン!!こっちだよ!!ライオンの相手はわたしだよ!!」


同じく大地に倒れたまま身動きができないサーバルが懸命に声をあげるも、その声はむなしく響くだけで。

血走った目をかばんからそらすことなく、ライオンは高々と爪を振り上げ、彼女目がけて一気に肉薄した。


「――!!――!」


サーバルがあげる悲痛な叫びが遠くに聞こえる。迫ってくる死を、直視できない。

かばんは倒れたまま目を伏せ、ライオンから顔を背けた。



ブンッ!!



振り下ろされたライオンの腕が、風を切る音が耳に届く。





ガキンッ!!!




硬い物がぶつかり合うような音が次いで耳に届く。耳に届いた。何故だ。

何の音だろう。何故自分の身体に少しの衝撃も訪れないのだろう。――何故自分は生きているのだろう。



恐る恐る目を開くかばん。

その目と鼻の先に、振り下ろされたライオンの鋭利な爪がある。

この爪が自分の顔まで届かなかったのは、きっとこの爪を受け止めている【角のような武器】のおかげだろう。

ぎりぎりと爪と武器が競り合う光景から瞳を動かしていくと、武器の持ち主の背中が視界に入った。


たくましく、頼りになる背中。

肩幅に開かれ、どっしりと地面を踏みしめる足。

武器と同様の形をした、雄大で風格のある角。




「――助けに来たぞ、かばん。サーバル」





ライオンと競り合いつつ肩越しに倒れたかばんを振り返った彼女――ヘラジカは、そう力強く発し、笑ってみせた。



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