あの日の俺は、寂しくて泣いている


 自称、恋愛経験十日間の姉ちゃんから。

 他称、恋愛経験一時間の俺へ、恋のアドバイス。


 『勝利する男は、モテる』


 そんな言葉と共に暗号なんか出されたら、いやおうでも気合が入るというもの。


 だがしかし。

 俺はこうして、モテ男、あるいはモテ女の誕生を、指をくわえて眺めていることしかできなかった。


「姉ちゃん。俺が今言いたいこと、わかるか?」

「気持ちは嬉しいけど、法律を改正するまでちょっと待っててね?」

「今のセリフを求婚と勘違いする女とは結婚しねえ」


 習字を上手く書けたのがよっぽど嬉しかったんだろう、姉ちゃんはさっきから、ご機嫌な様子で俺の首に抱き付いている。


 鬱陶しいので席を立ってみたものの、肩にかかっていた重みが喉に移動しただけ。

 さらに厄介になった。


「で? 言いたいことって何よ」

「勝利する男がモテるとか言っといて、俺は参加できねえとか。おかしいだろ」


 この感覚、よく駅前の本屋で体験することがある。


 表紙のあおり文句。

 周りの目を警戒しながら素早く雑誌を手に取って、めくってみたら袋とじ。


「せっかくやる気になったのに。このやる気をどこにぶつけたらいいんだ」

「しょうがないでしょ? だってしー君、チートみたいなもんなんだから」

「反則って意味だったっけ。どこが?」

「本棚の奥に本命を隠すところが」


 やばい。

 急いで引っ越しさせないと全部燃やされる。

 金パツインテのせいで、俺の半身が風前の灯火だ。


 暗号が書かれた半紙に群がる四人。

 それを眺めながら転居先を考えていた俺に、治人の抑えた笑い声が聞こえた。


「笑うんじゃねえよ、他人事だと思って……」

「あはは、余裕だね。勝負の真っ最中だってのに」

「そりゃ余裕あるさ。見学だしな」

「バランスを取って僕も手を出さないわけだし、いいじゃないか」

「だからって三対一だぜ? めちゃめちゃ不利だ」

「あら、随分と安く見られたものね。ちょうどいいハンデじゃない?」

「言うねえ。がんばれよ、花蓮」


 顎に手をやりながら頭をフル回転させている金パツインテ。

 応援してやったものの、どう考えても圧倒的に不利なこの状況だ。

 手を貸してやりたい。


 そもそも、三対一ってことは……。


「二人はそいつの邪魔をしなさい。暗号は私が解く」

「ははっ! 任せな!」


 やっぱり、こうなるよな。


 絵梨さんの指示でキースが動く。

 金髪の猛獣は花蓮の前に立って、その端正な美貌に噛み付くんじゃないかとばかりに顔を寄せた。


「ってわけだ! 悪く思うんじゃねえぜ!」

「無駄よ。あんたじゃ私を止めることはできない」

「ははっ! これを食らっても同じセリフを吐けるってのか!?」


 罰の効果で破壊力が増した拳を構える猛獣。

 その狂気が、抗う術を持たないウサギへ無情にも振り下ろされた。


「ごひんっ! いだぐない!」

「何度だって言える。好きなだけやればいい」


 花蓮の言葉に、驚愕の表情を浮かべながら後ずさる三バカ。

 その背後には雷のエフェクトが見える。

 

「な……、なんて女。さすが多羅高の電子頭脳。きっと心も無いのね」

「あんたたちの方が無慈悲だと思うけどね」


 うん、まったくだ。

 綴夢ちゃんを殴って足止めとか、お前らの方が断然酷い。


 一歩引いた三人を捨て置いて、花蓮は半紙を事細かに観察すると、今度は紙を回して縦に眺めだした。


 そんな様子を見ていた絵梨さんが、頬を膨らませながら半紙を取り上げる。

 子供か。


「これは没収」

「こら! 返しなさい!」

「……キース」

「任せろ! てめえの相手は俺様だ! 食らえ!」

「ごひん! いだくない!」


 ああもう、手ぇ出しちゃいけないとか、俺には拷問だぜ。

 綴夢ちゃんの涙、決壊寸前だっての。


「花蓮には効かねえから! それ、やめてあげて!」

「そうだね。使い方次第じゃ最強なのに」


 完全に観客気分で見守る俺と治人。

 そんな俺たちの前で、四人が入り乱れて姉ちゃんの傑作を奪い合う。


 だが、ここで花蓮の弱点が露呈した。


「ははっ! 届かねえだろうが! 絵梨、パース!」

「ほらほら。頑張って飛び跳ねなさい。ノミのように」

「くっ! このっ!」

「ひでえ勝負だな。花蓮、そんなに飛び跳ねてたらやらかしちまうぞ?」

「やらかさないわよ! あんた、あたしのことなんだと思ってておっとっと」


 期待を裏切らないドジっ子だと思ってるけど。


 でも、そのドジは罰の効果なわけで。

 ここには罰によるダメージを全部引き受けちまう綴夢ちゃんがいるわけで。


 足をふらつかせた花蓮は吸い寄せられるように綴夢ちゃんに抱き着くと、オレンジ髪の不憫ちゃんを押し倒した。


 そんな綴夢ちゃんがすがりついたのは、よりによって絵梨さんのスカート。

 見事にそれを引きずり降ろしながら、顔面から床に落下。


「いたた!」

「いだっ! ……くない!」

「……なにをするの」


 ……さてここで、わが軍の被害報告ダメージレポートを確認しよう。


 花蓮隊のコンディション、フリル付きのイエロー。注意が必要だ。

 綴夢ちゃん隊のコンディション、毛糸のオレンジ。再編成が必要な状況。まずは退却を命じないと。


 そしてコンディション、フォーゲットミーノットわすれなぐさいろ

 タイトスカートの中、Yシャツの裾にアンブッシュまちぶせしていた絵梨さんの部隊。


 高級そうな生地にきめ細かな刺繍。

 この隊、最大の特徴は…………。


「細っ! うそだろ!?」


 なんだそれ!

 上品で高級そうな下着ってのは絵梨さんのイメージ通りなんだけど、細すぎ!


 あんなので隠せるのもなの!?

 いや、もちろん隠れてたけど!

 それにしても、あんなの見せられたら……。


「ドキドキ砲、一斉発射!」


🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦ガガガガガガガガンッ!


「いだだだだだだだだくないっ! ………………ふええええええええん」

「すんません! 俺の思春期が本当にすんません!」

「治人様。見苦しい姿をさらし、申し訳ありません。そして貴様は死ね」

「その冷たい目はやめろ! 何も見てねえ!」


 ……ってことにさせてくれよ、姉ちゃん、花蓮。

 そんなジト目でにらむんじゃねえ。

 ガン見してたことがバレちまうだろうが。


「そらはしてめえ! 見たのかコラ!」

「なんでてめえがムキになるんだよ。見てねえよ」

「ああ、面倒。面倒だけど、確認させて。私の下着を見たのならマル。見てないならバツ。はっきり示しなさい」


 スカートを引き揚げながら、絵梨さんがナイフのような視線を飛ばしてくる。


「もし……、見てたって言ったら?」

「そんなに見たいのなら仕方ない。見た方の目に、下着を突っ込む」

「見てませんっ!」


 高速お辞儀。ぴったり九十度。

 俺の両目にそんな幸せな死に様をさせないで!


「マルなのか?」

「違います!」


 お辞儀のまま、手を頭の正面でクロス。

 もちろんバツを表現したつもりだったんだが、勢い余って、自分の手でヅラをふっ飛ばした。


「ほう、まさか頭に返事を書いていたとはな」

「なんのこと? …………はっ!? 違う! これはみかんの缶の跡!」


 うおぉぉい! ハトのやろう、まさかこれを狙って缶を押し付けてきたの!?

 どんだけ未来予知できるんだあいつら!

 

「よし。では、罰を遂行しよう」

「やめてくれ! スカートに手を入れるな! めちゃくちゃエロいっ!」


🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦🐦ガガガガガガガガンッ!


「ふええええごががががががががええええええん!」

「うおお! 綴夢ちゃあああん! って、お前は毎度さぼってんじゃねえよ!」

「……あ」


 絵梨さん名物、手遅れ祝福ブレスがマジ泣きする綴夢ちゃんを包む。


「いつもながら役立たずが過ぎる。お前の罰さ、綴夢ちゃんを守ることなんじゃねえのかよ」

「ああ、少し助かった。お前のヅラのおかげで、ちびちゃんの被害は最小限」


 なるほど、俺の毛ルメットが綴夢ちゃんの頭にすっぽり。

 後ろ前だけど。

 あれなら被害も最小限だな。


「ふええええええええええ! 痛くないけど、なんか臭い!」

「傷ついた! 俺の心が痛いわ!」

「変態。それが外れるといつもいつも面倒なことになるから、くっ付けときなさい。目印もあるし、ここに接着剤を塗ればいいのね?」


 花蓮がどこに持っていたのやら、ワカメをくっ付けたときの接着剤を頭に塗る。

 そして毛ルメットを綴夢ちゃんから取り上げて、俺の頭にカポンと被せた。


「おお、一瞬でくっついた。どんだけ引っ張っても取れねえぜ。これでようやく、だめじゃね?」


 えっと、このまま毛が生えて来たらどうなるんだ?


「はあ。いつも以上に騒がしいわね。……美嘉、どこか落ち着くところでお茶でもしていましょう。じゃああんたたち、頑張りなさい」


 俺たちのドタバタに頭を抱えた姉ちゃんが、美嘉姉ちゃんと共に部屋を出ていく。

 だがその後に、花蓮もしれっとついて行った。


 なるほど、二人がどっちに向かうか、そのアクションから答えを探る気だな?

 

「……なるほど。私達も後を追うわよ」

「うええ……、ひっく」

「うぜえなてめえは。おら、とっとと行くぞ!」


 キースに強引に引っ張られた綴夢ちゃんも、絵梨さんの後を追って廊下へ出る。

 さてそうなると。


 残ったのは、俺と治人の見学コンビ。


「……紅茶でも飲む?」

「いや、要らないよ。それより、さっきの暗号、雫流は解読できたのかい?」

「まさか。どう考えたらいいのか見当すら付かん」


 暗号なんかより、まずは飯だ。

 ゲストの皆さんがいなくなったことだし、余ったパンをいただくとしよう。


「考え方か。そもそも、数字の暗号なんて解法が無限にある」


 俺がエクレアを皿に取って頬張ると、治人が解説を始めた。


「普通は相手と解法についてのキーを決めてやりとりするもの。つまり、読めるはずが無い物なのだ」

「でもさ、それを問題にしたってことは、読めるってことだろ?」

「……まあ、ヒントは確かにある。それは、ゼロという数字だ。アルファベット変換ではないということが容易に分かる」

「お前は間違ってる。俺にはまるで分らん」


 紅茶飲みてえな。

 ポットはあるけどカップがねえ。

 いいや、ちょくで。


「……野蛮だね。ラグビーなんかじゃ未だに見かけるけど」

「あれはヤカンだろ? このティーポットの方が断然おしゃれだ。野蛮じゃねえ。それより、アルファベットって何さ」

「順番をそのまま数字に変えるんだ。1ならA。2ならB。……なあ、ポットから口を離さないか?」

「口を付けずに飲めってか? おお、なんか宴会芸みてえだな」


 口から離してポットを正面に構える。

 それを傾けると、面白いように自分の顔は上を向いていく。


 残りちょっとになった紅茶。

 慎重にポットを傾けて、やっと出てきたと思ったら結構な量がどばあ。


 で、鼻からIN。


「ぐほぉっ! いって! うえーっほ!!」

「……相変わらずだね、君は」

「このおもしろ体質がそう簡単に変わるかよ。……もう一度」


 再び顔の上にポットを構えてみたものの、ほんの少ししか口から垂れてこない。

 ええい、あとちょっと!

 も少し飲ませろ!


「もうやめておきなよ」

「いや、この最後の滴が……、このっ! ゴールデンドロップと言ってうわあ」


 蓋、落下。

 当然お茶っぱが顔面にどざあ。


 ここまでやらかすと、もう綺麗に拭き取りたいとすら思わない不思議。

 このまんまでいいよ、もう。


「相変わらずと言うか、悪化したね、君は」

「うるせえ。成長したんだぜ、これでも」

「ほう? どこがだい?」

「お茶っぱは苦いって知った。……うええ」


 ちきしょう、その抑えた笑い方やめろっての。


「そうだ。雫流、アレを使ってみたらどうだい?」

「おお! さすが治人だ! この口に角砂糖を放り込めば……」

「そうじゃなくて、いつもの。観察するアレさ」

「なるほど。俺のやり方で解いてみるか」


 確かに。

 どう考えていいか見当もつかない俺には最善手。


 早速目を閉じて、さっきの習字を思い出す。

 ……この方法、花蓮が気付いたんだよな。



 反射観察スチールリフレクス……………………



 十三、十三、零、


 姉ちゃんの意図。点で区切られた数字。

 みんなの知力で読めるギリギリのライン。

 注意、最後の点。不必要。だから、必要。

 数字、点、数字、点、数字、点。

 ……点が赤く見える。

 点の意味。合成、あるいは区切り。

 十三に点を組み合わせる。いや、付かない。

 ならば十三自体に別の意味。



 …………解答。

 三文字のもの。

 点で区切って読む。

 十三を変換。



「やっぱ三文字じゃねえの? えっと十三は……」


 手の平に『13』と書いてみる。

 ……あれ?


「これ、『B』か? なら……、うわっ!?」


 呟きながらあれこれ考えていたら、目の前に雪のように白い治人の顔。

 こいつ、俺の顔を覗き込んできた。


 なんだよ、チューでもする気かっての。

 男のくせに綺麗な顔立ちだから、いろいろ危険なんだよお前。


「いや、十三番目のアルファベットは『M』だろう」

「何が?」

「さっき説明したろう。Aが1。Bが2」

「A、B、C。おお、ほんとだ。じゃあ、零は?」

「それが最大の謎だろうね」


 そうかなるほど。さすがに頭いいな、こいつ。

 珍しく、自力で解けそうな気がして来た。


 エクレアの残り半分を口に放り込みながら、最後の『零』が表すものをあれこれ考えてみた。

 うーん…………、オーか?


「……なあ、雫流。僕と勝負をしないか?」

「お? いいねえ。俺、なんとなく読めそうだし」


 こいつは珍しく読めてなさそうだし。


「じゃあ、何か賭けようか」

「すまん。賭けようにも、俺の半身は今頃地獄の業火で焼き払われているころだ」

「そんなのいらないよ。君が勝ったら、その罰を解除してやろう」

「なんだって!?」


 バカな! それ、明日以降のアエスティマティオで手に入った勾玉をくれるってことか!?


 俺たちは、罰を解除するための勾玉を、姉ちゃんに渡さなけりゃいけない。


 それがチーム・ヴィーナスの鉄のおきてだ。

 破ると、きつい罰ゲームが待っている。

 あれはキツイ。まじでキツイ。


 でも、治人が解除するって言うならちょっと意味が変わって来るだろう。

 この忌まわしい罰とおさらば出来るなら、俺はなんだってやる!


「……いや、待て。俺もそれに見合うもの賭けなきゃいけねえんだろ?」


 何を要求する気だ、こいつ。


 治人が、首を軽く振って白い前髪を揺らす。

 この癖を出す時は、真面目になった証拠。

 俺は固唾を飲んで治人の言葉を待った。


「…………僕が勝ったら、君が、彼女と別れる」

「は? 何言ってんの? 彼女なんかいねえぞ? 朱里ちゃんとは友達だっての」

「紅威さんじゃない。もう一人の方だ」

「沙那か? だからあれとはなんにもねえって」

「それを、みんなの前で宣言するんだ」


 ほんとにそれでいいの? 事実をしゃべるだけなんだけど?

 ……おお、ひょっとして。


 こいつは、沙那のことが好きだ。

 で、付き合うために必要な事とか?

 そういうことなのか?


 だったら、ちょうどお前の手助けをしたいと思ってたとこなんだ。

 勝っても負けても俺にメリットしか無い。


「よしきた。賭けは成立だ」

「そうか。じゃあ、離れて考えないとね」


 そう言いながら音も無く席を立った治人が、優雅な所作でダイニングを後にする。

 心なしか、足取りが軽そうに見えたのは、恋の成就を期待してのものだろうか。


 まあ、たとえ俺が勝ったとしても、お前の願いは叶えてやるっての。

 なんたって、愛する朱里ちゃんと俺、最強のコンビが応援してるんだからな!


「おお、暗号解かねえと。……えっと、M、M、零」


 MMが、きっとなんかの略なんだ。

 で、最後のゼロ……。

 ひょっとして、そのまんまゼロって読むのかな?


 いつもの席、さっきまでキースが座っていた席で、パンをかじる。

 すると、急に胸の中に暗い霧が立ち込めた。


 これは、不安。

 ……あれ? この感じ……。

 どこかで経験したことがある。なんだっけ?


 俺は顔を上げて、開けっ放しの扉へ目を向ける。

 耳には、冷たい滴が窓を叩く音。


 随分昔、まったく同じ気持ちでここに座っていた。

 そう、あの時俺は、エクレアをかじりながら泣いていたんだ。


 ………………

 …………

 ……


 姉ちゃんが用事で外出していたあの日。

 まだ小学生の頃。

 俺はこの席に座って、大人しく留守番してたんだ。


 雨の音は冷たくて。

 扉の向こうの景色は、いつまでも変わらなくて。


 だから、俺は考えたんだ。

 ひょっとして、姉ちゃんはもう二度と戻って来ねえんじゃないかって。


 小さい頃の一日は、無限のような時間。

 姉ちゃんにとって、それくらい我慢できるでしょって時間が、小さな俺にとっては長い長い一人ぼっち。

 このままずっと一人なのかなって考えるのも仕方のないことだ。


 でも、そんな時、扉からあいつがひょこっと顔を出したんだ。


 いつもの笑顔で。

 小さな八重歯をにっこり輝かせて。


 俺は椅子から飛び降りて、あいつにしがみついて泣いたっけ。

 びりびり痛かったけど、力いっぱい抱き着いて。


 あいつ、ずっと俺の頭を撫でてくれたっけ…………



「……泣いてるのか?」



 五年ぶりに、まったく同じセリフを耳にするとは思わなかった。

 そしてこの言葉に続く雨のリズムさえ同じもののような気がする。


 同じ席。

 同じセリフ。

 同じ笑顔。

 そして、にわかに弱まる雨音。


 ……扉から入って来たのは、俺のそばにずっといてくれた悪友だ。


「いや、思い出し涙、的な?」

「的な? じゃねえよ。……なにがあった」

「らしくねえな、そんな顔すんな。昔さ、おんなじことあったろ」

「…………おお! サタン様が出かけてた日か! あの時もパンかじってたな、てめえ。サタン様が帰って来なかったらどうしようって」

「それよ。あん時、てめえが一生面倒みるとか言って慰めてくれたんだよな」

「懐かしいな。…………どれ」

「やめだだだだだだだだだだ!」


 バカか! 抱き着くんじゃねえよ!

 ……でも、あの時とは違う。


 バラとチェリーを混ぜたような、ちょっとセクシーな香り。

 散々走った後だからかな。

 香りがいつもより強く感じる。


 あの時は、こんなこと意識しなかった。

 ただ、無邪気にしがみついていた……。


 って、いつまで抱き着いてる気だ!

 いてえっての!


「だあっ! 離れろバカ王子!」

「なんだよ突き飛ばしやがって! ……それより、一人で何やってたんだよ」

「今、勝負中なんだ。ほれ、てめえも朱里ちゃん連れて花蓮と合流してやれよ」

「紅威ならシャワーだ。やっと解放されたけどよぅ、ありゃあなんの真似だぁ?」

「一人でもいいから花蓮を助けに行ってやれって。俺は俺で、治人と勝負中だし。……なんだそのツラ?」


 こわ。

 にらみつけんじゃねえよ。


「てめえがあいつに勝てるわけねえだろ! 勝負ってなんのことだ!? なんか賭けやがったのか!」

「そうだけど、あいつ珍しくなんにも分かってない風だったし、多分勝てるよ。俺、今回のにはちょっと自信ある」

「……一つ教えろ。てめえが自信あるって思ったタイミングで勝負吹っかけて来たんじゃねえか? どうなんだ!」

「………………おお、そんな感じ」


 そう答えたら、苦々しい舌打ちで返事をされた。

 なんなんだよ。


「いつも言ってるだろうが! あいつを信用すんじゃねえ!」

「意味分からん。この世にあいつ以上信用できる男なんかいねえぞ?」

「そう思い込まされてるんだよバカ姫! いいか、今回のだってきっと……」


 興奮する沙那の言葉は、携帯の着信音で遮られた。

 そこに届いたメッセージを見て、沙那は黒髪を顔の前に落としてうなだれる。

 それは、姉ちゃんから全員に宛てたゲームセットを知らせる通知だった。


 『勝負あり。全員、BBQ場に集合』


「なんだよ! やっぱり13でBか! で、ゼロに点でQな。まいったー!」


 なんだよ、さっき閃いてたはずなのに!

 あれ? でも、なんで俺、13がMだと思ってたんだっけ?


「……まあいいや。おい、沙那。バーベキュー場行こうぜ。……沙那?」


 こいつの目、鋭いまんまだ。

 何が不服なんだっての。


 おっかない顔をしたまんまの美人王子が、薄い唇を重たげに開く。


「お前、なに賭けたんだ?」

「ああ、そんな心配かよ。行けば分かるって」


 てめえの恋路を助けてやるための作戦さ。

 そんなの、ばらすわけにゃ行かねえよな。


 ……気付けば、窓を叩く雨音はたんたんと軽やかなものに変わっていた。

 きっとすぐに雨も止むだろう。


 それと同時に、俺の大切な悪友も、幸せを掴むことになるだろう。


 でも、振り向いた窓に映る雲は、その厚みを増しているようにも見えた。


 なにか良くないことが起きそうな、そんな何かを感じずにはいられなかった。


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