対 サンドスター・ロウ⑤
――もうどれほど離れることができただろうか。
サーバルは降りしきる雨を浴びながら、暗い、暗い森の中をただただ歩く。
一歩、また一歩と、もう見えなくなった図書館から離れていくのを感じつつも、振り返ろうとは決してしなかった。
振り返ってはいけないと、強く自分に言い聞かせていた。
(かばんちゃん…)
「あんな風」になってしまった自分の姿を見た後も、彼女はいつもと変わらぬ接し方で自分に優しくしてくれた。
だからこそサーバルの胸の内には、余計に申し訳ないという気持ちと、このままではいけないという気持ちが押し寄せてしまった。
あんなにも優しい友だちに対し、一瞬でも「おいしそう」だなんて思ってしまった。
彼女が持たない鋭い爪と牙を、自分は持っている。
…自分は危険な存在なのだ。なんで今まで気付かなかったのだろうか。
(かばんちゃん…うなされてたな…)
休息をとる際、かばんの横で目を瞑ったサーバルは、彼女に誘われた手前、一応眠りにつこうとはした。が、目が冴えてなかなか眠ることができなかった。
夜行性だから、という理由だけではない。
いつもは居心地の良い安心感を与えてくれる背中のぬくもりが、ひどくサーバルの心をかき乱したのだ。
かばんに抱きしめられたときのぬくもりと、あの時抱いてしまった負の感情が生々しく思い出されてしまう。
きつく目を瞑り、そんな心の乱れを強引に無視し続けていたサーバルの耳にしばらくして聞こえてきたのは、かばんの寝苦しそうな吐息だった。
心配になって身を起こし、彼女の顔をのぞき込んだサーバルは、かばんが悪夢にうなされていることに気付いた。
(きっと、わたしのせいだよね…)
接し方はいつもと変わらない。
でも、きっとかばんは少なからず抱いている恐怖心を、無理矢理押さえ込んでいるはずだ。
彼女は食べられそうになることに、とても敏感なのだから。
「…っ」
だから、一緒には居られない。居てはいけないのだ。
かばんの優しさに甘えていては、いつか彼女を傷つけてしまいそうで。
タイリクオオカミたちや博士のおかげで正気に戻ることができたものの、もう二度と暴走しないとは言い切れない。
またおかしくなっても、不思議じゃないのだ。
サーバルは必死に自分にそう言い聞かせ、足早に森を進む。
ひたすらに、自分の感情を押し殺しながら。
…自分の気持ちのコントロールに必死だったせいか、それとも降りしきる雨音が激しかったせいか、困難や戦闘で神経をすり減らしてしまっていたせいか。
些細な物音も敏感に捉えるはずの大きな耳は、完全に機能を失ってしまっていた。
――後ろから一直線に迫ってくる存在に、すぐ背後に気配を感じ取って振り返るまで、全く気付くことができなかった。
「――!!」
気付いたときには、どうしようもないほどに手遅れ。
振り返ってその影を視界に捉えたサーバルは、飛びかかってきたそれを受け止めきることができず。
抵抗する間もなく、共にもつれ合うようにしめった地面の上に倒れ込んだ。
しまった、なんて後悔する余裕もない。
仰向けに倒されたサーバルは、真上から力強く両肩を押さえ込まれ、思わずきつく目を瞑った。
目を瞑りつつも、この襲撃者にここでやられてしまえば難しいことを考えて悩む必要もなくなるのかな、という考えがわずかに頭をよぎる。
しかしいつまで待っても、自分を押さえ込む息の荒い襲撃者は、危害を加えてくる様子がない。
サーバルはゆっくりと目を開き、そして見た。
「――…!!かばんちゃん…!?」
泣きそうな顔をして息を切らしながら自分を見下ろしているのは、あまりにも予想外の人物だった。
「やっと…追いついた…」
ぽかんと口を開けて固まるサーバルに、かばんは呼吸と気持ちを落ち着けるために一度深呼吸をしてから、無理矢理笑顔を作ってみせた。
「…今回の狩りごっこは、ボクの勝ちだね」
地面に押し倒されたサーバル。そんな彼女を上から押さえ込むかばん。
いつかの光景と、立場が全く正反対だった。
「なんで…なんでかばんちゃんが、こんなところに…」
「それはボクのせりふだよ」
未だに状況が飲み込めない様子で言葉をこぼすサーバルに、かばんはほんの少し口調を強める。
「こんなところで何してるの、サーバルちゃん。――どこに行くつもりだったの?」
「…」
またも目をそらすサーバルを見て、かばんは彼女の肩に置いた手にキュッと力を込めた。
「…サーバルちゃん、ロッジで言ってくれたよね。今までずっと一緒に冒険してきたんだから、今更置いていったりしないでよねって」
サーバルの耳が、ぴくりと動く。
背中を濡らす雨粒を感じながら、かばんは震える口で息を吸う。
「――今までずっと一緒に冒険してきたんだから…今更置いていったりしないでよ…」
そっくりそのまま返された自分の言葉。
しばし流れる沈黙。
サーバルはかばんから視線をそらしたまま、ようやく口を開いた。
「…わたしだって、かばんちゃんたちと一緒にいたい…一緒にいたいよ…。でも、きっとこのままじゃダメなんだよ…!」
サーバルはかばんから目を隠すように、顔の上に腕を乗せた。
「わたしってドジだし、全然弱いから、きっとまたケガして、暴走しちゃって、そのうち、かばんちゃんの、ことも…!」
途切れ途切れになるサーバルの声に、かばんは黙って耳を傾ける。
「ごめん、ごめんね…!わたし、さっき、オオカミたちに治してもらう前にね、かばんちゃんのこと、おいしそうって…思っちゃった…!!さいてーだよね…!!かばんちゃんは、大事な大事な、友だちなのに…!!」
顔を覆う腕の下で、涙が目尻から伝って地面に落ちていく。
泣きじゃくるサーバルに、かばんの胸がまたずきりと痛んだ。
自分から距離をとったり、いつもと反応が違ったり、こうやって黙って去ったりしようとしたのは、全て自分を傷つけないようにするためだったのだ。
サンドスター・ロウによる精神汚染で無理矢理本能を刺激され、サーバル本人が一番不安で、苦しんでいるはずなのに。
正気と暴走状態の狭間で苦しんでいたサーバルを見て、少しでも恐怖して足を止めてしまった自分が、改めて不甲斐なく思う。
たとえ夢の中の話であっても、サーバルのあんな姿を思い浮かべ、拒絶してしまった自分が情けなく思う。
一番そばにいる自分が、今までずっと一緒にいた自分が、受け止めてあげられなくて、どうする。
今まで助けてもらい続けていたのだから、今度は助ける番だ。
かばんは、覚悟を決める。
サーバルの肩から手を離し、背筋を伸ばす。
サーバルは依然かばんの下で地面に倒れこんだまま泣きじゃくっている。
「サーバルちゃん」
名前を呼ばれ、大きな耳がぴくっと動くも、サーバル本人は動かないままで。
小さく息を吸い、かばんは優しく、包み込むような声色で囁いた。
「――ボク、サーバルちゃんになら…食べられてもいいよ」
かばんは、ずっと乗っかったままになっている足の間で、サーバルの体が一瞬硬直するのを感じた。
顔を隠し続けていた腕をはねのけ、サーバルは飛び上がるように上半身を起こす。
かばんのおでこと、自分のおでこがぶつかりそうなほどに、顔を近づける。
「たっ…食べないよ!!」
全力で否定するサーバルのまだ涙がにじんでいる目と、そんな彼女を正面から真っ直ぐ見据えるかばんの目。久々に二人の視線が交わった。
「ボクって、おいしそうなんじゃなかったっけ?」
久しぶりに目を合わせてくれたことが嬉しくて、かばんは少し意地悪な笑みを浮かべる。
サーバルはぶるぶると頭を振った。
「い、今は全然、そんな風に思ってないよ!!ぜんっぜん、おいしそうじゃないよ!!」
「そっか。それじゃあ、だいじょうぶだね」
あっけらかんとそう言い放ち、かばんは立ち上がってサーバルに手を伸ばす。
完全に面食らった様子で固まっていたサーバルだったが、後ろめたそうにうつむいた。
「で、でも…さっきも言ったみたいに、またおかしくなっちゃうかもしれないし――」
「ならないよ」
短くも、力強い一言に、サーバルは顔をあげる。
「サーバルちゃんは弱くない。それにもしケガしちゃっても、ボクがすぐに手当てしてあげる。暴走しかけちゃっても、ボクが目を覚まさせてあげる」
かばんは一歩踏み出し、伸ばしたままの腕をさらにサーバルへ近づけた。
「どんな風になってもサーバルちゃんはサーバルちゃんで、ボクの友だちなんだから。サーバルちゃんが嫌だって言っても、ボクは絶対一緒にいるって決めたからね」
今までのかばんからは想像できない、わがままで強情な発言。
なのに、優しさと温かさに溢れていて。
サーバルは顔をくしゃくしゃにしてまた泣き出しそうになってしまったけれど、それをぐっと飲み込み、かばんの手を、確かに握り返した。
「――…かばんちゃんは、やっぱりすごいや」
腕をひかれ、サーバルは立ち上がる。二人は見つめ合い、いつものように笑いあう。
ようやく二人の間に、今までと同じ空気が流れ始めた――
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