カサブランカ・コンプレックス

木船田ヒロマル

カサブランカ・コンプレックス



 やってしまった──。




 土曜の十一時過ぎ、目を覚ました寝床で頭を抱える原因は、昨夜の情事の記憶だ。


 大学の卒業論文、その共同研究者である柴田美鈴と、場の流れからのちょっとした弾みでつまり……その、そうなってしまった。


 宝田ゼミの宝田教授の専門は、統計学的手法を用いた心理学で、要するにアンケート調査などを用いて被験対象グループの内面の輪郭を象るのがその主な研究内容だった。


 「心霊現象に対する態度」という共通のテーマを計画していた我々は、指導教授の提案を受け入れ、質問紙の作成、その配布や回収、統計ソフトへのデータ入力などを共同で行い、昨夜はその膨大なデータ入力の完了を祝って一緒に食事をしたのだった。


 そういう相手として意識していなかったと言えば嘘になる。


 柴田美鈴は比較的真面目な学生で、授業にきちんと出てノートを取っているし、レポートについても安易な丸写しに頼らずに内容のあるものを自分で考えて書いていた。

 映画が好きなこと、吹奏楽のサークルに所属してトロンボーンを吹いていること、ペンギンのグッズを集めていることなどは同じゼミで過ごすうちになんとなく把握はしていた。

 小柄で線も細く、色白黒髪眼鏡の三拍子が彼女を内気な地味キャラに見せているが、共同作業でより一緒に過ごす時間が増すと、その性格は外見の印象に反してどちらかと言えば男性的であり、考え方はサバサバと合理的で、しっかり自分というものを持っているとも分かった。

 かと言ってそれは我儘や傲慢さを伴わず、態度や言説に於いては始終──こう言う表現が適切かどうかは分からないが──「紳士的」で、そのアンバランスな魅力に、共に過ごす時間と正比例して傾倒して行ったことが罪だと言うなら、甘んじて罪人の誹りは受けよう。

 

「ね、今日空いてる? ここで一回、お疲れ様会しようよ」


 そう言いだしたのは彼女だった。


 ファミレスで夕食を取った後、好きな映画の話になり、互いにファンである所の某監督の作品の、彼女が観ていなかったタイトルのDVDを所持していた事から、うちで一緒に観る流れになったのは全く幸運であり結果的には同時に不運であったのかも知れない。


 缶チューハイと缶カクテルで乾杯し、ポテトチップを摘みながら静かな時間が流れたが、中盤のラブシーンが流れ始めた辺りで事態がおかしくなったのだ。


 先に求めたのはこちらだ。

 肩を寄せて掌を重ね、指を絡めた。


 酒の力があったのは認めるが、断じてその勢いだけではない。

 我慢していた「ずっとそうしたかったこと」が、軛を解かれて駆け出したに過ぎない。


 手を伸ばせば……いや、ほんの少し身を捩れば彼女がそこにいる。

 それは圧倒的な解像度を持った現実として五感と理性のキャパシティを易々と越え、普段では決してしない、できないだろう大胆な行動として体外にオーバーフローした。


 彼女はそれを受け入れた。


 見つめ合ったのは両者同時だったし、目を閉じたのは彼女だった。

 彼女にそこまでさせて置きながら唇を重ねない道理があるだろうか。


 そこらから先はどちらかが主体ではなく、何かに突き動かされるような共同作業によりボタンは外れ、衣服は身体から離れてゆき、相手の昂まりで自分を昂めながら、二人は息遣いと鼓動を共有する一つの生きものになった。

 誓って言うが重ねた唇とその先の諸々は、どちらか片方だけの身勝手な欲望の賜物ではない。

 相互に求め合う一つの行為への情熱が、我々の間には確かにあった。



 あった、筈、なのだが……。



 シャワーをお借りしました。

 バイトがあるのでおいとまします。

 またゼミで。


 整った綺麗な筆致の淡々とした短いメモを残し、我が家を後にした彼女の態度は、その日を境に変わってしまった。



***



「じゃ、悪いけど私これで。不安傾向尺度との相関結果は私も見たい。良かったら、カイ二乗検定とt検定の結果、共有フォルダに入れといて」


 愛想以上でも以下でもない笑みをこちらに向けながら、彼女はそそくさと席を立つ。


「ああ……うん」


 同じく微妙に営業スマイル未満の表情で、なんだか煮え切らない返事を返す自分を滑稽に感じながら、その一歩先には踏み出せない。

 ここ一週間、毎日のように顔を合わせながらも、そんなギクシャクした遣り取りが二人の関係性の全てだった。


 この膠着状態の打開が急務であり、且つその引責担当者は先に行動を起こした自分である自覚はあったが、正直どうしていいか皆目見当が付かなかった。


 謝る──のは違うと思う。

 それは二人の関係を、あの夜受け入れてくれた彼女を、侮蔑する行為のように思えた


 きちんと告白して、交際を依頼する。

 これが正解に近いとは感じているが、通常取るべき手続きの順序の逆転は、こういう事案に対するだらし無さを認めることに他ならないし、そもそも彼女がこの関係の終息地点としてそれを望んでいるかが定かでない以上、独りよがりに勘違いしてのぼせ上がった提案になる可能性が厳然としてそこにはあり、それが十二分なブレーキとなってその選択を取るという決断を押し留めていた。


 それに……何より決断の妨げとなっているのは、二人の関係を建設的に深めて行くことが彼女を幸せにするだろうか、という疑問だった。

 逆にそれは、彼女を追い詰め、不幸にする施策ではないか。

 彼女の幸せを願うなら、関係を白紙に戻し、以前の二人の関係に……友人同士に戻るべきじゃないのか。

 

 同時にそのバックグラウンドで、あの夜の色々が、断片的に蘇ったりする。


 それは何のきっかけも前触れもなく、また一度始まってしまったイメージの再生を停止させたり、無視したり、制御したりすることは困難で、それらは甘い痛みを伴うストレスの元凶として生活の中に傍若無人に横たわった。


 気がつけば、観ていた筈の録画バラエティーはとっくに終わってインチキな健康食品の宣伝番組が流れており、カップ麺の為に沸かしたお湯はカップ麺に使うには既にぬるんで、再び沸かし直す必要がある。

 本を読めば目は字の上を滑るばかりで、音楽を聴けばふとした歌詞にまた彼女が浮かんで脳内で祭りが始まる。


 そんな具合でここ数日、何をしても手に付かず、ぐるぐると結論の出ない事を考えてしまっていた。

 

「今から出て来れますか? 橋の近くにいます」


 彼女からそのLINEが来たのは、そんなモダモダした思考のループに支配されながら日々を過ごして十日目のことだった。


***


「リセット、しましょ」


 大学へ向かう道、元荒川を跨いで掛かる歩道だけの細い橋「出津橋」の袂、夕闇を切り取るLED灯の下で彼女は開口一番そう言った。


「少し歩かない?」


 元荒川の両岸は、野原のような川岸を経て一段高い堤になっており、その上は遊歩道として整備され、川に沿って国道に抜けられるようになっている。

 彼女の隣で、彼女の提案に対する返す言葉を見つけらずとぼとぼ歩く内に、再び彼女が口を開いた。


「今の私たちの状態に、私たちは満足していない。ここまでは共通の認識でいいかな?」


 黙って頷く。その点に異論はない。


「だからリセットしましょ。元の二人へ。私たちはいい友達同士だったし、共同研究のパートナーとしてもいい関係だった。

 私は、その関係に戻りたい。

 勘違いしないで欲しいんだけど、あの夜の出来事を後悔したり恨んだりしてはいないのよ。

 あれは、その、つまり私にとっても幸せな時間だったし、あの時は、私自身もそうなることを確かに望んだ。

 でも、結果として私は、あなたとの距離感と言うか……なんて言えばいいのかな、二人の在り方の正解が、分からなくなっちゃった」


 彼女の言葉に感じる二人の関係に対する真摯さとこちらに対する気遣いが嬉しく、しかしその提案が、あの夜のことを無かったことにしようというものであることが哀しく、その感情のうねりは波となって胸の中心にある何かを激しく揺さぶった。


「だから、リセット。戻りましょう、元の私たちに。今日ここで別れたら、明日には以前の私たち。いい友達で、卒論のパートナーだった私たち。きっとそれが私たちにとっては一番いいのよ」


 そこまで言い切った彼女は、どこかほっとしたような優しい表情でその嫋やかな掌をこちらへと差し伸べた。


「もっと早くにきちんと言うべきだった。ごめんね。こんな私だけど友達として、これからもよろしくお願いします」


 にっこりと笑う彼女が夕闇の遊歩道に滲む。

 泣いている自分を意識しながら、でもそれが最適解で、取るべき道だと納得しながら、持てる冷静さを総動員して、頷いてその手を取ろうとした瞬間--。


「やだぁっっっ!!!」


 私の口が勝手に、子供のような拒絶の言葉を発した。

 私の手は彼女の掌を掴んだが、身体はそれで満足せずにその手を強く引いて彼女を懐に強引に引き込み、両腕は彼女を逃さないように巻き込むと力一杯に抱き締めていた。


「やだよぅ、美鈴ぅ……あたし、もう、あなたとただのトモダチなんて……やだぁ……」

「加奈子……」


 抑えは効かない。

 両目からは感情の波のうねりそのままに涙が溢れて止まらない。

 ずっとこうしたかった。

 あの夜の前も、その後も。

 今日より先も、今まさに抱き締めている今でさえ、美鈴を抱き締めて一つになりたいと私の全てが主張して止まなかった。

 私は泣いていたし、震えていた。


「私、あなたが好き! 友達としてじゃない! 一生一緒にいる特別なパートナーになりたい! でも、そのことで、あなたが世間から変な目で見られるのもイヤ! だから、ずっと言い出せなかった! だから、友達でいいと思ってた! けど、けど……」


 そこまでを彼女に伝えたものの、堰を切った想いは感情の更に底に流れる魂の奔流であり、それ以上を言葉にする術を、私は持ち合わせていなかった。


 その時、私の腕の中の彼女が、溜息を吐いた。


 瞬間、私は冷や水を浴びせられたような心地がして息を飲んだ。


「……分かった」


 腕の拘束を緩めて彼女の表情を確かめるとしかし、そこには冷淡や嫌悪とは正反対の温かで穏やかな眼差しがあり、私は改めてその潤んだ瞳の湛える宇宙の深奥を思わせる輝きに打たれた。


「リセットを、リセットさせて」


 彼女は迷いのない、堂々とした声で言った。


「私も……同じだった。遠慮してたの。あなたの将来を辛いものにするんじゃないか、って。でもあなたが……加奈子がそうなら、そこまで思ってくれてるなら覚悟を決めましょ。……二人で」


  私の腕の隙間から自分の腕を抜き出した彼女は、今度は反対に私を包むように腕を回して抱き締め返した。


「こんな私だけど恋人として……これから、よろしくお願いします」


 その直後、虚を突かれて呆然とする私の唇を素早く動いた彼女の小さな唇が奪った。


 柔らかな感触。

 間近に感じる息遣いと彼女の肌の匂い。

 抱擁から溢れる、互いが互いを求めている実感。

 体幹を駆け抜けて行く甘美と背徳の稲妻。

 

 もう戻れない。

 いや、私たちは選択したのだ。


 もう戻らない。

 その先に進むのだ、と。

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カサブランカ・コンプレックス 木船田ヒロマル @hiromaru712

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