ずっと昔から、沙那はその想いに気付いている
古びた教会というものは趣があるものだ。
誰もが殊勝な気持ちを抱いて足を踏み入れる場所だけに、調度の全ては慈しみをもって扱われ、傷や劣化の速度に似つかわしくない時をそこにたゆたう。
さればこそ、床が、椅子が、柱が、壁が、長い年月のあいだ人の祈りを一つ一つ吸い込み続け、それぞれが神格化したような威厳を放つ。
黒く油を吸った木材は触れる者に安らかな気持ちを運び、白く磨かれた石材は目にした者に将来の幸福を連想させる。
そのような地で約束を交わした者は、一生の祝福を神から与えられる。
これを信じるに、何の迷いなどあろうか。
信じるに
……だが信奉者を、そして主を失った教会は、果たして教会と呼べるのだろうか。
建材が吸い込んだ人の願いが
荘厳は
現実との
そんな場所に、二人の悪魔がいた。
紫がかる黒髪を持つ悪魔がにらむ先には、対照的に白い髪を持つ悪魔が立つ。
そこに敵意は一方的に存在し、友愛は微塵も存在していなかった。
「…………吐き気がするね、この場所は。そう思わないかい?」
「こと、教会については同じ意見だぜ。……けどよ、この場所をバカにしやがったら容赦しねえ」
「容赦か。今の僕に必要のないものだ。存分にその殺意を剥き出しにするがいい」
彼女にとって、この場所は特別なのだ。
当人である自分すらこの場所を忘れていたというのに、一体、この男の赤い瞳には何が映っているのやら。
未だ、この建物が陰鬱を蓄積しない頃の話。
大切な約束をした場所。
…………決して、こいつが足を踏み入れてはいけない場所。
彼女は
「悪趣味な野郎だ。……ここで、何をする気だ?」
「もちろん、この場所で彼と交わした約束を取り消してもらう」
「ふざけんなっ!!!」
顔を赤くして、奥歯をバキリと鳴らしているものの、黒髪の悪魔は飛びかかるような真似をしなかった。
それは彼女の怒りを膨らませることはあっても、決して晴らす行為にはならないと分かっていたからだ。
男に相対するに際して、彼女は絶対的に不利な罰を背負う。
だがこの場合、それは些事に他ならない。
圧倒的な力の差は、何度も見せつけられている。
殴りかかろう。
そう考えた次の瞬間、自分は地を舐めていることだろう。
彼女が悔しさのあまり唾棄する様を無関心に
「悪魔が、教会で誓うなど何の冗談なのか。……雫流が来たら、幼かった頃の君が、あの雨の日にここで彼と交わした約束を反故にするんだ」
「絶対に嫌だ」
「ふふっ。それが決して叶わぬ約束だというのに?」
「確かに、姫はあの赤毛ザルの事好きみてぇだけどよう。……叶わねえかどうか、そんなこたぁまだ分からねぇだろ」
「やはり、君はそう答えるんだね。…………なあ沙那、僕の願いを知っているかい? それが、絶対に叶わないものだってことを」
割れ窓から差し込む淡い光のカーテン。
それを素通りする粒子が二人の間を揺らめくと、ひときわ大きく輝きながら、男の頬を伝うように落ちた。
しばらくの間、二人は古びた床板を軋ませることも無くじっと見つめ合う。
何年も、何年も。男が抱き続けてきた想い。
それを知っていながら決して口には出さなかった黒髪の女は、意を決してその領域へと足を踏み入れた。
「…………ウチは、気付いてたぜ。でも、気付かないふりをして来たんだ」
それまで身じろぎ一つ起こさなかった男が、これを聞いて床板を軋ませる。
柔らかく、しかし自虐的な笑みを口端に湛える。
「お前は、雫流を殺したいんだろ? でも、そんなことしたって何の解決にもならないだろう。あいつは転生する。そして、同じことが繰り返されるだけだ」
「いや、繰り返さないさ。……そのために、これが開いたんだから」
男は、赤い瞳が自分の願いを叶えるために開いたとでも言わんばかりの言い方をしたのだが、黒髪の女はそれを
だが、魔眼が彼の願いを叶えるとはどういう意味か。
その答えは、彼女から冷静の仮面を剥ぎ取るに十分だった。
「……これだけの魔力があれば、僕は彼の存在を消滅させることが出来る」
「雫流を転生させない気か! 貴様、そこまでして……っ!」
思わず一歩、力強く踏み出した足はうず高く積もった塵を巻き上げる。
それは光の中を舞い上がり、悲しそうな笑顔を浮かべた白髪の悪魔を霞ませた。
雫流を消滅させる。
その言葉の意味を知って、女は青ざめた。
だがそれと同時に、彼に対してぞっとするほどの親近感を得ることになった。
白く握りしめた拳がギリリと音を鳴らす。
その怒りは、目の前の男に向けられたものなのか。
それとも、共感してしまった自分への戒めか。
「……てめぇがやりたいことは、全部分かった」
「まあ、同じ境遇の君なら分かるだろうね。……一応、聞いておこうか。僕は雫流の存在を消した後、どうすると思う?」
「…………自分自身の存在も消す気だろ」
男は、目の前に垂れた前髪を指で掬い取る。
その仕草に、肯定の意味は含まれていなかった。
だが同時に、彼女の言葉を否定もしなかった。
黒髪の女が言ったことは
と、するならば、その言葉が何を意味するのか。
何年間もの間、男が抱き続けてきた想い。
それを知っていながら決して口には出さなかった。
……彼女は、ついにそれを明確な言葉として白髪の悪魔から引き出した。
「てめぇはそこまで………………、雫流のことが好きなのか」
「…………ああ。愛している」
女は、知っていた。
ずっと前からそのことに気付いていた。
自分たち三人は、一人だけが歪なベクトルを抱いた三角関係だということに。
「……君だけなら良かったんだ。僕はこれでも、君たちが付き合うことになるのなら構わないと思っていたんだ。……それなら、ずっと三人でいられたからね」
男の声に、気遣いや自己暗示は感じられない。
これは真実なのだろう。
「そんな時、紅威君が現れて焦ったのさ。僕は、彼と共に歩めなくなる。それでもなんとか一緒にいられる術を探したよ。……でも、そんなものはどこにも無かった。だから、彼が誰の物にもなる前に、僕と共に消えてもらうことを選んだのさ」
「……そこであの赤毛を消したいと思わねえところが優男なてめぇらしいけどな」
「優男だって? ……違うね。雫流が言う世界では、彼女のように無私な者が幸せになるべきなんだ。彼女を傷つけることは、雫流の想いに反するからね……」
黒髪の悪魔は、自分とは真逆の位置から同じところへ辿り着きたいと願った白髪の悪魔を力なく見つめた。
なんと歪な愛情か。
…………そして、なんと誠実な愛情か。
「ただ、彼を消すに当たって一つだけ心残りがあった。それは君だよ、沙那。……君とは長い付き合いだ。先攻を譲ってあげたんだ」
「それで川に落としやがったのか」
「そう。雫流に、三角関係に答えを出すよう言ったうえでね。でも、彼は君との死を拒否した。君は愛する雫流と共に死ぬことが出来る機会を失ったのさ……」
黒髪の魔女は、呆れと同等のレベルで感心していた。
もしも自分が同じ立場にあったなら。
自分はこいつに機会を与えるだろうか。
だが、どれだけ感心しようとも、許容などできるはずは無い。
彼女は、狂気という名の蜜に惑わされることの無いよう自分に言い聞かせた。
……雫流との約束。
それには、条件がある。
この場所で、丁度ヤツが立っていた辺りの椅子に隠れて言った言葉。
雫流が、とうの昔に忘れてしまっている約束。
今後一生、何があってもお前を守ってやる。
だから…………、あたしと…………。
「……へへっ、すげえ約束。我ながら、思い出すだけでてれくせぇっての」
目を閉じて、太い息をつく。
長く、長く息を吐く。
女は、愛しい姫のとぼけた困り顔だけを胸に、余計な事を考えるのをやめた。
すると、異様なシチュエーションに浮ついていた思考がクリアーになっていく。
緊張していた四肢もほぐれて、いつものだらしない姿勢に戻って行く。
なんて自分らしくないやり取りをこいつとしていたのか。
そう言えばずっと、そんな感じで過ごして来たな。
…………ウチらしくねえ。
再び、女がため息をつく。
そしていつものように髪をボリボリ掻きながら、急に気軽なトーンで話し始めた。
「……やれやれ、変な野郎だとは思ってたけどよぅ。もうちっとなんとかならんかったのか? 雫流以外にもいい男一杯いんだろ。てか、まず女ぁ選べや」
「愚問。僕には、雫流以外いないよ」
「それにしたって、魔眼まで使ってんじゃねえよ、バカか? ……それ、いつ開いたんだよ」
「入学前にね。天使が言うには、美優様によって落ち着くまで調教されると言われていた。心して向かった先で、逆だと笑われたけどね。……自分にまっすぐに生きろと、そのためにはコレを遠慮なく使えと、そればかり言われたよ」
急な変調、無駄話。
興がそがれた赤い目の悪魔は、黒髪の女――さっきから嫌味な笑顔を浮かべ始めた黒髪の悪魔へ背を向けた。
……気配を感じる。
必死という物が物理的なプレッシャーとなって、この地へ近づいてくる。
「ウチはあの人苦手だけどよ、いいこと言うじゃねえか」
「……無論。美優様は素晴らしい方だ」
「はっ! そぉんなこと欠片も思ってねぇじゃねえか、ウソついてんじゃねえよ!」
無視を決め込もう。
そう感じていた男だったが、看過できない言葉を浴びせられ、半身で振り向く。
「…………僕の忠義に、ケチを付ける気かい?」
男の視線の先には、いやらしい企みを顔面に張り付けた女がいた。
へへへと笑い、神経を逆なでする女がいた。
「だってよぅ、てめぇ全然まっすぐに貫いてねえじゃねえか。なあにが、雫流を殺して自分も死ぬだ。……まっすぐ生きるんだったら、まずは告ってみろっての!」
「君も出来ていないだろうに。……だが、その意見は正しいね。だからかな、僕の中で、僕がずっと悲鳴を上げている」
この返事を聞いた黒髪の悪魔は、笑みをさらに醜く歪めた。
…………確信に至ったのだ。
「ようやく尻尾ぉ出しやがったな。これで本当に全部わかったよ。てめぇの中にいるんだな、あのいけすかねぇ野郎が。…………じゃあ、てめぇは誰だ?」
「どういう意味だい?」
「てめえは、フルーレティだ」
「何を当たり前な事を……」
「ウチがずーっとめんどくせえライバルだって思ってて、雫流を取られちまったらどうしようって悶々としてた相手は、てめぇじゃねえ! 治人だ! ぽっと出の赤目野郎にでかい顔されてたまるかよ! おととい来やがれ!」
「……治人は、僕の長い歴史の中の一部さ。そんなことも分からないのかい?」
「ああ、知らねぇな!」
つい先ほどまで理知的な会話をしていた女とは思えない。
フルーレティは、このうるさい、知性の欠落した悪魔に退場を言い渡そうと魔力を練った。
だが、両開きの扉に目を向けながらその考えを改めた。
「……少なくとも、君との思い出を彼は忘れていなかったようだよ? 羨ましい。その恨み、君を殺さないことで晴らしてやる。雫流のいない世界で一人、生きながらえるがいい」
「ひでえサディストだな。でも、そりゃあ勘違いだぜ。あいつは、GPSでここにたどり着いただけだ。……最低な気分だぜ」
そう言って黒髪の女が携帯を振る姿を、白髪の男は見ずとも把握した。
……まあいい。
せめて最期に、暴れるだけ暴れて舞台を盛り上げてくれ。
彼の見つめる先で、両開きの扉が開く。
さあ、すべてを終わらせよう。
感慨に浸る男の後ろから、ぼきりと指を鳴らす音が響いた。
「止める気は無いけど、君はやはり邪魔をする気なんだね」
「いんや? 今すぐ助けてやっから、一生恩に着ろ」
またも予想外。
男は眉間に深いしわを寄せて不機嫌を露にする。
「……どういうつもりだ、貴様」
吐息から漏れる瘴気。
そんな、猛烈な彼の怒りを気にも留めずにヘラヘラといやらしい笑顔を浮かべた女が得意の拳を構える。
「てめえはいけすかねえ野郎だ。なんたって、わざわざウチが好きになった男を好きになりやがった奴だからなぁ」
腰を落とし、足を固める。
「だから………………、へへっ、フルーレティ。……貴様を倒してやるぜ!!!」
そして長い黒髪を引いて突撃した悪魔が、渾身の拳を突き出した。
「ウチが目を覚ましてやるぜ! 待ってろ、はるひとぉぉぉぉぉっ!!!!!」
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