その恋心、ずっと、ずっとヒメている


 勝って、負けた。

 チームヴィーナスが勝って、俺は負けた。


 姉ちゃんが作った暗号の答え、つまりバーベキュー場へ最初にたどり着いたのが治人で、次にたどり着いたのが花蓮だったのだ。


 そんなゴール地点を満たす喧騒と煙。

 ああうるさい。

 ああ煙い。


「なに焼いてるんだよ。もうみんな腹いっぱいだよ」

「わはははは! ほれ、次はホタテだぞ! 雫流たちもこっち来い!」

「だからいらねえっての。それに、一之瀬おじさんが焼くとホタテが半分になるし」


 残りの半分は炭になるんだ。

 正直、まずい。


 ……姉ちゃんを囲んで、芝生の手入れをしていた四人が大はしゃぎしてる。

 それを囲むように立ち尽くす子供一同の呆れ顔。


 大人たちの騒ぎを目にすると、なんでだろうね、俺たち子供は冷めていくんだ。


 安普請やすぶしんのトタン屋根から至る所で雨漏りしてるとは言え、このバーベキュー場はそこそこ広い。

 その隅っこ、俺たちから一番離れた対角に、美嘉姉ちゃんと飛鳥さん、美優ちゃんがいる。


 あのエリアには近寄りたくないな。

 三人して、黙々と蟹を食いながら甲羅で日本酒飲んでるよ。

 足元もほっぺたも真っ赤になってることだろう。


「じゃあ、メインの奴焼くぞ! 雫流、賞品持って来るんだ!」

「知らないよ。なにさ、賞品って」

「やれやれ、そういうこと。どっちが勝っても、この賞品が収まるのは、あんたたち大人の胃の中って算段だったのね。……頑張って損したわ」


 ため息と共に花蓮が見つめる先、木のテーブルの上に置かれたバット。

 俺がそこにかけられた布巾を無造作に取ると、中から肉の塊が四つばかり現れた。


「これか? よいしょ」

「待ってました! 超高級A5和牛のシャトーブリアンちゃん!」

「……この牛の名前か? 女の子だったのか」


 両手に抱えたバットを傾けて、四つの塊をころころ転がしてみる。


 ブリアンちゃん。

 名前を聞いちゃうと、食べる気失うな。


「しー君、そんな扱いしないの。昨日、勝手にここを使った美優に準備させたのよ」

「だからか。この肉、脂身ばっかりだぜ。安物だ」


 と言うか、断面見た限りじゃ全部が脂身だ。


「……変態。あんたが持ってるの、どれぐらいすると思う?」

「さあ? 二キロくらいじゃねえの?」

「重さじゃないわよ。四頭分だから、多分二十万円くらいするわよ」

「にじゅ……」


 その時俺は、腰から花蓮に振り向いた妙な姿勢のままで凍り付いた。


 え? 二十万円ってなに?

 そんな大金、見たこと無いんだけど。


 それを食うの?

 なに言ってんの、この人たち。

 頭おかしいの? なに? 怖い。


「しー君、早く持ってきなさいな。みんなにも食べさせてあげるから」

「くち……、すら、も。…………うごかせにゃい」

「チャンス到来。そこの金髪女に負けた腹いせ」

「あたしも! 八つ当たりさせろ、七色雫流!」

「いてててて! この状態で蹴りとは卑怯なり! だがどうすることも出来ん!」


 やめてっ! 落とすっ!

 これを落として台無しにしたら、ショックで自我が崩壊しちまう!

 俺は今、生まれて初めて典韋てんいの気持ちを正しく理解した。


 鼻息を荒げて面白がるどSコンビ、絵梨さんと綴夢ちゃん。

 二人に、なす術もなくスネを蹴られていたら、キースがバットをひょいと取り上げて姉ちゃんに渡してくれた。


「おお、助かったぜ、許褚きょちょ

「なんだそりゃあ? ……こらてめぇら! 卑怯な真似すんじゃねえ!」

「はぁ、面倒。これだから脳内体育会系は面倒。一生プロテイン飲んでろ」

「あぁ!? もういっぺん言ってみろコラ!」


 この二人も、仲がいいのやら悪いのやら。

 とんだ氷と炎だ。


「ケンカすんなよ。それより助かったぜ、キース」

「おお、いいってことよ。俺様は正々堂々ぶっ殺すのが好きなだけだ」

「……そう言いながら俺をにらむんじゃねえ」


 美味しく食べるために餌をくれてるみたい。

 牛か。俺の名前はブリアンちゃんか。

 とは言え礼ぐらいしないと。


 こっちの喧騒などお構いなしに盛り上がる大人チームを横目に見ながら、クーラーボックスに入っていたペットボトルを二つ出して、一本をキースへ放る。


 それを見ていた絵梨さんと綴夢ちゃんも、個性的な髪を揺らしながら寄って来た。


 なるほど、水色と橙か。

 ほれ、ラムネとオレンジジュースだ。


「…………逆に取るのかよ。俺の心遣いが水の泡」

「なんだ七色雫流? 何が逆?」

「いや、なんでもねえ」


 まったく。お前らは萌えってもんを何にも分かってねえ。


 俺がもう一本、高い方のお茶を取り出してクーラーボックスの蓋を閉めると、この庶民には渋めの飲み物をこよなく愛する女が既に手を伸ばしていた。


「そういうことだ。キャラ付けってやつの大切さな」

「変態は相変わらずなにを言ってるのか分からないわね。それより、勝利した私へ焼きたてのホタテを取ってきなさい」

「嫌だよ。ぜってえ絡まれる。ぜってえ毛ルメット燃やされる」


 俺がメットを掴んで外そうとしたら、顔が全部縦に伸びた。


「それ取れなくしたから、燃えたら大参事よ? 等身大ロウソクとか、見ている分には楽しそうだけど」

「身長を減らしたい人にはお勧めだな」

「それで身長が減るなら、私は世界中の人の髪を燃やす旅に出る」

「結界から出れねえだろうが。そんなに小さいの気にしてたのか」

「うるさい、小さいって言うな。……しょうがない、自分で行くわ」


 まじか、燃えさしちゃん。


「あそこに混ざる気かよ。お前、酔っ払いに絡まれても変なこと言うなよ? 薪の横に積んである俺のお宝がさらに積みあがることになる」

「まだ隠してあるの? どうしようもないわね」

「なにとぞお願いします。一冊やるから」

「いらないわよ。「塩で」以外の言葉を口にする気は無いから安心なさい」

「頼むぜほんと」


 金髪を揺らして花蓮が近付くと、それだけで大盛り上がりするチーム・酔っ払い。


 そんな金パツインテがホタテの乗った皿を手に何かを話すと、全員の視線が俺に向けられた。


 ……なに?


 そして姉ちゃんが何かを四宮お姉ちゃんに耳打ち。

 恭しくお辞儀をしたクールビューティーが、歩きにくい石の河原をものともしない足運びで、屋敷へと向かった。


「こら花蓮っ! まさかお前、俺の最後の砦を……」

「安心なさい、変態。クローゼットの中の、スポーツバッグについては何も話してないから」

「じゃあ、姉ちゃんのベッドの下について話したんだな!? なにしやがる!」

「うそでしょ!? しー君、なんてとこに隠してるのよ!」

「私は、カーペットはたまに干した方がいいって話しかしてないわよ」

「しまった、そっちだったか! 全軍! 今すぐ撤退してくれっ!」


 四宮お姉ちゃんに続き、三木おばちゃんまで出陣しちゃった。

 これはもう、全滅を覚悟するしかないな。


 肩を落とした俺が見つめる三木おばちゃんの大きな背中。

 滑りやすい河原の石ころのせいでふらふらしてる。


 それがふと立ち止まると、小さく手を振って、階段を降りて来る赤髪ポニテと白髪のイケメンを迎えた。


「治人! お前、最初に到着したくせに何やってたんだよ!」

「何を怒っているんだ?」

「お前のせいにしたい悲劇があったんだよ!」

「ははっ、そりゃ酷いね。ちょっと打ち合わせしていたのさ。済まなかった」

「打ち合わせ? 何の?」

「えっへん! 白銀さんプロデュース、あたしが監督の恋愛ドラマが始まるのだ!」


 朱里ちゃんが雨の中で腕組み仁王立ち。

 治人、苦笑いしながら朱里ちゃんに傘をさしてあげてるけど、お前がびしょ濡れになってまで庇う価値ないから。


 ……しかしなるほど。

 詳しい段取りは知らないけど、大体わかった。


 俺は治人をにらみつけたまま立ち尽くしてるバカ王子をちらりと見ながら、シナリオを予想してみた。



 まず、俺が沙那に聞く訳だ。治人の事、どう思ってるんだって。

 するってぇと、こいつがもじもじし始める。


 そこで、賭けに従って俺が沙那とは付き合ってないと宣言するだろ?

 当然、沙那が「あたりめえだろこのバカ姫」と突っ込んでくる。

 もちろん電撃のオプション付きだ。


 で、治人がとぼけて、「それは知らなかった。僕はてっきり、二人が付き合っているものと思っていたでげす」とかいうわけだ。


 その流れから、「それなら、僕と付き合ってくれないかでげす?」と来る。

 これに対して、照れながら、走って逃げる沙那。


 捨て台詞はもちろん、

 「あんたのことなんて、なんとも思ってないんだからねでげす!」



 ……………………ウソだろ?


 完璧じゃないか!

 すげえな俺、監督の才能があったんだ!


 しかし、神は意地悪だな。

 どんなに頑張っても映画監督になれない、そんな人がこの世界には山ほどいるだろうに。


 この才能、ペットボトル屋になる俺には無用じゃねえか。


 ……だから、神よ。どうか聞いてくれ。

 世界で一番頑張って映画監督になろうとしてるやつに、この才能を渡してほしい。


「何が恋愛ドラマだ。紅威、そいつの言うことは真に受けるんじゃねえぞ」

「また始まった。なんでてめえはいちいち治人の事を悪く言うんだよ。俺が罰ゲームくらうだけだっての」

「罰ゲームだろうが何だろうが、こいつの言うこと素直に聞く必要ねえからな。何があっても、ウチが姫を守ってやるよ」


 沙那はそう言いながら、俺に優しい瞳を向けた。


 ……その辺のモデルさんが霞んで見えるほどの美女の微笑だ。

 厄介な女だってことを差し引いて余りある破壊力。

 ちょっとドキッとしちまった。


🐦がんっ


「いだくないっ!」

「とへっ♡」


 でも、俺だっていつまでも姫のままじゃいねえ。

 今日は、てめえを姫にしてやるぜ!


 俺は名監督スキルを駆使して、最初のセリフを口にした。


「沙那。お前さ、治人の事どう思ってるの?」

「なに企んでっか分からねえ、最悪の野郎だ!」


 こら大根役者。

 いきなり返事がちげえっての。


「あはは、困ったな。僕はどうしたら君に認めてもらえるんだい?」

「雫流を騙そうったってそうはいかねえからな! ウチがこいつのそばにいる限り、てめえには指一本触れさせねえ!」

「……その雫流が、君のことを一生愛することが無くても、か?」


 治人の言葉を聞くなり、沙那の目が見開いた。


 紫に縁取られた震える双眸。

 それが、ゆっくりと俺に向けられる。


「何を……、賭けたんだ、てめえ」

「いや、俺がてめえと付き合ってねえってことを皆の前で言えってさ。……あれ? 違うか。たしか、彼女と別れろって話だったか?」


 黒の中に、眩しいほどの光が垣間見える沙那の瞳。

 俺だけが知っている、大好きなその光が、涙で潤んでいく。


 ……なんだそれ。

 お前、なんで泣きそうになってるんだ?


「それを………………、てめぇは、受けたんだな」


 涙にかすれた声。

 まるで何かに絶望しているよう。


 でも、それが何を意味しているか分からない。

 バカな俺には、まるで分からない。


「事実を言うだけって思ってたんだけど、なんか気に障ったか? でも悪気は無かったんだ、許せよ。治人だってそんな気、無かったろうし」

「さい、あく……、だ」


 ふらふらと足を運ぶ沙那の背中。

 なんて声を掛けたらいいのか見当もつかない。


 こいつの気持ちを探ろうと、心の声に耳を傾ける。

 でも、にわかに強まった雨の音が、沙那が背中で語る小さなつぶやきを掻き消してしまった。


 雨の河原へと、傘も差さずに足を運んだ沙那は、治人の隣を通り過ぎながら、一言だけ耳に届く言葉を残していった。


「いつか…………、てめえを殺してやる」

「……いつでも、お受けしますよ」


 走り去る沙那。

 その黒髪を、朱里ちゃんが追う。


 すると、呆然としたまま立ち尽くしていた俺の肩に姉ちゃんの手が重なった。


「俺は……、追った方がいいのか?」

「……追わない方がいいってことが分かるまで、そこで正座」

「そこって、どえらいとこ指差すね。どう見てもそこには天然水がどんぶら流れてるんだけど」

「正座」

「ふざけんなよ。雨、土砂降りじゃねえか」

「正座」

「雨のせいで川の勢いもすげ」

「せ」

「よろこんで」


 仏の顔は三度っきり。

 これは俺の処世術。


 それにしたって、何が何だか分からない。

 柳眉りゅうびを吊り上げた姉ちゃんと冷たい雨は、何も答えを教えてくれやしない。


 ……でも、これだけは言える。


 俺が軽はずみな事をしたせいで、あいつを傷つけたんだ。


 ずっとそばにいてくれた親友を、傷つけてしまったんだ。


 だから、痛い。

 俺も、胸が痛い。


 他人に傷つけられた痛み。他人を傷つけた痛み。

 それらは少し違う。


 俺は、心を叩いて崩そうとする自分自身を止める術を持たないまま、黙ってその痛みに耐えていた。


 空を見上げれば、一面に浮かぶのは沙那の紫がかった黒髪。

 それが流した涙を、口に受け止めてみる。


「……やっぱ、甘くなんかねえぞ、沙那」


 俺は勢いを増した川にどんぶら流されながら、雨粒をこくりと飲み込んだ。


 苦い、沙那の涙を飲み込んだ。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「治人様! 今の、なんだ?」


 白髪の悪魔はオレンジ髪の少女の口に一本指を立てると、首を軽く振って前髪を揺らす。


 これは、真剣な話をする時のサイン。

 治人のサーバントである三人は、周りを決して見ることなく、しかし最大限に警戒した。


「これは布石だ。……我が願いを成就するために必要なものなんだ」

「……いつも仰る、心の善き者が幸せになる世界を作るという、あれですか?」

「そう、それもある。だが、我が想いはそれだけじゃないんだよ」


 はかりごとに不快感を抱く金髪が鼻白はなじろむ。

 主人の前だというのに、あからさまに大きなため息をついた。


「キース。君の気持ちは分かる。だが僕は、慎重に行きたいんだ」

「ちっ! ……仰せのままに」

「やれやれ。……いいか、敵は厄介なんだ。これだけ長く一緒にいるのに、僕は彼の力を測りかねている。あれだけの早さで暗号を解くなんて……。やはり雫流は素晴らしい」


 うっとりと目を閉じながら自らを抱きしめる仕草には、愛情や友情ばかりでなく、嫉妬や恨み……、負の感情までもが内包されているようで、周りを囲む三人の背筋には否応なく冷たい物が走り抜けた。


「厄介とは言え、勝ったのは治人様ですが」

「当然だ。僕は、誰にも負けないよ。……そして、欲しい物はすべて手に入れる」


 目を閉じたまま俯く白銀はくぎんの主。

 その宣言に、彼を囲む三人は衝撃を受ける。


 最近になって、我らが主は少々強引な事を口にするようになった。

 もともと、悪には果敢な性質の持ち主ではあったのだが、主の性質を言葉で表すなら、水が凪いでいるような静謐せいひつ


 少なくとも、このような言葉を口にする方では無いはずだった。


「……サタン様も仰っていたことだし、文句はあるまい。僕は、正しい事には暴力を使うことにする」


 不安を表に出さぬよう。

 三人は口を開くことなく、主に対して首を下げる。


 しかし、この時誰かが顔を上げたままにしておくべきだったのかもしれない。


「まずは、あの人にご退場願うことにしよう」



 白銀の悪魔。

 悪魔王に次ぐ、大精霊六柱ろくはしらが一人、フルーレティ。



 ……彼が薄く開いた目には、赤い光が宿っていた。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 花期が過ぎたものの、数輪の白い花を付けた白木蓮はくもくれんの大樹。

 河原から階段を昇れば右手に見える雨避けに、赤い髪の少女は手を添えていた。


 いや、黒髪の少女にあと一歩、近付くことの叶わない壁に阻まれているというべきなのか。


 手が届く距離なのに、この木のせいで触れることができない。


 近くて遠い、心の阻み手。

 その壁の向こうから、震えを伴う声が雨音に重なるリズムで紡がれた。


「秘めた恋心……、だったのさ」

「ひめた……、こい? ……恋って、普通はそういうものなんじゃない?」


 いつもの能天気にさらされても、黒髪の少女は感情に波が訪れない。

 それもそのはず、彼女の心の海は、目から溢れて枯れ果ててしまっていた。


「……てめえは、雫流をどう思ってるんだ?」

「大好き!」

「友達として、だよな」


 言葉は無い。

 だが、赤い髪の少女が頷く衣擦れが、確かな返事を紡いでいた。


 雨音は青い葉を叩き続けているのに。

 ここでは、時の流れが止まっている。


 そんな錯覚に不安を感じた赤髪の少女が、意を決して時の針をひとつ指で弾く。


「恋、か。……ねえ、紫丞さん。白銀さんに恋するって、どんな気持ち?」


 そんな投げかけではまだ足りないのか。

 白木蓮の向こうでは、未だに時が止まっていた。


 止まった時の中で、黒い髪の女性がゆっくりと空を見上げただけだった。


「……あのね、紫丞さん。恥ずかしいかもしれないけど、おせっかいかもしれないけど、あたし応援してるのよ、紫丞さんの恋! 絶対叶えてみせるから!」


 自分に出来る精一杯。

 その気持ちが伝わったのだろうか、ようやく時計の針を進め始めた沙那が、ゆっくりと振り向く。


 だが、感情も映すことの無い黒い瞳は、赤い髪の少女の言葉に心を動かされたわけでは無いことを告げていた。


「それ、今しがたふられたばっかりの女にかけていい言葉じゃねえからな」

「ふられ? 白銀さんに? そんなこと無いよ! なんか変なやり取りだなとは思ったけど、必ずあたしが何とかしてみせるから!」

「……じゃあ、今すぐ、この家から出て行ってくれ」

「え? どういうこと……」


 普段なら、こんな想いを口にするはずもない。

 しかも、こんな相手に話すはずもない。


 それほどまでに、沙那の心は乾いてしまっていた。


「……今、てめえが手をかけてる木、小さい頃にウチと雫流でのぼったんだ」


 昔話を始めた黒い瞳に、きらりと光が宿ったように見える。

 これはきっと、語るだけで彼女が救われるようなお話なんだ。


 赤い髪の少女は、大木に振れた手に愛しさを込めつつ、黙って話を聞き続けた。


「ウチが、バカみてえにはしゃいでよぉ、あそこから足を滑らせたんだよ」


 見上げれば、かなりの高さに枝が這っている。


「うそ? あそこから? 大丈夫だったの?」

「……地面で目を開けた時、ウチの下で目を回してるやつがいたんだ。落ちる時に抱き着いて、自分が下になりやがって」


 そう言って、右手と黒髪とを地面に這わせる沙那の表情に浮かぶもの。

 朱里は、その表情に思い当たる記憶があった。


 それは、携帯を見つめている時の、沙甜の表情と同じものだった。


「紅威は、友達として雫流のこと好きなんだよな」

「…………うん」

「雫流がお前と友達以上の関係になりたいって願ってることを知ったうえで」

「うん。あたし、恋愛とか分かってなくて……。いつも誤魔化してるけど」

「ま、そうだと思ってたけどさ」

「紫丞さん、あの、もしかして……」


 泥にまみれた黒髪を伴って立ち上がった沙那は、朱里に背を向けて呟いた。


 顔を見るわけにはいかない。

 見せるわけにもいかない。


 眼前に広がる黒い空を見上げながら、唇に甘い雨粒を感じながら、黒髪の少女は呟いた。


が好きなは、後にも先にも一人だけ」


 ……そう、雨が、甘い。


 にとって、あの日からずっと、雨は甘いものなんだ。


 だから……。



「…………は、雫流のことが好きだ」



 そう言って立ち去る姿を呆然と見つめていた赤髪の少女は、白木蓮に寄り添いながら、ずるずるとその場に座り込む。


 雨なのか、それとも異なるものなのか。

 二人の頬に、冷たい雫が流れおちた。



 ……雫が、流れ。



 そして、地面におちて、儚く消えた。




 つづく。


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