対 ライオン①



…震えが止まらない。


嫌な予感があたってしまった、とサーバルは奥歯を軋ませた。

横目でかばんを見ると、彼女も自分と同じように顔から完全に血の気が引いてしまっていた。



百獣の王。



その圧倒的で、絶対的な力と風格からそう呼ばれることがあると、かばんは前にボスに教えてもらったのを思い出す。

たしかに、ヘラジカとの決戦について語っていた以前の姿は、親しみやすく気立てが良く、まさにライオン陣営の良き頭領――そういった意味では百獣の王だったといえる。


「グルルルル……」


激しい雨音の中でも響き渡る唸り声を牙の奥から漏らす、今の彼女の放つ殺気と威圧感は、これまで遭遇してきたどの野生暴走フレンズ達よりも強烈で。

あの時とは違い、本来の意味での百獣の王の姿を曝け出していた。

唸り声が耳に届くたび、全身の肌が粟立つのを感じながら、かばんは必死に息を殺した。


『…』


ライオンの手には、物言わぬラッキービーストが握られている。先ほどの亡骸と同じで、へいげんちほーの物だろうか。

全身に爪痕が刻まれ、目の光が完全に消えている。おそらく、もう手遅れだ。


「ガウゥッ」


ライオンはそのラッキービーストを持ち上げると、ガブリと体に噛みついた。

バキバキと嫌な音を立てて、まるでじゃぱりまんでも食べているかのように。

ラッキービーストの体は鋭利な牙と強靱な顎によってやすやすと食いちぎられてしまった。

その牙からはサンドスター・ロウが溢れ出していて、サーバルは息をのむ。

むき出しになった金属の体に、ライオンはどこか不愉快そうに表情を歪めると、ラッキービーストだったものを吐き捨てた。


「…っ!ふっ……ふぅっ…!」


未だにサーバルが押さえてくれている手の下で、かばんの呼吸は極度の恐怖と緊張で乱れる。


(怖い…怖いっ…!)


雨に濡れて体温が奪われた体が、背中を中心により一層冷たくなる。

がくがくと震えるかばんを見て、サーバルは空いた方の手を彼女の肩に回した。

触れあう体からお互いのぬくもりが伝わる。

その微かなあたたかさが、二人の恐怖を和らげ、心を静めさせてくれた。


(まだ、大丈夫…)


茂みの隙間からライオンの姿を確認したサーバルは、かばんの口を押さえていた手を離した。

そのまま人差し指を立ててそっと自分の口に当て、かばんに目で合図をすると、ゆっくりと慎重に姿勢を低くしたまま動き出す。

気付かれていない今の間に、匂いと音を隠してくれる雨に乗じてこの場を離れるために。


しかし――


「ゴルルッ…!」


すん、すん、と鼻で空気を吸い込んだライオンが短く呻って、辺りを見回し始めた。

場所まではまだわかっていないようだが、明らかにこちらの存在に気付いている。

なんで、と考えかけて、サーバルはハッとして自分の腕の包帯に手をやった。


血の臭いだ。


肉食動物としての本能が高まっている今の彼女は、その臭いにとても敏感なのだ。

手負いの獣は絶好の獲物なのだから。

サンドスター・ロウの影響で同じ肉食獣としての本能が一度呼び起こされたからか、なんとなくわかる。わかってしまう。


(どうしよう…)


かばんがこの危機に直面してしまったのは、完全に自分のせいだ。


考えることが苦手な頭を必死に巡らせ、サーバルは考える。

このまま慎重にこっそり逃げることは、おそらく不可能。血の臭いでいずれ気付かれてしまう。

ならば、いっそ猛ダッシュで逃げるか。

ライオンはパワーこそ絶大だが、スタミナがあまりないことぐらいは知っている。もしかしたら逃げ切れるかもしれない。


でももし、逃げ切れなかったら?

かばんとボスは軽いから抱えて走るぐらい余裕だが、さすがに走るスピードはいくらか落ちてしまうだろう。

そんな状態で、図書館まで捕まらずに逃げられるのか。

そもそも、ライオンに追われた状態で図書館まで行ってしまっては、そこにいる皆も危ないのでは。


そうなると、残された道は――


「…」


サーバルはちらりとかばんを振り返る。

真っ青な顔をしながら、それでも自分と同じで考え込んでいる様子の彼女。

きっと一生懸命、いつものように何か良い方法を探してくれているのだろう。

でも、今のかばんは自分のせいで大事な鞄を図書館に置いてきてしまっている。

ヒグマやワシミミズクを撃退した紙飛行機や火は使えないし、何か他の道具を使うこともできない。

そのせいか、やはり考えを巡らせているその表情は暗く、焦りがありありと滲んでいる。

ならば、やるしかない。


「…?」


見つめられていることに気付いたかばんが、思考を中断して顔をあげる。

サーバルは一つ深呼吸をしてから、無理矢理強い笑みを浮かべて親指を立てて囁いた。



「…かばんちゃんとボスは隠れててね」

「――」



かばんが声を発する前に、サーバルはライオンに気付かれぬよう素早く、かつ隠密に近くの木に飛びつき、一気に天辺までよじ登った。

できる限り枝を揺らさないよう、慎重に葉の中に身を隠しながら、枝伝いに木を移っていく。

ライオンの位置を上から確認しながら、彼女の進行方向にある木までたどり着いた。

一本の太い枝に目星をつけると、手でそっと押し、しなり具合を確かめる。適度にしなやかな枝だ。

サーバルはその枝の上で、息を潜めてその時を待つ。

ライオンが通る、その瞬間を。


(サーバルちゃん…!!)


かばんは虚空に伸ばした手を、静かに握りしめた。

止められなかった。彼女が何を考えていたのか、察するのが少し遅かった。


――サーバルは闘うつもりなのだ。百獣の王としての本能に染まった、ライオンと。


たしかに、この状況で気付かれずに逃げ切るのは難しい。

何か良い手段はないかと考えかけて、鞄を置いてきてしまったことを今更思い出し、激しく悔やんだ。

おそらく、その焦りが表情に出てしまっていたのだろう。

だからサーバルは、あんな無茶に出てしまったのだ。

何もできない自分の代わりに、この状況を打破するために。


(お願い…うまくいって…!!)


指を組み、ただひたすらにかばんは祈る。

おそらく、チャンスは一度。

ライオンには申し訳ないが、サーバルの不意打ちがうまく決まり、彼女を気絶させることができれば、自分たちが持っているお守り石で正気に戻すことができる。

もしそれが失敗したら――

いや、失敗なんてしない。大丈夫、絶対に。




ライオンは、自分の本能をくすぐる臭いの元がどこにいるのか、ぎろりと周りを見渡しながら歩く。

その視線は地上の茂みしか捉えておらず、まさか木の上で潜んでいるなんて、思ってもいない様子だ。

だんだんと、サーバルの待つ木までの距離が縮まってくる。

サーバルはごくり、と生唾を飲み込むと、ゆっくりと枝を握って足を曲げ、跳躍前の体勢をとった。


この枝のしなりを利用し、上ではなく下へと跳んで、ライオンに流れ星の如き拳骨をお見舞いする。

まだ何もこちらにはしてきていないのに殴ってしまうのは、いささか罪悪感も感じてしまうが、後で正気に戻った彼女にしっかり謝ればいい。

今は、かばんのためにも、そしてライオンのためにも、彼女に全力で立ち向かうしかないのだ。



――ライオンが、ほぼ自分の真下へとさしかかる。



(今だっ!!)


身を乗り出し、足に力を込めて一気に枝を蹴る!

強力な脚力を、しなる枝の弾力で強化して、サーバルはライオンの頭上めがけて飛びかかった。

野生解放の力を右手の拳に集めて。

跳躍と落下の力をかけあわせ。

全体重を乗せた渾身のネコパンチならぬサーバルパンチは。






――完全に無防備だったライオンの後頭部に、見事なほどに突き刺さった。



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