エルレィン


 それはきっと、何処にでもある事故、だったのだろう。

 そう。

 ありふれた、不運な事故。ただ、巻き込まれたのが彼女だったというだけの話だ。

 そう、理解はしていても。

「……エステル」

 力の無い声で、横たわる彼女の名前を呼んだ。無論、返事は無い。

 ――あの時。

 パンパン、と軽い音が響き、隣に座っていたエステルの身体が小さく震えたように見え。

 彼女は一瞬、大きな紫紺の瞳を見開き、彼の方を、見た。

 つぅ、と額から鮮やかな赤が一筋、流れ落ちる。

 それは――まるで。

 奇妙な、アートのようで。

 動けなかった。

「エステル――?」

 ぐらり、と彼女の身体が傾いだ。ゆっくりと仰向けに倒れる彼女の手は、何かを掴もうとするかのように天へと向かって突き出される。

 本当は、瞬き一つ程度の刹那の時間だ。だがあの時は、まるで全てがスローモーションのようにとろりと動き、またそのように感じたのだ。

 どさっと身体が地に落ちる重たい音と共に、時間が、音が、何もかもが戻ってくる。

 額に開いた穴から、とめどなく溢れ出る鮮血。それは瞬く間に彼女の顔を真っ赤に染め上げ、地面までもを濡らしていく。

 どう、して。

 それはそう、ただの不運な事故だった。

 近くで始まった銃撃戦の流れ弾に当たったというだけの、不幸な事故。

 国に潜り込み、玉砕覚悟で相手国の若者が乱射した銃弾に、当たってしまったというだけの。

 戦争中に起きた、ただの事故だ。

 理解は、している。

 だけど。

 薄暗い部屋の中、目の前で静かに眠るエステルを前にして青年は一人頭かぶりを振った。鈍い金色の髪がさらりと揺れる。

 その暗い灰色の瞳に宿っているのは、強い決意の光。

「俺は……」

 ぽつりと、零れる。

 理解は――している。

 だけど。

 納得は、到底、出来なかった。理不尽な現実を受け止められない。彼女が犠牲にならなきゃならない現実なんて、何処にもない。

 そう。

 何処にも、んだ。

 決意の光と共に。

 狂気とも呼べる、暗い光が瞬いた。


       













 エルレィンは、王国に仕える科学者である。

 魔法と機械の融合分野における、第一人者だ。その優秀さを買われ、国から小規模ではあるが一つの研究所を任されている。とはいえ、その研究所で研究、開発されているのは専ら、日常生活を楽にする為の魔法を組み込んだ機械である。

 特に、生活を助ける自立型機械人形の開発には最も力を注いでいた。ある程度の思考回路を持ち、人と変わらない外見で人を助ける事が出来る機械人形。

 一度造れば、外見と能力はコピーが可能だ。つまりそれは、大量生産が出来るという事である。今はまだ試作段階だが、いずれ人々の役に立つ凡庸機械になるとして期待されていた。

 現在はもっと細かい部分――肌の感触や髪の質感などをより人に近いものに改良し、予めインプットされた思考回路しか持たない、いわばコンピューターとも呼べるそれをより柔らかい、色んなパターン、性格に基づいて行動出来るような研究が行われている。

 機械人形ロボット、ではなく、自動人形オートマターというところだろうか。

 それも、より人間らしい、自動人形オートマター

 入れ物は、造れる。

 動かすノウハウも知っている。

 そこまでは、彼が今までやってきた事とそう大差ないのだから。

 彼女の髪の毛から採取した細胞で肌や髪を造る。軸となる部分は機械で補い、慎重に融合させる。関節部分には滑らかに動くよう、腐敗しないオイルを入れる。

 彼女の身体が出来上がった時は、一人祝杯を挙げた。動いた時は、まるで子供が出来たかのように喜んだ。

 だが。

 それだけ。

 どうやっても、それ以上の成果は挙げられなかった。出来上がる彼女は見た目はエステルそのものだが、動かすと違ってしまう。ただ彼の命令を聞くだけの、単なる自動人形オートマター。それが、限りなく彼を苛立たせた。どんな思考回路パターンを組んでみても、矢張り優秀な人形以上にはならないのだ。

 ……違う。

 そんなものが、造りたいんじゃない。

 どうすれば。

 どうすれば、エステルに、近づける?

 ――いや。

 どうしたら、エステルを、造れる?

 何が、足りない。

 試作品を前に、エルレィンは一人、自問していた。

 人形を造り始めてから、自分の研究室に篭りっ放しである。研究室には地下が存在するのだが、それは研究所で彼だけが知る、彼だけの空間だ。

 地下特有のひんやりとした空気の中で、繰り返される自問。

 どうしたら、造れるのか。

 認めたくない答えなら、一つ出ている。

 

 矢張り、人間が人間らしくあるには、心の問題が出てきてしまう。特に、知っている人間に近づけたいのなら、尚更だ。

 だがそれは、エルレィンの専門外だ。魔法――特に、精神や心といったものに作用する魔法を専門とする者ならあるいはどうにか出来るのかもしれないが、流石に他人に頼るわけにはいかない。

 かといって、専門外の自分では、調べるといっても限界があるだろう。

 それはつまり、出来ないと言っているのと同義である。

 だから。

 認めたく、ないのだ。

 他の方法を、どうにかして上手くすり抜けられる方法を探しているのである。

 ――ねぇ。

 少し甘ったるいその声は、突然頭の中に降ってきた。

 ――貴方、をしてるのね。

「だ、誰だッ」

 鋭く、警戒の色を乗せた声音。素早く辺りを見回すが、誰も居ない。

 くすくすと、小馬鹿にしたような笑い声。

 ――手伝ってくれたら、教えてあげるわ。同時に、貴方の望みも、叶えてあげる。

「手伝う? 手伝うって、何を。君は一体、何処にいる?」

 今度ははっきりと、楽しそうな笑い声が響いた。

 ――貴方の目の前にいるじゃない。そう、その人形。

「……え?」

 目の前に座っているのは、昨日造り上げたばかりの『エステル』である。まだ器を造っただけの段階であるので、もちろん、動く事も話す事も無い。

 思わず、紫紺の瞳を覗きこむ。

 ――やっだもうー! そんなに小奇麗な顔近づけられたら噛み付きたくなっちゃうじゃない。

 慌てて、顔を引っ込めた。頭の中に、またからからとした笑い声が響く。

 ――魂の入れ方、教えてあげよっか。

「な――ッ」

 今度こそ、言葉を無くしてエルレィンは呆然と人形を見つめた。

 動かないはずの人形の口元が、妖艶につり上がる。エステルならば、絶対に浮かべないだろう凄絶な笑みを浮かべて、人形は言った。

 ――あたしを、解放してくれたらね。

「解放……って」

 ――自由にしてくれたら、代わりにこの身体に魂を入れてあげるわ。

 とん、と自身を指差し、言う。

「そんな事」

 ――出来るわよ? でも、あたしが出て行かないと別の魂は入れられないでしょ?

 それは何とか、概念として理解出来た。一つの器に一つの魂。それは確かに、道理だ。

 思考が、理解出来る事と出来ない事の狭間で板ばさみになっている。これは一体何だ? 自分は、夢でも見ているのか?

 ――夢じゃないわよ。まぁあたしは、とりあえずこの身体のままでも構わないんだけど、貴方が面白い事考えてるみたいだから。

 青年の脳内を覗き見でもしているかのようだ。更に一言、付け加える。

 ――どうせ貴方、んでしょう?

 ぎくりとする。

 本当に、見透かされているようだ。

 エルレィンは苦笑を浮かべると、小さく頷いた。

「俺で手伝える事なら、手伝うよ。ただし」

 ――約束は、守るわ。貴方の望む魂を呼んで、この器に入れてあげる。

「……分かった」

 答えを聞き、すっと人形の両目が細められる。

 ――じゃあ、契約成立ね。早速始める?

「そうして欲しい。俺は、一体何をすれば良い?」

 ――あたしと、手を合わせてくれれば良いわ。後は、貴方があたしのイメージをしてくれれば良い。

「イメージ? 俺は君の事を知らないが――」

 ――だから、イメージで良いのよ。妄想しちゃって良いわよ。

「あ、ああ」

 ――本来なら具現化なんて自分一人出来るんだけど。今のあたしにはまだほんの少し力が足りないのよねぇ。だから、貴方から足りない分の力を精神力で補ってもらいたいの。大丈夫よ、ほんの少し借りるだけだから。それに、折角造ったこの身体も勿体無いでしょう? を呼び戻してあげるのは、お礼もあるけどちゃんと動いているところを見たいから、でもあるのよ。

 説明されたところで、何となくしか理解は出来ない。だが、相手が尋常で無い事だけはよく分かった。矢張り、自分の思考を読んでいたのだろうという事も。

 それでも。

 人形の、胸の高さまで挙げられた華奢な両手に、震える手を重ねる。きゅっと軽く手が握られ、嫌でも心臓の鼓動が増した。

 ――じゃあ、始めるわね。

 瞬間。

 合わせた手の間から、凄まじい光が迸る。

 目を開けていたら潰れてしまいそうな程の光の濁流に、エルレィンは固く目を閉じた。閉じていても、瞼の外では光の渦が荒れ狂っているのが分かる。ちりちりと頭痛がするのは、精神力とやらを使われているせいだろうか。

 ――と。

 光が、急速に収まった。

 ゆっくり目を開けると、そこには赤い髪の女が一人、立っている。

「へぇ。貴方のイメージだとこうなるのねぇ」

 具現化した自分の姿を面白そうに見回して、女は言う。

「ふーん。ツノも翼も無いんだ。あ、でもやっぱりナイスバディ」

「いや、あの……俺のイメージはどうでも良くて。それで、君は一体何者なのかな?」

「ああ。そういや、自己紹介がまだだったわね。あたしはファウスト。って名前の方がご存知かしら?」

「……え?」

 始祖の悪魔。

 今この女は、そう名乗ったのか?

 世界に封印された、滅びを撒き散らす悪魔。確か、その悪魔の名前が、始祖の悪魔だったと、エルレィンは記憶している。

 だが。

 そんなものは、ただの伝説じゃ、無いのか?

 赤い髪の女はにこりと笑って彼を見つめる。何処か危うい光を灯す金色の瞳に、思わず引き込まれそうになった。

「だからぁ。そんなに見つめられちゃったら噛み付きたくなっちゃうってば。貴方、結構美味しそうだし」

 ご丁寧に、舌なめずりのポーズつきの台詞である。また、慌てて距離を置く青年を見て、ファウストは面白そうに笑った。

 それにしても、よく笑う悪魔だ。

 多少ズレた感想を持ちながら、エルレィンは顔を伏せたままの『人形』に視線を移した。右頬に、見慣れない紋章が浮かび上がっている。

「ああ、識別紋章が珍しいのね」

「識別紋章?」

 聞き慣れない単語だ。

「ソレはね、魂の形を現しているの。生者と死者を識別する為の紋章ね。魂が身体に馴染めば、消えていくわ。そして、本当の生者になる」

 って、言われてるんだけど、生き返りなんて滅多に見ないから何処まで本当かは怪しいところ、と彼女は続け。

「ま、あたしの事を信じるかどうかはどうでもいいわ。でもホラ、『人形』にもちゃあんと魂入ってるでしょう?」

 ひらひらと手を振って、告げる。

 その動きに反応したのか、『人形』はゆるゆると首をもたげ、ファウストを、そしてエルレィンを、順繰りと見た。

 まるで寝起きの人間のような、緩慢とした動き。だが、瞳には確かな意思の片鱗が感じ取れる。それはもちろん、彼が造ってきた機械人形達にはどうやっても生み出す事が出来なかったものだった。

「その魂は、呼び戻されるまでにかなりの時間が経っているから、全てを取り戻すまでには相当時間がかかるわよ。もしかしたら、全く別の人格になる事もあり得るし、記憶だって欠片も戻らないかもしれない。そこんとこだけ、理解しておいてね」

「充分だよ」

 どうやっても解決しないと思っていた問題がクリア出来たのだから。

 悪魔でも、何でも良いじゃないか。

 時間など、幾らでもある。

 まず、最初にする事は。

「君の名前は――『エス』だ」

 きょとん、と首を傾げる。

「……エス」

 確かめるように呟いたその声も、エステルと同じ。

 それなのに。

 ――エステルとは。

 何故か、呼べなかった。


       














 研究が明るみに出たのは、突然だった。

 誰がリークしたのだろう。エルレィンがエスに会いに行った時にはもう、研究室の鍵は開け放たれ、中には国王と側近達が居た。

「何を、しておられるのです?」

 緊張で掠れそうになる声を、必死に絞り出す。

 エスを物珍しそうに取り囲んでいた人間達の瞳が、一斉にエルレィンを見た。

「素晴らしい! 何かこそこそ造っておるのは知っていたが、まさかこんなものだったとは。その自動人形オートマターを駒として使えば、我が国に流れる血は少なくなるぞ!」

 時が、凍りつく。

「……今、何と」

 そこまで言うのが精一杯だった。目の前の、この国を統べる人物は、今何と言ったのだ?

「聞こえなかったのかね? 我が国の戦力は以降、この達と入れ替える。命令さえインプットしておけば、こちらの血が流れる事なく、相手の戦力を減らせるだろう。それに、戦力の増強だって簡単になる。素晴らしいぞ!」

「お待ち下さい、私は、そんな、目的で――」

 必死に言葉を搾り出そうとしたエルレィンの前で、国王が『エス』の肩を抱いた。

「この『オリジナル』があれば、幾らでもコピーを造り出せると聞いたぞ? 造れないのなら、こんな人形は必要ない。破棄した上で、国庫を使っての個人的な研究をしたその対価は払ってもらおう」

 端整な顔が、醜悪に歪んで笑みを張り付ける。

 

 どちらにしても。

 同じ事じゃ、ないか――。

 破棄なんて、出来るわけが、無い。

 力なく項垂れ、床を見つめる。暗い笑いが、いつの間にか口をついていた。

 ――ただ。

 ただ。

 幸せに、なりたい。

 そう、願っただけなのに。



 どう、して。



 その日から。

 エルレィンは、彼女達の指揮官に、なった。



 そうして、月日は巡り。

 とうとう、二国間の軋みが断末魔の悲鳴を上げる。



 違う。

 俺が本当に造りたかったのは。

 一面の、紅。

 ある者は武器を。ある者は魔法を。そしてある者は自らの身体そのものを凶器と変えて、攻め入ってきた敵対国の兵士達を蹴散らして行く。華奢な身体が動かなくなるまで、ばらばらに壊されるまで、歩みを止める者は誰もいない。

 窓の外で繰り広げられる、無慈悲な行進。呆然とそれを見つめながら、エルレィンはとんっと壁に背中をついた。

「……違う」

 ぽつりと、力の無い言葉が落ちる。

 窓の外では。

 見慣れた、顔が。

 愛しい、顔が。

 たくさん。

 たくさん――。

「違う」

 ぐっと、拳を握り締める。

 これでは。

 これでは、ファウストの力を借りた意味が無いではないか。

 記憶の中で。

 エステルが、ふうわりと微笑んでいる。

 その額に。

 パンッ――と。

 弾けるように、赤い華が、咲いて。

 血に塗れた白い顔は、にぃっと笑みの形を張り付かせた。

 ――

「違う! 俺が造りたかったのはこんな殺戮兵器じゃないッ! 俺は、俺が造りたかったのは――!」

 ――

 ――造りたいと思った時点で、

 ――その狂気が、あたしを呼び寄せた。

 ふいに、耳元で声がした。

 ――造れると、本当に思ったの? ニンゲンを、貴方が、その手で?

 ――それは、傲慢というものだわ。

 嘲笑混じりのファウストの声が頭に響く。

 ――貴方はね。

 ――これから、罪の償いをしなくちゃならない。

 ――ずっとずぅっと、贖い続けるの。例え生物が滅びても、世界が滅びても、生きて生きて生き抜いて、死ぬ事すら赦されない。

 ――そう。

 ――貴方がその手で生み出した、全ての『エス』を殺すまで。全ての終わりを見届けるまで。

 ――それが、貴方の償い。身勝手な願いで世界を捻じ曲げた、貴方の罰。



 ――神のマネゴトをするっていうのは。



 ――それ程の、大罪なのよ?



 ぷつん、と。

 彼の中で。

 何かが、弾けた。


       
















「うわああああああああッ!」

 隠し持っていた銃を滅茶苦茶に発砲する。何度も何度も、壊れたように繰り返し引き金を引く。思っていたよりもずっと軽いそれは、装填された弾を幾度も弾き飛ばし、いとも簡単に国王の胸を貫いた。続いて、国王を庇おうとして動いた側近の頭も弾き飛ばす。

 エステルの時と同じ。

 これは。

 、だ。

 がんがんと腕に伝わる反動を感じながら、考える事を放棄した頭でぼんやりとそんな事を思った。

 突如、カキン、と虚しい音が鳴り、自分の腕の中の機械をゆるりと見る。武器を握る事に慣れていない右腕は、反動でとっくに麻痺していた。

 引き金を引くと、またカキン、と軽い音が鳴る。反動は、無い。

 ――何だ。

 もう、使えないのか。

 用済みになった銃を無造作に落とし、エルレィンはずるずると座り込む。

 部屋の――城の外では、未だ衝突は続いているようで、喧騒の音がひっきりなしに聞こえてくる。一時的にとはいえ、静まり返ったこの部屋と、外との温度差に少しだけおかしくなって、彼はふ、と唇を持ち上げた。

 一度笑みを浮かべてしまうと、堰を切ったように次から次からくつくつとした笑いが込み上げる。壁に背中を預けて座り込んだまま、彼は肩を揺らして笑い続けた。

 一体これは。

 何て、茶番なんだろう。

 ゆらりと、赤い影が視界の隅で動く。

「……ファウスト」

「あらあら。王様ぶっ殺しちゃうなんて。やっぱり貴方――面白いわ」

「お前が焚き付けたんだろう。あんなモノ見せられて、あんな事聞かされて、これ以上我慢し続けるってのも馬鹿な話だよ」

「それもそうねぇ。でも、今、貴方がここで見つかったら一寸面倒」

 赤い液体に沈む身体を見やる。

「俺は――罰を受けるんだろう? だったら、どうにでもするといい」

 大体、この状況で誰も駆けつけて来ないのがおかしいのだ。

「そういう、投げ遣りな感情はよろしくないわ。少なくとも、あたしの好みじゃないの。逃げてくれないなら、仕方がないわね」

 言うと、ぱちん、と指を鳴らした。

 たったそれだけの動作で、エルレィンの足下に複雑な呪を描いた円が浮かび上がる。ぱぁっと赤い光を放ちながら歯車のように蠢く陣は、驚き、立ち上がろうとした彼を捕らえて放さない。

 ぱちん、と彼女がもう一度指を鳴らす。

 光が、一層強くなった。部屋の床から、大地から放り出される浮遊感がエルレィンを襲う。

 視界が光に埋め尽くされる直前。

 無邪気に笑いながら、赤い悪魔は言った。


       

















 あれから。

 どれだけの時間が流れただろうか。

 国王が死んだ事で、結局争いは相打ちに終わった。誰が国王を殺したのか分からぬまま、ゆるゆると国は滅び、結果、生きる場所を失った人間達も徐々にその数を減らしていった。動物達もまた、身体を維持するのが大変なもの達から順番に姿を消して行く。

 後に残ったのは、滅びを知らない『エス』達と小さな植物だけ。

 だが、その植物もすでに尽きようとしている。何故なら、大地そのものが枯れ果て、水すら世界から無くなってしまったからだ。

 ファウストが告げた残酷な罰。それは確かに自分の身体を蝕んでいるのだと、エルレィンは知っている。

 あの日から、歳を取らなくなった。傷もすぐ治る。病気にもかからない。食べ物を欲したり、喉が渇く事すら、無くなった。

 それでも、生きている。ただ無作為に、生きている。

 試した事は無いが多分、自ら死のうとしても死ねないだろう。

 そもそも。

 全ての大地が死に絶えたこの大地で生き続けている事。その事が、罰が真実である事の証明に他ならない。

 本当に。

 全ての『エス』が活動を終えるまで――生き続けるのだ。

 正確な数も分からない。何処にいるのかも分からない。何もかも分からないまま、彼は『エス』を捜して、滅びを与え続けるのだ。

 最初は抵抗があったその行為も、いつからか慣れてしまった。

 そもそも、コピーされた『エス』は何も持っていない。ただ、見た目が彼女だというだけで結局は人形だ。記憶はもちろん、感情も思考も、何もかも持ってはいないのだ。

 そう、割り切ってしまえば、慣れてしまった。

 神の、マネゴト、か。

 また一人、エスの時間を止めると、青年は自嘲気味に呟いた。

 確かに。

 そうなのかも、しれない。

 いたずらに命を生み出し、自分の勝手な都合で命を刈り取っていく。

 エステルが撃たれた時。

 現実を受け入れる事が出来なかった、現実から目を背け続けた自分への、これは確かに罰なのだろう。

 ――造れると、思ったの?

 ファウストの言葉が甦る。

 造れると、思ったのだ。

 否。

 と、言い聞かせていたのだ。

 ――それは、傲慢というものだわ。

 今となっては、痛烈に響く。

 生み出した仮初の命達は、自分の思い上がりの――罪の象徴だ。

 後、何人。

 足下で壊れている『エス』を見下ろし、思う。

 後、何人残っているのだろう。どれだけの年月をかければ、終わるのだろう。

 そして。

 オリジナルのエスは、一体何処にいるのだろう。

 全てが壊れたあの日。

 エスは、何処にも姿を現さなかった。王もファウストも、彼女については一言も触れなかった。ファウストは、知っていてわざと触れなかったのかもしれないが。

 もし。

 もしも、彼女が戦火に巻かれていたら。あの日、凶弾に倒れていたら。

 ……いや。

 もし、知らないうちに自分がもう手を下していたと、したら。

 最後の可能性だけは、即否定した。確実に見分ける事が出来るわけではないが、オリジナルのエスには多少なりとも感情があるのだ。気が付ける、はずだ。

 曖昧だという事は、恐ろしい。いらぬ想像が、まるで晴れない霧のように精神を蝕んで行く。

 ぎりぎりまで、精神を蝕まれながら。

 青年は、贖罪をし続ける。



 また、長い長い時が過ぎ。



 世界の果てに。

 捜し求めた彼女がいる。

 黒い、艶やかな髪を靡かせて。

 ――そうだ。

 

 懐かしいような、それでいて知らない誰かであるような、複雑な顔をして視線を斜め下へとずらす彼女を見て、エルレィンはそう、確定した。

 複雑な表情をして。

 表情を浮かべる『エス』を、俺は彼女以外知らない。

「……エス」

 そんな、短い名前を呼ぶだけなのに。

 思わず、声が震えた。

 エスが、弾かれたように顔を上げる。その鮮やかな紫紺の瞳に浮かぶ色は、今まで纏っていた憂いとは違っている。

「エル、レィン」

 唇を震わせて、彼の名を呼ぶ。

 安堵と優しさと――ほんの少しの淋しさを綯い交ぜにした色を纏わせた瞳から、つ、と一筋涙が零れ落ちた。


       















 世界の果てで、二人は色んな話をした。

 永遠とも思えるような、長い長い時間。それを埋める事は到底出来ないけれど、埋められるだけ埋めようと努力でもしているように。

 足下には、ぽっかりと底の見えぬ空洞が広がっている。海が干上がってしまっているのではない。本当に、のだ。

 ただただ、険しい崖が、ぐるりと存在している。

 からりと、小石が吸い込まれるように落ちていく。石は何度か切り立った壁に激突しながら、やがて見えなくなった。

 エルレィンは少し後ろに立つエスの手を取ると、申し訳無さそうな笑みを浮かべる。対してエスは、黒髪に映える鮮やかな瞳を嬉しそうに細めて、彼の手を握り返した。

「……終われる、のね?」

「終われるよ。やっと――終われる。君を巻き込んでしまって、ゴメン、な」

 ずっと、溜め込んできた言葉を、やっと告げる。

 エスは、きょとん、と首を傾げた。

「何故、謝るの?」

「君を――から。最初から、見守るだけで良かったんだよな」

 エスは、不思議な笑みを浮かべて彼を見つめる。

「……貴方は、本当は、のね」

「――え?」

 一瞬。

 見慣れた顔が、まるで別人の顔に見え、エルレィンはエスの顔を凝視する。

 微笑むエスの顔は、いつもの、求めていた彼女の顔だ。頬の識別紋章すらあれど、何処も、違うところなんて無い。

 見間違いだと、安堵する。

 それを見て、エスは、全てを見透かすような光を湛えた紫紺の瞳をそっと伏せた。

「謝る事は無いわ。……私は、嬉しかったもの」

 呟いて。

 彼の、手を握る。

 終わらせる時は、この世界から脱出しようと、そう決めていた。

 全てを奪った世界から。

 全てを奪われた世界から。



 二人で、一緒に。



 ――嗚呼。

 これで。

 これで、終わる。

 世界の果てに身を委ね。

 ゆらりと、世界が反転する。

 サカサマに、地面が遠ざかる。

 ごうごうと、耳元で風が吠えた。

 右手に人の手の温もりを感じ、エルレィンは閉じていた瞳を開ける。景色は反転し、二人は物凄い速度で落下していた。何処まで落ちるのかは知らないが、このまま底に叩きつけられたら痛みを感じる暇もなく死ねる事だろう。

 それでも。

 自分に身を寄せるエスの姿を視界に捉え、エルレィンは微笑んだ。

 やっと、一緒になれる。

 それだけを考えて、今まで生き延びてきた。長い長い時間を、永遠とも思える罰を受けながら、生きてきたのだ。

 理不尽に奪われて、一度は取り戻した手の中の確かな温もり。悪魔の力を借りてまで取り戻したそれをもう一度取り戻す為なら、何事もいとわない。

 ふと。

 重たい灰色の空に、青い色が混じったような気がした。微かに記憶に残る、青空を連想させた爽やかな青は、一体何だろうか。

 あれ程、生きている色は。

 

 ざわりと。

 危険な予感が、全身を駆け抜けていく。

「……ピコ」

 同じものを認めて、エスが呟いた――瞬間。

 ばしっと、結ぶ手に強烈な衝撃が走る。右手が、ふわりと軽くなった。衝撃で、エスの手を離してしまったのだ。

 慌てて彼女を捜すと、今の衝撃で弾き飛ばされたのか、手を伸ばしても届かないような位置で彼女は落下を続けていた。

 近寄りたくとも、風の影響で上手く進めない。

 エスは、二人と同じ速度を保ちながら小さな翼をはためかせる、鳥を凝視していた。

 青空のような羽を持つ、小さな鳥。

 終わる世界に相応しくないと思った、生きている青。

 青い鳥は、嘴を器用にひしゃげて、まるで嘲笑っているかのような顔をした。丸いが、エルレィンを真っ直ぐに射抜く。

 見覚えのある、危うい光。

 あれ――は。

真逆まさか……ファウストか?」

 鳥は、今度こそはっきりと嘲笑を浮かべる。

 青い鳥だったものは、むくむくとその姿を変え、やがて一人の女の姿になった。エルレィンの良く知る、赤い髪の女。

 彼女は楽しそうに唇を歪ませた。

「うふ、これで全てが終わったと思った? ざ~んねん、貴方の贖罪は、まだまだこれからよ?」

 ごう、っと風が巻き起こった。

「あたしはね、貴方が気に入ってるの。だから、まだ手放してなんかやらないわ。これからもずっとずぅっと。あたしに美味しい感情を、

 囁くような、ファウストの言葉が風に巻かれて纏わり付く。

 金の瞳が、すぅっと蕩けた。

 瞬間――。

 絶望の色をした、光が、弾ける。

 ぐん、っと身体が上に引っ張られる。

「エス!」

 どんどんと上昇していく中、彼女に向かって必死に手を伸ばす。

 やっと、見つけたのに。

 終わらせるって、約束したのに。

 もう、これ以上。

 離れ離れにしないでくれ。

 例え――地獄の底でも、構わないから。

 今度こそ、一緒に。

 もがくように手を伸ばしてみても、届くわけが無かった。彼女はぐんぐんと遠ざかり、やがてただの黒い点となって視界から消える。



「エス――ッ!」



 世界の果てに。

 喉が破れんばかりのエルレィンの絶叫と。

 高らかなファウストの哄笑が吸い込まれていった。

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