第7話6

 ミヨと母の気配を探りながら、月灯りを頼りに林の中に入る。何処へ行ったのかと見回していると、樹木の香りに紛れてうっすらと何かの臭いがした。これは、あの湯の臭いだ。そう気づいて何処から漂うのかを定めると、服のすそを引き裂き鼻を覆った。また意識を奪われる訳にはいかない。


 俺は衣服を小枝に引っかけ、皮膚にかすり傷を負いながら走った。その途中、自宅のある山に向かっている事に気付く。だが、こんな道は知らない。今まで気付かなかった。何の為の道だ?頭の中に父と母の、ミヨを見ていた顔が浮かぶ。「くそっ。」と吐き捨て、更に急ぐ。ときどき布を鼻から外して方向を確認しつつ、走り続けた。


 林が途切れた場所に出た。目の前には固い岩肌がそびえている。見回しながら残り香を探ると、 薄暗い中にぼんやりと、崖沿いに進めそうな小道が見えた。そこを通り、崖を回り込むと視界がひらけた。そこには大きな桜の樹木が月明かりの中で風に揺れて、花びらをこぼしているのが見てとれた。その桜の木の下の台の上に何かが置かれ、傍らに立つ人影が二つ。何か話をしている様だった。


「違う!この娘では無いはずだ!今宵、若に召し上がって頂くには若過ぎる。第一、この娘は若の好いておる娘では無いか?」


 爺樣の声が耳に飛び込んできた。俺は気付かれぬ様に暗がりを選んで、そっと近付く。そこへ、母の冷たい声が響く。


「だからじゃ。人風情が我ら鬼族と心を通わす等、お笑い種じゃ。…それに、愛しい娘ならばこそ、強い覚醒を呼び起こさせ、より強い鬼になれると言うもの。…あやつは、少し気弱過ぎる。この娘が良い気付け薬になるのじゃ!娘も、愛しい男に喰われる事に文句はあるまい。」


 左手に握った長刀に力がこもる。女が放った言葉が、頭の中で何度も繰り返され、心に黒いモノが沸き上がってくる。それが、血のめぐりに乗って全身に広がって行く様な気がした。


「…惜しいのう。娘が意識を無くしてなければ、良い泣き声を聞かせてくれたであろうに。さあ、始めようぞ!」


 その言葉を引き金に、刀を鞘から抜き、奇声を発しながら二人の近くへ駆け寄った。


「なんと、若っ!?」

「樹っ?」


 うるさい!黙れっ、そんな風に呼ぶな!そう叫んだつもりだった。だが口から出たのは、うなり声だった。母は青い鬼の姿になっていた。その血走った眼で、撫まわす様に俺をみる。


「ほう。…これは面白い!人間の血肉を喰らわずに、覚醒しよったわ!……樹、そなた、赤鬼おやあやめたな?返り血を浴びたか。」


 女の方が、さも面白いとでもいう様に笑い出す。爺は逆に人の姿のまま俺を気遣う。


「まさか、返り血が口に入ったのか…。若、赤鬼の血は濃すぎるのじゃ!動いていると、ますます全身に回ってしまうぞ!」


 言われて自身の手を見る。指が、爪が、長く伸び黒ずんでいた。地面に落ちた影の、俺の頭の辺りに角が……。胸に張り裂けそうな痛みが走る。…もう、…モドレ、ナイノ、ダ…。


 俺の中の、何かが弾けた。



 それからは夢の中の出来事の様で、はっきり分からない。青鬼が幻術を使おうとしたが、長刀を振り回して詰め寄った事と、相手が身軽に飛び回っているときの、こちらを見る狂った様な目つき等、思い出せる事は途切れ途切れだ。


 ははを倒し全てが終わると、右肩と腹と、左足のすねが痛むことに気付いた。爺樣がよろめきながら寄って来る。


「若、脱臼しております。今はめ込みますぞ。腹と脛は、切れて血が出ている。動かさない方が、…。」


「ダ、マレ…。」


 俺は爺樣を押し退け、痛む腹を抑え足を引きずりながら、ミヨの元へ近付いた。


「…ミヨ…。」


 そっと、ささやく。出来るだけ優しく体を抱き上げようとした、その時。ミヨが目を覚まし俺を見た。大きく目を見開き、顔が歪んでいく。


「いやあああああっ!鬼っ!?」


「…。」


「いやっ。助けて、おにいちゃん!」


 ミヨは台の上から滑り下りると後ずさる。


「マ、マッテ…クレ。オ…レ、ダヨ…。」


「えっ?」


 ミヨの動きが止まる。眉間にシワを寄せてこちらを見る。


「……お兄ちゃん?…そんなっ…。」


 ミヨの顔から怯えている様子が消えたが、そのまま表情が固まった。


 そのとき、ざざざと風が吹き、桜の花びらが舞い降りて来た。…花びらが落ちるのは実がなるからだ。それは、桜が成長するということか。ふと、そう思った。


…だが、俺は…。


 ふと自分の手を見ると、人の手の形に戻っていた。ならば体も元に戻っただろうか…。


「ミヨ…。無事で良かった。俺は、遠くへ行かなければならなくなった。とりあえず、村まで送らせよう。」


 ミヨが俺を見る顔に、いつもの表情が戻って来る。


「えっ?…何処に行くの?」


「遠くだよ。ずっと遠く。」


「行かないで!…それか、連れて行って、お願い。私、お兄ちゃんの事、ずっと好きだったの。」


 途中から声が震えていた。顔を赤くし、だが、まだ戸惑いも見てとれる。


「俺もだ。俺もずっとお前を好きだった。…だが駄目だ。もう一緒にはいられない。さっきの俺を見ただろう?いつ、ああなるか分からない。もう俺は、いや、始めから俺は人では無かったのだ。」


 言いながら、自分でも驚愕する。そうだ、だからミヨ達の成長が早く感じたのだ…。


「そんな…。いやっ。いやよ!お兄ちゃんと離れるなんて。」


 ミヨが俺に抱きついて来た。俺も優しく抱き締める。柔らかな髪が頬にあたる。小さな体から伝わる温もりに、胸が高鳴ったが、同時に張り裂けそうだった。愛しくて、ただ愛しくて…。ずっとこうしていたかった。


「…ミヨ。…すまない。」


 俺はミヨを引き剥(は)がし、首の後ろに手刀を入れて気を失わせた。


「爺!すまないが、彼女を村の者が見つけやすい所まで運んでくれ。」


「わかりました。若はどうなさるので?」


「体が限界だ。ここで、こうしてる…。」


「わかりました。直ぐに戻ります。」


 爺樣がミヨを抱えて行くと、俺は桜の木の根元に腰を下ろした。そして、桜を見上げる。


 ミヨ…、愛している。お前だけを、ずっと、ずっと…。俺は鬼だが、もし出来るなら、いつか桜の木になろう。そして、お前のもとに花びらを送ろう。お前を包み込む様に。抱き締める様に……。




 爺樣が戻ると、二人でこの地を去ったのだった…。

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