第8話 マリア

あっくんはその日、バイトを終えてハウスに向かっていた。

自転車を飛ばして夜の道を駆け抜ける。桜が咲き始めた季節にしては、やたらと暑い日で、夜になってもあまり気温が落ちなかった。

外灯に照らされて浮き上がるハウスの外観を目にし、漕ぐのをやめて、やがてブレーキを緩やかにかけて停止する。

そして屋根のある駐輪場にきちんと停めて鍵をかけ、玄関に向かった。


ハウスの玄関は、一軒家のような見た目をしている。

いつも通り鍵穴に鍵を挿し込み、回すとカチャと音がして、ロックが外れる。

鍵を抜いてバーを引くと、朝にも見たハウスの室内が広がっていた。



いつもと同じ光景。

だが、ここ最近のこの感じにはちょっと違うものが今日は混ざっているのを知る。

あっくんが考えてたことは、意図せず口から声となって漏れた。




「今日はいるんだ。」




それは濃い香水のにおい。

女物だ。


今漂っているにおいそのものを知っているわけではない。

嗅いだ覚えもない。

でも、残るほど香水をつける人は、今のハウスには1人しかいなかった。



「あっ、あっくん!お帰りー。」

「おう、ただいま。」



あずきがいつもの笑顔で声をかける。

何も気にした様子はない。


「今日のカレーはキーマだったよ!」

「おっ!楽しみ~。」



なんだか急激に腹が減った。

あずきはアイスを買いに行くようだ。

靴を閉まってダイニングへ向かうと、バイト帰りのそこはいつも絞った明かりが灯っている。

俺だけが晩ごはんを遅くに食べるので、付けているだけ電気代の無駄なのだけど、消してていいよ、とは言えなかった。

この灯りこそ、よしばあの「お帰り。」の代わりなのだと感じて。


キーマカレーに少しうきうきしていると、背中に声がかけられた。



「お帰り。バイト?」

「………うん…。」

「ふうん。」




声をかけておきながら、まるで答えに興味がないような相づち。

振り返らなくても分かる。



「あーあ。お腹すいたなあ。」

「飯、食ってないの?」

「うん、ずっと泣いててさあ…。振られちゃった。でもヨシばあには頼んでないから、これから外に買い物。」

「ふうん。」






このハウスに来て、彼女には何人の男ができて、その内の何人の男が本命だったのだろうか。

少なくとも恋愛に対しての考え方が自分とは全く違うのだろう。


彼女と同じ温度で相づちを返す。



「つめたいなー。ま、いいや。」




玄関に向かう足音、靴を取り出す際の下駄箱に靴底が擦れる音、鍵が開く音、ドアが開いて、やがて閉まる音。


一連の勝手に耳に入ってくる音を聞き流しながらも、あっくんはその場を動けずにいた。

空腹感も吹き飛んでしまったように、暫く立ち尽くしていた。



再び濃く残った香水のにおいが、カレーを食べる気にさせてくれない。






103号室のマリアは恋多き女だ。


目はぱっちりしていて、それを囲むまつげはしっかり太く、その回りは必ずアイラインが引かれている。

唇はグロスでぷるぷるに。輪郭を隠すように巻かれた明るい茶髪はいつもつやつや。

上目使いとおねだりが得意。

何も知らない男から見れば、庇護欲を誘うような見た目をしている。


ハウスには2年ほど住んでいるが、ウーノのように暫く家に返ってこないこともあった。それはほぼ100%男の家で間違いない。

家賃は両親の負担で、家を空けている期間が結構ある、ということは、恐らく内緒にしているのだろう。



男に振られて、あるいは男を振って帰ってくると、大抵ダイニングで泣いている。

それを心優しいあずきや阿藤さんは慰め、毎度同じ騒動についてもはや興味をなくしている瀬川は、馬鹿馬鹿しいとばかりに部屋に戻って一服する。瀬川とマリアが仲良く話しているのをあっくんは見たことがない。

瀬川はあくまでクールを貫いていた。



そりゃあ社会人と学生じゃあ考え方も変わってくるよなあ……と、内心独りごつ。







次の日は今にも雨が降りそうな湿ったくもり空だった。


「あーやだやだ、こんな天気じゃ巻いたのとれちゃう。」



朝からマリアだった。

結局カレーはダイニングを換気してから食べ、部屋にすぐ戻った。


あっくんは、自分はマリアが嫌いなわけではないと思っている。

同じ場所に立っているのに、なんとなく違う世界の住人なんじゃないかと思ってしまうだけ。



「なに、そっちもバス待ち?」

「うん。今日はキャンパス違うから。」

「ふーん。」



大学の一部が改修工事のため、時に別のキャンパスに行く機会がある。

マリアはそのキャンパスに通っていた。



短い会話の後、しばらく沈黙が流れる。

やがてバスは3分遅れで現れた。




ひとつだけ空いている二人掛けの席に先にマリアが座り、目であっくんを呼ぶ。

これは、隣に来れば?という意味だ。


バスはあっくんの着席を待たずに走り出す。

よろけながらも席に着くと、マリアは鞄からイヤホンを引っ張り出す。



走行音と、アナウンスの声。ボタンが押された音。

静かに流れるように耳に入る音や声を、あっくんはなんとなく聞いていた。




「ねえ、これ知ってる?」




唐突に声が隣から掛けられた。

ちょっと驚きながらマリアの方を向くと、こちら側にイヤホンを差し出していた。

聴け、ということか。



片方のイヤホンを手に取り、耳に寄せると、聞き覚えのある声。

優しいギターの音色にのって、毎日のように聴く声が、流れている。




「知ってるよ。去年出したやつだ。」

「敦司(あつし)好きだったよね、このバンド。」

「……うん。」





これはずっと好きなバンドだ。


マリアはそこまで好きという訳ではなかったはずだ。そもそもいつ好きとか話したんだっけ。




それよりも、名前を正しく覚えていたことが、なんだか嬉しかった。


いつもあっくん、あっくんと呼ばれる。

同じ男からは名字だ。





「これは私も好きなんだ。」

「そっか。俺も。」



この一回以降、名前を読んでくれることはなかった。

ただ穏やかにバスはキャンパスに向かっていった。

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