第3話

 ぼくとサヤは浄水場が一望できる場所に移動した。

 サヤは展望台の石造りの囲いの上にスケッチブックを開くと、白い紙の上に鉛筆

を走らせ始めた。紙の上に引かれた直線が、いつの間にか絡み合い、貯水池や建物

が形になっていく。

「へー。画も上手なんだ」

 ぼくが思わず驚嘆の声を漏らすと

「そんなことないよ。只、好きなだけなの」

 と謙遜した。

 サヤに驚かされてばかりいる。手製の料理といい、このスケッチといい、サヤの

小さくて可愛らしい指先に、魔法が宿っているのではないかと思いたくなる。

 サヤの隣のテーブル椅子に腰を降ろす。ぼくはサヤの指先が生み出すスケッチと

サヤの横顔を見比べながら、何だか楽しい気分になって来た。

 もとはといえば、コジの恋路のアシスト役に過ぎないのだが、こうしてすぐ側で

見ると、サヤだって結構可愛い。いや、サヤの方が断然可愛いよ。


 展望台を涼しい風が吹き抜けた。

 麦わら帽子が飛びそうになり、サヤが慌てて左手で帽子を押さえる。風を孕んで

ワンピースの前の部分が膨らむ。

 その瞬間、ぼくは見てしまったのだ。ブラをつけた、サヤの小さな胸の一部を。

 ぼくはリンゴを丸呑みしたみたいに息が詰まり、直ぐにその場を離れて、サヤに

背を向けた。

「どうしたの」

 とサヤが首を傾げてぼくの方を見た。

「な……何でもない」

 と答えたが心臓がまだドキドキしている。


 甲高い子供の声が響いた。

「あーっ。あそこ空いたよ」

 続いてバタバタとサンダルの走る足音が聞こえる。見るとさっきまでぼくのいた

テーブル椅子に幼稚園児と思しき男の子が腰を降ろすのが見えた。いかにもお疲れ

さんといった感じの両親が、その子のあとに続く。父親の背中では、もう一人の子

が寝息を立てていた。母親がその子を降ろして椅子に座らせたが、その子はすぐに

テーブルに突っ伏して寝てしまった。

 父親が肩を揉みながらドッコイショと言ってさっきまでぼくが腰掛けていた場所

に腰掛けた。

 不味い。あの男の人の位置からじゃ、サヤのが……。咄嗟にそう考えた。

 ぼくは急いでサヤと男の人の間に割って入った。男の人はなんだこいつはという

顔でぼくを睨んだ。

 ぼくはサヤの体を押すようにして、サヤの元居た場所に陣取った。

「なになに。どうしたの」

 と眉をしかめながらサヤが言った。

「いや。あの。ぼくもさ、スケッチして見ようかなって思って」

 と出まかせを言った。

 その嘘を取り繕うために、サヤのスケッチブックから紙を分けてもらい、ぼくも

絵を描く羽目になった。


 浄水場の絵は既にサヤが描いているので、ぼくは湖の中に突き出ている出水塔を

描くことにした。円錐形の屋根は直ぐに出来たが、塔と本体の繋がりが上手く表現

できない。

 やるんじゃなかったな。と内心後悔した。

 サヤが覗き込んで来たので、ぼくは慌ててその絵の上に両腕をかぶせた。


「あれっ。そのアザどうしたの」

 サヤが驚きの声を上げた。

 サヤが見つけたのは左の二の腕に出来たデットボールの痕だった。四日前の試合

で出来た物だが、紫色の半円形が痛々しい。

「ああこれ。デッドボールの痕だよ」

「でっと。ぼうる?」

 サヤが変なアクセントで聞き返した。

「そうだよ。あれ、大隅さんて野球のこと知らないの」

「うん。あんまり」

「そうなんだ。ぼくイーグルスっていう少年野球チームに入ってるんだ。みんな、

うちの小学校の子」

「ふーん」

「森岡中学校ってあるだろ、そこのグラウンドで土曜と日曜の午前中に練習やって

るんだ」


「あっ。森岡中なら私の家のすぐ近くだよ。そうなんだ。あそこで練習するんだ」

段々話しが弾んできた。ぼくは気を良くして

「あのー。大隅さんてどんなスポーツが好きなの」

 と試しに聞いてみた。

 ところがサヤは暗い顔になって

「運動苦手なんだ。かけっこも遅いし。ボールを使った遊びもへたっぴで、ルール

とかも全然分かんないの」

 と呟いた。


「私ね。時々、マサミちゃんのことが羨ましくなる。私もマサミちゃんみたく運動

が得意だったらどんなによかったろうって。自分で出来ないまでも、もうちょっと

球技のルールとか知ってれば、男子ともお話しできるのに…。谷田部君も私とお話

してて、あんまり面白くないでしょ」

「そんなことないよ。大隅さん、良い所いっぱいあるじゃん。料理上手いし、奇麗

な絵もかけるし。ぼく大隅さんと話ししてて、とっても楽しいよ。得した気分」

「ほんとう?よかった。私も…谷田部君と話してて楽しいよ」

 とサヤが頬を赤らめた。


 そのときになって、ぼくは運動公園で野球の試合をやっていたのを思い出す。

 こうやってサヤと話しているのもいいのだが、共通の話題も無さそうだし、直ぐ

に話しのネタがなくなりそうだ。だけど、野球ならば幾らでも話すことができる、

そう考えた。

「ところでさ。スケッチ描き終わった」

「うん。大体…」

 スケッチブックに目を落とすと、これ以上何処に手を入れるのかと思うほどに、

奇麗にまとまった浄水場のデッサンが出来上がっている。

「じゃあさ。運動公園に野球観にいかないか」

「えっ」

「さっき、チラっと見たけど、少年野球の試合をやってるみたいなんだよ」

「うーん」

 サヤが困った顔を返した。

「だめなの」

 と聞いてみると

「マサミちゃんたちと、何処で落ち合うとか決めてないでしょ。私たち、二人とも

スマホ持ってないし、ここ離れちゃいけないんじゃないかしら」

 と答えた。

「歩いてればそのうち合えるよ。どうしても分からなかったら自転車置き場に行け

ばいい」

「…そうね」

 サヤもやっとその気になったようで、スケッチブックをバッグに仕舞い始めた。


 サヤは立ち上がってそのバッグを肩に下げると、さあ行こうという顔でぼくの方

を見た。ぼくも立ち上がって、先にたって運動公園の方にズンズンと歩き出した。

その結果、サヤがぼくの後についてくるような格好になった。

 早く野球の試合を見てみたい。そんな気持ちがあるから、歩くスピードも自然と

早くなる。気がつくとサヤとぼくとの間は十メートルくらい離れていた。

 丁度そのとき、大学生位の男の人がサヤとすれ違った。すれ違いざま、男がサヤ

のノースリーブの袖口を覗き込むように視線を動かしたのに気がついた。

 こ…このロリコン。

 ぼくは慌ててサヤのところまで駈け戻ると、バッグを架けていないサヤの無防備

な左側に寄り添うように並んだ。

「どうしたの」

 とサヤが不思議そうな顔をした。

「いや。その。ぼくも男だからさ。女の子のガード役にならなくちゃと思って」

「そうなの。ありがとう」

 そんな訳で、ぼくとサヤはピッタリと寄り添うように歩くことになった。

 これで、手でも繋いでいれば恋人同士に見えるのかもしれない。などと余計な事

を考えた。

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