第7話 出会いと別れ

夜21時。

管理人室のドアを静かに2回叩く者がいた。

この日もヨシばあは腕によりをかけて3食分の料理を作りながら、間にパートの仕事をこなし、いつも通りパワフルな1日を過ごしていた。後3時間で明日がやって来てしまう。

明日の献立を希望人数と食材の量から、大幅な変更なしに作れそうか最終調整していた。そんな時だ。


「はーい」


覗き穴からドアの外を見ると、そこには303号室の阿藤さんだった。


「…すいません、今時間大丈夫ですか…?」

「どうしたんだい?珍しいね。」

「ちょっとお話が。」

「…中に入りなさい。」

「お邪魔します。」


阿藤さんが部屋の中に入る時、セミロングの明るい茶色の髪がふわりと揺れた。もこもこの寝間着を来て、その顔にはやや緊張したような、何かを決意したような瞳がある。

きっと化粧をしていたとしても、気付いただろう。




その目には見覚えがあった。

それだけで何を言いたいのか悟る。



「お茶でいいかしら。」

「あっ、お構い無く。」


席をすすめて、キッチンに立ち、急須と茶筒を食器棚から取り出した。茶筒の内と外の蓋を外すと、茶葉の良い香りが漂う。そしてそこには香ばしさがある。

今のヨシばあのマイブームは玄米茶だった。


保温のポットからお湯を注ぎ、少し時間を置いてから、湯飲みに注いだ。

その間に2人は声を出さず、阿藤さんはじっとしていた。


「お待たせ。」

「ありがとうございます。」



湯気が立つ湯飲みには、淡い青ですみれの花が描かれている。

少し冷まして口をつけると、香ばしく渋味の少ないお茶の味が広がった。

ほっと一息付いて、阿藤さんは口を開いた。


「私、結婚することになりました。」

「……あら、そうなの!?おめでとう~。」

「ありがとうございます。それで、再来月、引っ越そうと思っています。」

「うんうん、再来月ならこちらとしては問題ないわ。退去願どこにしまったかしら…。」

「それと、結婚式、挙げる予定なんです。」

「いいわねえ!」

「……来て、もらえませんか?」





退去の話は予想通りだった。

阿藤さんに何年か付き合っている彼氏がいることは知っていたが、まさか第一号の寿退去になるとは思わなかった。しかしそれはヨシばあにとって嬉しい退去理由だ。

私にもそんな時期があったわあ…なんて思っていたところに、お願いをされる。


「わ、私が?…そんなただの管理人よ…?」

「でも、私にとっては違うんです。料理も洗濯も、方法はヨシばあに教えてもらいました。どうしたら美味しく出来るかとか、アイロンをどうしたら綺麗にかけられるかとか。お母さんみたいだ、って思いました。」

「…」

「だから、感謝の気持ちも込めて、是非来ていただきたいんです。」


阿藤さんは父子家庭で、母親は中学生の時に病気で亡くなったらしい。ハウスに来た頃は、もっとお母さんの家事を手伝っていればよかった、そうよく口にしていた。

その時には今の彼と出逢っていて、彼のために何かしてあげたいからと、仕事が休みの日にはヨシばあの料理を手伝い、テクニックを盗んで磨いていった。


素直に、頑張れ、とヨシばあは思っていた。

いい人と結ばれてほしいと願った。

それがこんな形でお返しがくるとは思ってもみない。



「そんなにお願いされたら、断れないわね。」

「へへっ、じゃあ式は日程決まったらお伝えしますね。」



ちょっと目を潤ませてヨシばあは笑った。

それに照れ臭そうに阿藤さんは笑い返す。

温くなったお茶を一気に飲んで、ごちそうさまでした、と湯飲みをテーブルに戻した。

ヨシばあおもむろに立ち上がり、引き出しから紙を一枚とって差し出す。


「これを埋めたら、また私に持ってきてちょうだい。」

「分かりました。」


退去願と書かれた紙は阿藤さんの手に渡り、阿藤さんも立ち上がる。



「ありがとうございました。おやすみなさい。」

「おやすみね。」



良い夢が見そうだ。



退去願が、全て埋まった状態で手元に帰ってきたのは、あの夜から1週間後だった。

その翌日、毎回お世話になっている不動産屋に電話をし、空きが出るからまた募集をかけてほしい、と伝えた。



ここからが勝負。



どれだけ空きの期間を短く出来るかがポイントだ。

シェアハウスなので人柄は重要視しており、このハウスに入居する審査の一つに、大家面談を設けている。


営業マンから様子を聞いて、問題がなければ大家面談。そこでも問題がなさそうであれば保証会社の審査などを行い、全て合格すると入居となる。


そのためヨシばあも忙しくなるのだ。

人の動きの大きい時期なので、全く問い合わせがない、ということは無さそうだが、一体どれだけ面接をこなすことになるのやら。



阿藤さんの結婚の話はあっという間に広まり、女性陣は出ていくのが寂しいと言いながらも、ヨシばあと同じように喜んで祝福した。別れを惜しむようにダイニングで長々と女子トークをしたり、何やら阿藤さん本人に内緒で送別会も企画されているようだ。


慌ただしく過ごしながらも、日は一日一日確実に過ぎていく。そして退去日の3日前に、全ての審査が通った入居希望者が現れた。

後は契約書の記入と捺印が済めば契約完了だ。

ハウスクリーニングや鍵交換の依頼といった業者への連絡も行い、入居者を迎える準備も始めている。

バタバタした生活は、そろそろ終わりを迎えそうだった。






さらさらと吸い込まれるように流れていく茶葉を何気なく眺めて、ゆっくりとポットに手を伸ばす。

明日は営業マンと退去立ち会いだ。

あっという間にこの日が来た。


先日阿藤さんは一足先に荷物を持って出ていった。

手際の良い引っ越し業者は、あっという間に重い家具や家電を運んでいき、彼女も、また戻ってきますね。と、一言ヨシばあに伝えるとにっこり微笑んで玄関ドアを閉めた。

その夜はダイニングで送別会が開かれ、ほとんどの住人が集まって飲んだり食べたり楽しい一時を過ごした。

ヨシばあも久しぶりにワインに手をつけたのだった。


「まあ~美味しい。」

「でしょー。こっちの白も美味しいよ。」

「うふふっ。」


最後にはプレゼントやら手紙やらで阿藤さんは感極まって涙を流していたが、この空間には感謝の言葉が溢れていた。



ヨシばあと一緒に料理作ってくれてありがとう。

いつも美味しいって言ってくれて嬉しかった。

毎日癒されてたよ、ありがとう。お幸せに。

重い荷物部屋まで持っていってくれたりしてありがとう。怪我に気を付けてね。

もっといっぱい話したかったな。元気でね。

朝からイライラしないでね。勉強頑張って。




いっぱい言葉を交わした。

まだまだ時間が足りない。



ありがとう。どういたしまして。

そしてまた、ありがとう。






それは、なんだか心地よい時間だった。



お湯を注いだ、良い香りのする湯飲みを手にとって、ふう、と一息ついた。

時間をかけてゆっくり飲まないと、なんだかぐっすり眠れない気がして。







翌日。天気は快晴。


「どうも~。」

「おはようございます。宜しくお願いしますね。」

「こちらこそ。」


黒いスーツ姿の営業マンは、相変わらず髪を後ろに撫で付け、ちょっと軽薄そうな口調でヨシばあに挨拶した。彼はこんな見た目だが、ヨシばあは見た目を裏切るくらいには仕事が出来ることを知っている。


その数分後に、一台の軽自動車が止まり、中から阿藤さんが降りてきた。


「おはようございます。宜しくお願いします。」


阿藤さんを先頭に、303号室の前まで向かい、阿藤さんの持つ鍵で中へ入った。

そこには何一つ家具のない部屋が広がり、なんだか現実を見た気がした。


ああ、本当に出ていくのか。


チェックは滞りなく進み、阿藤さんが書類に立ち会いのサインを書くと、ヨシばあへ鍵を渡した。

そして3人で玄関まで一緒に向かい、阿藤さんだけが靴を履く。


「お世話になりました。」

「お幸せにね。」

「追って招待状送ります。」

「…そうね、待ってるわ。」


ぺこりとお辞儀をして、阿藤さんは出ていく。バタン、と、玄関のドアは閉まった。



…もうここには戻ってこないだろう。

でも、縁が切れたとは思わなかった。

そして、最後に笑顔で送り出せてよかった。










その2週間後、入居者がやってきた。


「お世話になります、姫路と申します。」

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