そして三十分後には眠っている


 ログハウス風改め、サスペンスホラー風喫茶店へと改装されたシャマインに沿って続く乱形石らんけいせきの小路。

 その先に作られた白いゲートをくぐると、芝生の丘と鈍色にびいろの空の狭間に白亜の洋館が浮かび上がる。


 ここ、ウェヌス・アキダリアは俺と姉ちゃん、そしてもう一人の家族、美嘉姉ちゃんの住まいだ。


 そして朱里ちゃん、花蓮、沙那が住む寮でもある。

 ウェヌス・アキダリアに暮らしているのは、今はこの六人というわけだ。



 ――夕食後、三十分を過ぎてもまったく動けない。

 そんな俺が、椅子の背もたれという地球文明最高傑作と思しきテクノロジーに身を任せてぐったりしているのは、三方をガラスに囲まれた白いダイニングキッチン。


 季節の花が所狭しと飾られる優雅なこの部屋に、俺のげっぷの音が反響していた。


「くるし……。さっきのが気に障ったのは分かるけどさ、八つ当たりで山ほど料理作るんじゃねえよ」

「ふう。少しは溜飲りゅういんが下がったわ。おいしかった?」

「そりゃもう、サタン様の料理は絶品だからなぁ」

「そりゃもう、そう言わないと酷い目に遭うからな」


 正直、途中から味なんか分かんなくなっちまった。

 沙那と朱里ちゃんが普通の奴に比べて一・五倍は食べるんだけど、俺の皿に乗ってた食い物は、少なく見積もってもその倍。


 生物ってのは、過酷な状況に努力で打ち勝つと脳機能が発達するとか聞いたことあるけど、それは絶対に間違いだ。

 だって俺、あれだけ頑張って泣きながら食べ切ったのに、今は1+1すらおぼつかない。


「でもさ、姉ちゃんのために頑張るのは気分がいい。……うっぷ、気持ち悪い」

「どっちなんだよてめえ」

「あら、あんたが好きな人の為に英雄になるって言ってたの、こういうこと?」

「ちげえ」

「いいのよ照れなくて。しょうがないわね、政府に相談しなきゃ」

「聞けよ人の話。違うっての。「弟とは結婚していい法案」とか国会で審議されるようなことになったら国民の半分が亡命するわ」


 だから、携帯をタプタプすんな。

 どんなビッグマンとパイプ持ってんだよ。


「英雄ってツラか。てめえの部屋、鏡とかねえの?」

「うっそ。今や学校で知らぬ者無しの英雄だろ、俺」

「だれもそんなこと思ってねえだろ」

「うっそ」


 あれ? 英雄って、みんなを笑顔にする人の事じゃねえの?

 誰もが俺を見ると笑うから、てっきり英雄視されてるもんだと思ってた。


 ……ダイニングに残っているのは、俺と姉ちゃんと沙那。

 テーブルの、ホスト側の短辺に姉ちゃん。

 その左側に俺、右側に沙那。

 昔っからの座り位置。


 背もたれから体を起こせば、正面にはいつものように何かを企む嫌味顔を浮かべる沙那が……、いねえ。


「……なにニコニコしてんの、お前」

「へ? ……ああ、何でもねえ。てめえが英雄とか、片腹にチェーンソーだなって」

「ひでえ」

「まあ、ウチには英雄だけどな」

「ほう、それは光栄だ。で、世間では?」

「ウチの姫」

「女子扱いかよ。……ああ、でも、ほんと女の子に生まれたかった。法律とかすっげえ有利だし」


 この間から思ってたことを口にしたら、致死性の視線が飛んで来た。

 正面と右斜め前から。二機減るわ。


「あれ? 俺、なんかおかしなこと言った?」

「しー君。あんた今、世界中の女子を敵に回したんだけどその自覚はあるの?」

「ええっ!? なんで!」

「だったらウチと代わるか?」

「うわ。こええからその低い声やめろ! なんだか知らねえけど謝るから!」


 姉ちゃんと沙那が、目配せからのため息&やれやれポーズ。

 ちきしょう、ちょっと腹が立つ。


「なんでそんなばかなこと思ったのよ」

「姉ちゃんが見せてくれた六法全書にさ、男は我慢するのが当たり前って書いてあるじゃん。ここんとこ、その法律のせいで不条理な思いばっかしてるんだ」

「ああ、『女心の六法全書』ね。ちゃんとあれに書いてあることは守りなさい。未成年だって、逮捕されるのよ?」

「おお、姉ちゃんを犯罪者の親族にするわけにはいかねえからな」


 でも、六法全書って、偉い人みんなで書いたものなんじゃねえのかな。

 著者んとこ、ぽんちょなんとかの名前だけなのが気になってるんだけど。


「……そうだな。てめえはもうちっと、その、なんとかしろ」

「なんとかしろって何だよ。ちゃんと法律守ってるっての」

「いや、そういうことじゃなくて……、ウチの……」

「あははははははははっ!」


 キッチン脇の扉から響いてきた笑い声。

 急すぎて俺もびっくりしたけど、それより沙那の驚き方がハンパない。

 胸を押さえて口をつぐんで、切れ長の目を最大まで広げて入り口に振り向いた。


 そんな扉から入って来たのは、珍しく笑い転げている花蓮。

 なんだよお前、酒でも飲んだのか?


「あはははははは! ほら、変態。名前書いとくほど大事なやつなんでしょ? 返すわよ……、ぷぷっ!」

「おお、ガムテープか。……って、これ、俺のじゃねえ。名前書いてねえもん」

「言うと思ったわ! あはははははははは!」


 とうとう腹を抱えて、しゃがみ込んで笑い始めた。

 心配になって肩を揺すってみたけど、とまる様子も無し。


 すると今度は、怒鳴り声が扉からずかずか近付いてきた。


「ちょっと雫流! これはどういうことなの! ちゃんと説明しなさい!」


 テーブルに叩き付けられる、血のりにまみれた不健全な本の束。

 それを縛るガムテープの端に書かれた俺の名前。


「はあ!? なんだこりゃ!」

「そんなにこれが欲しいの!? 雫流、最低!」

「ちょっ、誤解だ! 俺は名前なんか書いてねえ!」

「うそ! だってこれ、雫流の字じゃない!」

「そんなはずは……っ!? ばかな! この、ごんべんにしか見えないさんずいは間違いなく俺の筆跡!」


 こんな陰謀、テレビの中だけのもんだと思ってた!

 烈火のごとくポニテを揺らす朱里ちゃんの誤解、どうやったら解けるんだ!?

 いつも頼りになる金パツインテは床に転がって笑い転げてるし!


「こら! 助けろ花蓮!」

「あははははははははははははは!」

「助けてくれ、沙那! ……沙那?」


 あれ? どうした?

 さっきまでご機嫌だったバカ王子が、不愉快そうに朱里ちゃんをにらんでる。


「ったく、赤毛バカのせいでせっかくの楽しい時間が台無しだ!」

「バカって何よ!」

「なんで猿犬合戦始まったの!? どんだけ仲悪いんだよお前ら!」


 俺の喉元に突き付けられていた朱里ちゃんの剣先。

 それがそのまま沙那に向けられて、激しい打ち合いが始まった。


「紅威がそんな雑誌持ってると、自虐的でいい感じだな! ぺったんこな写真なんかどこにもねえだろ!」

「ひどい! そんなこと無いもん!」

「あー、それにしても、ウチは肩がこるな~。いつも持ち歩くの、大変だぜ~」

「バカみたい! 小さい方がいいって言う人だっているんだよ?」

「バカはてめえだ! 少なくとも雫流は大きい方が好きなんだぜ?」

「むう! 明後日、二人で出かけるまでに大きくなってやる!」

「はあ? 雫流がてめえと出かけるはずねえだろ!」

「自分で言っておいて忘れたの? 明後日は、雫流があたしの奴隷になる日なの!」

「ちょ! ストップストップ! 今すぐやめないと、姉ちゃんに消される!」


 姉ちゃんのポリシー。寮内でのケンカは許さない。

 その言葉を真実に変えるためなら、この人は何だって持ち出す。


 ……そう、今開いてる『魔眼』ですら。


「しー君の言った通り。今すぐそれをやめなければ、あたしにケンカを売ったものとみなす」



 ――俺達魔族は、過去の記憶を封印されたうえでこの地に転生する。

 でも、何かのきっかけで記憶を取り戻した時、その瞳が本来の赤い色に染まる。

 これが、魔眼が開くということ。


 もし普通の悪魔が魔眼を開けば、身体能力や魔力が常人とは比べられないほどに跳ね上がる反面、愛という感情を知らなかった頃の自分を思い出した反動により、負の感情が一斉に噴き出して凶暴化するのだ。


 もともと過去の記憶を失っていない三王はこれを自由に使えるけど、普通の悪魔が魔眼を開いた例はほとんどない。



 赤い瞳で正面を見据える姉ちゃんの迫力たるや、見慣れているはずの俺ですら背筋に沿って直刀を突き刺された姿勢と心地を体験することになる。

 頭に血が上り切った二人も、これに逆らえるはずは無し。


 ……でも、苦笑いでごめんねと謝る朱里ちゃんに対して、沙那は舌打ちしながら頬杖を突いていた。

 こら、なんだよその態度。


「ふう、よかった。お屋敷に火柱を立てずに済んで」

「ご、ごめんなさい、沙甜さん」

「分かればいいの。それより、明後日はしー君が朱里の奴隷なの?」

「はい! 駅前を連れまわします♡」

「朱里ちゃん。照れくさそうに頬を染めてる姿は可愛いけど、言ってることは最悪だからね?」


 ああ、見える。

 駅前の人込みを、所狭しと駆けずり回る朱里ちゃんの姿。

 その鞭の先で転がる半死半生の俺。


 でも、俺のことをご機嫌笑顔で見つめる赤髪ポニテに、姉ちゃんは困り顔でブレーキをかけた。


「だめよ。日曜は美優が来るんだから」

「え? 午前中だけですよね?」

「残念だけど、チーム結成がらみの話で午後までいるらしいのよ。断ろうとしたんだけど、あいつ逃げるように帰っちゃったから断り切れなかったの」


 ありゃりゃ。朱里ちゃんのポニテが見る間にしおれてく。

 すぐ隣にいた花蓮に肩を叩かれても、まるで回復の兆しがない。

 そんな朱里ちゃんに、沙那が追い打ちをかけた。


「残念だったな、紅威! 日曜までに胸を大きくするんだっけ? でも、こいつと出かけるのは無理みたいだな! 屋敷の中にいやがれ!」

「こら、しーちゃん。いつまでもそういうこと言わないの。……じゃあ、明日遊んできなさいな。但し、お昼の十二時までね?」

「けんぜんっ! 小学生か!」

「十二時に花丸を予約しといたのよ。いつもの土曜日集会の代わり。……どう?」

「はい! そうします! ……でも、明日か……」


 朱里ちゃん、まだ元気になりきってない。

 胸を押さえて、何か考え込んでるんだけど。


「なんだよ。明日、用事あったのか? だったら別の日でも……」

「そうじゃなくて。そんなに早く大きくなるかな?」

「うおぉぉい! 胸の心配かい! 二日あっても変わんねえからな!?」

「何で言い切れるのよ!」

「いや、そりゃ確かにそうだけど…………、まあ、頑張れや」


 朱里ちゃん、鼻息に合わせて拳握ってるけどさ、気合いでどうこうできる問題じゃないよねさすがに。

 でも、ようやくいつもの朱里ちゃんぽくなってくれて良かった。


 そう思った矢先に、今度はこっちが不機嫌になったみたい。

 立ち上がる沙那の機嫌を表すかのように、椅子が荒い音を立てて床を擦る。


「ちっ。…………どいつもこいつも」

「おい、沙那。さっきからどうしたんだよ。…………おい!」


 聞きゃしねえ。

 昨日のこともあるから心配だけど、どうして欲しいんだか分かんねえよ。


 いつもより幾分乱暴な足運びが廊下に消えると、不安げな表情がすぐ隣から俺を見下ろしてきた。

 こっちもこっちで、理解の範疇はんちゅうを超えている。

 さっきまでケンカしてた相手じゃねえのかよ。


 ……なんで君は、そんなに優しいのさ。


「ちょっと心配かも。あたし、みて来るね」

「待ちなさい、朱里。…………花蓮。あなたもついて行ってあげて」

「はあ……。おかしなことにしなければいいのよね。高くつくわよ?」


 おかしなこと? なんだろう。

 沙那の様子、姉ちゃんと花蓮は分かってるってことなのか。


「明日連れて行ってあげるお店は、この結界内で一番美味しいスイーツを出す専門店なの。ちょっとお高いのが玉に瑕」

「……そう。だったら、私に相応しい高級品ばかりをテーブルに並べなさい」


 気取ったやり取りをした金パツインテが、朱里ちゃんの手を引いて走り出す。

 ……えっと、俺はどうしよう。


「姉ちゃん。俺も追っかけた方がいいのか?」

「ううん? あんたはここで、どうして追いかけない方がいいのか分かるまで正座」

「……それ、一生ここから動ける自信がござんせん」


 とは言え正座はマストのようだ。


「やれやれね。……いったい、どんな結末を迎えることになるのやら」


 姉ちゃんは、正座の俺に見向きもしないで冷めた紅茶を口にする。

 いよいよ即身仏へのルートが見えてきた。

 ……悪魔って、仏になれるのか?


「しかし、女の子に生まれたかった、か。その言葉を聞いてたら、美嘉が小躍りしてたかもね」

「なんで美嘉姉ちゃんが?」

「……あんたが女の子だったら、確かにこんなことにはならなかったはずだけど」


 おおい、姉さま。

 ヒントくらいくれ。


「抽象的過ぎて何言ってるか分かんねえよ」

「でも、あなたは男の子。選ばれる立場じゃない。選ぶ立場なのよ?」

「ゴメン、姉ちゃん。俺には分からないし、足も痺れてきた」


 ようやく俺の方を向いてくれた姉ちゃんが口を大きく開いた瞬間、その発言を止めるかのようにメッセージの着信音が響いた。


 今のメロディー、父ちゃんだ。

 くそう! 助かってたかもしれねえのに!

 あいつ、ぜってえ許さねえ!


「しー君、お父さんからメッセージ来たわよ」

「今しがた好感度がマイナスに突入したヤツの話なんか聞きたくねえ」

「さっき相談しておいたんだけど、沙那の件についての返事よ。……それでも?」

「…………なんて?」

「女心を分かって無いねって。観察なんかに頼らないで、心で感じてやれって」

「エスパーじゃねえんだ。分かるわけねえだろ。バカじゃねえの、アイツ」


 うん、やめれ、その泣きそうな顔。

 いつものことじゃねえか。


「俺があいつのこと嫌いなの、変えようなんてねえんだよ。諦めろ」

「ぐすっ……。それでも、人の心は移ろいゆくものなの。姉ちゃんは諦めない!」

「勝手にしろ」


 クールに見えて、泣き虫な姉ちゃん。

 人の心が変わる? それは、当てはまる物と当てはまらない物があるんだよ。

 ……だって、俺は何があろうとも姉ちゃんのことが好きだから。

 ほらみろ、疑いようもねえ。


「移ろう心のさざ波。……今回の事態は、そんな潮目が重なってしまったせい」


 姉ちゃんは目元を手の甲でごしごしすると、俺の前に膝を折った。


「……しー君、朱里の事、好きなんでしょ?」

「……………………おお。それがどうした」

万緑叢中紅一点ばんりょくそうちゅうこういってん。でも、退蔵たいぞうされた紫の想いに気付いた時、あなたはどうするのかしら」

「え? え? こら、難しい言葉過ぎて分からん。なんのこと?」

「三つの頂点に二つの想い。この関係に、最適解は無い。逆に言えば、覆轍ふくてつを踏むことも無い。……自分で考えて、そして決めなさい」


 まるで分からん。返事すらできない。

 俺は開きっぱなしの口を自覚しながら、音もなく立ち上がる姉ちゃんを目で追うことしかできずにいた。


「二つへん、競う心が、作るかた。一つ手折たおれば、跡形も無し。……あたしは、共倒れだけは避けなければいけないの。……この間みたいに、またあなたたちの敵になるかもしれない」



 最後まで意味が分からなかった。

 ただ、寂しそうに部屋を後にする姉ちゃんの背中を見ているうちに、不安という名の雪が胸に積もっていくのを感じた。



 ……そして、俺は永遠に正座してなけりゃいけないのかしらん?




 つづく


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