エス
――紅い。
視界を埋め尽くす、一面の紅。
灰色の世界の中で、紅という色だけが激しく主張している。それは、燃え滾る炎であったり誰かの流した血液であったり様々ではあるが、どれも一様に負の感情を背負い込んでいた。
モノクロの世界では、誰もが戦っていた。とある者は武器を持ち、とある者は魔法を放ち、またとある者は素手で目の前の相手を打ち破っていく。それはすでに、戦いにすらなっていなかった。
一方的な、虐殺。
そう言った方が、しっくり来るだろう。彼女達が歩みを進める度、後には屍が増えていく。動いているものは何も無い。ただ、死の匂いを振りまきながら、彼女達は進む。
――嗚呼。
そんな光景を何処か俯瞰して見ながら、彼女は納得する。
見慣れた、光景だ。
一体いつから、見るようになったのだろう。
夢、なんて。
彼女は、夢を見る事をしない。否、そういう機能は備わっていないのだ。
それなのに。
私は――いつから。
覚えて、いない。
ただ、最初からそういう機能が無かった事だけは、記憶している。そもそも、彼女は眠りを必要としないのだから。
だから今も、身体を休めていると言うよりは単に、人のマネゴトをしているに過ぎない。そうやって、時間のサイクルを計っているだけに過ぎないのだ。
目覚めが、近い。
閉じた瞼の裏で繰り返される、モノクロの映像。行進を続ける少女達の一人が視線を感じ取ったのか足を止め、ふとこちらへと振り向いた。
紫紺の瞳が、彼女の視線を射抜く。その顔は、見ている彼女と全く同じ顔をしていた。
振り返った少女だけではない。今眼下で繰り広げられている惨劇を演出しているのは皆、彼女と同じ顔、同じ声を持っていた。纏っている衣服こそそれぞれ違うが、身体つきまで同じであろう事は、彼女自身がよく知っている。
遠い眼下で、少女が小さく唇を動かした。
――貴女は何故。
そこに、居るの――?
柔らかなものが触れている感触を感じ、彼女は目を開いた。感情の映らない瞳に飛び込んできたのは、彼女を上から覗き込んでくる一羽の小さな青い鳥である。少女が目を覚ましたのを見て、青い鳥は肩の上に下りるとくるくると軽やかなダンスを踊った。
「ありがとう、ピコ。起こしてくれたのね」
感謝の言葉とは裏腹に、感情の起伏の感じられない声音で彼女は言う。ピコ、と呼ばれた青い鳥は得意気に頭の長い飾り羽を一本、ぴん、と立てるとその姿から容易に想像が出来る高く綺麗な声で一声、鳴いた。
そんな鳥を一度だけ撫で、彼女は身に纏っている白い衣服に絡みつく土や埃を軽く払って立ち上がる。寄り掛かっていたのは、とうに枯れて命の欠片も感じられない大きな木の根だった。根が這っているのは草花が生い茂っている草原ではもちろんなく、こちらも赤茶けた土が覗くだけの固い大地である。少女が夜、背を預けるにしてはあまりにも無骨な場所であろう。
だが、彼女の周りには、同じ様な景色しか広がっていなかった。暖かな緑色をした草花の欠片も見受けられず、瑞々しく茂る青葉の一つすら確認出来ない。彼女の足下に、眼前に広がっているのは、命の営みのまるで確認出来ない枯れ果てた死する森だったのである。その果てた森の中にあって意思を持って動き、声を発する少女と青い鳥は、まるで何処からか紛れ込んだ異物のように見えた。
青い鳥は、彼女の肩から飛び立つと、先導するようにゆっくりと前を飛ぶ。彼女も鳥を追い越す事はせず、歩調を合わせてゆっくり歩く。
枯れ果てているのは、草花だけではない。大地を駆けるべき命も、青い鳥の仲間であろう羽を持つものも、そして小さな虫達も。命を持つ全てのもの達が、この森から、否、この世界からは欠如している。
更に。
赤茶けて乾いた大地には、水というものが存在しないようにみえた。枯れた森の中には幾筋もの溝が走り、昔は川だったのだろう事が分かる。だが、今は乾ききり、湿ってすらいない。命の水無くして彼女達はどうやって生きているのか。それははなはだ疑問であるが、だが、少女と鳥は確かに動いて、活動していた。
枯れた森が徐々に開ける。
頭上を遮るものが無くなり、青い鳥はくるりと旋回すると、遥か上空へと飛びあがった。
木々が無くなり、広大な荒野が視界に飛び込んでくる。
開けた大地にあるものは。
一面に広がる、十字架。
大きなもの、小さなもの、斜めに傾いで立っているもの、良い材料が見つからなかったのか歪んで歪な形をしたものまで様々であるが、それらは皆一様に、墓だった。どれも、名前は刻まれていない。誰が埋まっているのか分からないその棒切れの組み合わせは、遥か地平線までずっと続いている。
彼女はざっとその光景を眺め、灰色の空を眺めた。この大地には水は存在しないというのに、空はいつもどんよりと重たい色をしている。その中でぽつん、と豆粒のような、動いている青い点は先程の小鳥だろう。
少しの間、青い鳥の様子を窺っていた少女だが、やがて目の前に広がる光景へと視線を移す。
広大な大地に無造作に立ち並ぶ十字架の間をすり抜け、彼女は昔川だったのであろう大きな溝へと足を進めた。とっくに枯れて干上がり、水こそ流れてはいないものの、結構な高さと幅がある。少女の足では、底まで下りるのにかなりの時間を要した。
かつて川底だった場所へと降り立ち、少女は何かを探すようにあちらこちらを見て回る。
ふと。
目当てのものが見つかったのか。岩が張り出し、陰になっている場所で彼女は足を止めた。その場にしゃがみ込み、黙々と土をかき出している。
岩の陰から、ぬっと覗いたもの。
それは――人の、腕。
白い腕だけが、天に向かって伸びていた。少女はそれを掘り出そうとしているのである。
腕が、ぱたりと地面に落ちる。腕があるのだから当然繋がっていなければならないはずの胴体は、埋まっていないらしい。
腕だけであるのにも関わらず、その腕は腐敗も、変色すらしていなかった。それどころか、血液すら、流れ出していない。その切断面は綺麗に丸く形取られ、生きていた人の腕、というよりは、人形の
掘り出した腕を表情一つ変えずに持つと、少女は近くを念入りに調べ始める。どうやら、他の部位を探しているようだ。繋がっていなくとも、近くにあるだろうと考えるのは妥当であろう。
やがて、少女は腕が埋まっていた場所より少し高い場所……自分の目線辺りの高さの壁の部分をこんこん、と叩くとしばし首を傾げ、す、と掌で軽くさすった。
まるで、壊れ物でも扱うように、慎重な仕草で、少しずつ土を剥ぎ取っていく。
丁寧で時間の掛かる作業をどれぐらい続けただろうか。
それこそ人形のように顔色一つ変えず、汗すらかく事をせずに続けた作業。それはまるで、遺跡や化石を発掘でもするような細やかな仕草で。
彼女が発掘しているものが、徐々にはっきりとした輪郭を帯びてくる。丸みを帯びたしなやかさすら感じさせる肢体は、右腕が肩からばっさりと無くなっているのを除けば、若い女性のそれ。
少しずつ土がこそぎ落とされ、埋まっている人間が露になる。
身長は、発掘している彼女とほぼ同じ。体格も、ほとんど同じだ。
いつの間にか。
彼女は、彼女と向き合っていた。
着ている衣服は彼女よりも薄着だ。埋まっていたのだからもちろん、あちらこちら土で汚れてはいる。
だが。
そういった部分を抜かせば、顔や体格、髪の長さまで、まるで双子でもあるかのように似通っていた。むしろ、コピーと言って差し支えないほどそっくりである。恐らく、閉じられた瞳の色すら、同じだろう。右頬に真っ赤な色で記された、不可思議な紋章までが一緒である。
そして。
腕と同じく、全く腐敗していない。まるで眠っているかのごとく、綺麗なままだ。
回りを見ると。
今は、川底の所々に不自然な窪みや、白い布の端切れ、そして、細い指のようなものが散らばっているのが分かる。ここには、他にも同じ様な沢山の亡骸が眠っているのだろう。
彼女は、掘り起こした自分とそっくりな少女の左腕を肩に回すと引きずるように歩き始めた。川底の上の荒野まで、細身の身体の一体何処にそんな力があるのかと不思議になる。
無事上りきった彼女が行なった事は、埋葬だった。穴を掘り、丁寧に少女を埋めていく。切り離されていた腕も一緒に埋め、盛った土の上に枯れ木で作った十字架を立てる。
殺伐とした悲しい作業を、淡々とこなし、彼女はまた川底へと向かった。
これが、彼女の毎日。
同じ顔をした人形達を発掘し、皆同じ場所に埋葬し、墓を作り続ける事だけが、彼女の仕事。
毎日、その繰り返し。
いつからそうしているのかはもう、分からなくなった。
ただ。
ただ、そのままにはしておきたくない。
その一心で、彼女は動いているのだ。
いつから、そう思ったのかも分からない。
そして、今日も。
紅い、夢を視る――。
遠い、声。
誰かが、名前を呼んでいる。
懐かしい――聞き慣れた声で。
だが、視界は霞み、薄ぼんやりとしている。覗き込んで名前を呼ぶ男の顔も満足に見られない。
やはりそこは、モノクロの世界だ。霞掛かった視界で捉えられるものに色はついていない。認められるのは、自分の掌にべったりと張り付いた、赤。
男は必死に、名前を呼び続ける。だが、はっきりと聞き取れない。
背中が、奇妙に生暖かい。
彼女は、赤い掌を、男に向かって突き出した。
その手を受け止めたのは、男ではなく。
彼女と同じ顔をした、彼女と同じ鮮やかな紫紺の瞳を持つ少女。
少女の右頬には、紋章は無かった。
その代わり、白い額から一筋の赤い雫が滴っていた。
少女は冷ややかな視線で彼女を見下ろし、そして問う。
――何故?
貴女はどうして、そこに居るの?
いつもの問いは、まるで呪詛のようにねとりと彼女に絡みつく。
はっと、弾かれたように上半身を起こした。紫の瞳を大きく見開き、白い両腕で自身の身体をかきいだく。
珍しく、息が荒い。乱れた呼吸が治まるまで、彼女は自身を抱いた格好のままじっと固く目を閉じた。そうしていなければ、震えていたかもしれない。
深い呼吸を繰り返し、彼女は少しずつ安定を取り戻す。
ゆるりと緩慢な仕草で腕を解き、重たい瞼を押し上げる。枯れた森の中はいつも以上に静かで薄暗かった。まだ、陽が昇っていないのだ。ふぅ、と一つ大きな息をつき、彼女は木の幹にもたれかかる様にして立ち上がる。
目覚めた時より落ち着いたとはいえ、かき乱された心は未だざわざわと不穏な音を立てていた。
……何だろう。
細かい夢の内容は、覚えていない。おぼろげに輪郭だけを残して脳内から消え去っている。
だけど。
あの、声は。
私は。
確かに、あの声を――。
知っている。
ずきりと、頭が酷く痛んだ。だがそれも一瞬。痛みはその一度だけですぐに引いた。
木の幹に手をかけ、少々覚束無い足取りで森の外へと向かう。時折ふらりと傾ぐその姿は、今にも壊れてしまいそうなほど儚い。
森の外の、冷たい空気が吸いたかった。森を抜ければただの荒野しか広がっていないけれど、それでも、枯れた枝に空気が絡め取られ、淀んでしまう森の中よりはずっと良い。一緒に土埃が舞う事もあるけれど、風そのものは留まらず、循環している。
靴の下の、土の感触が変わる。程なく、森を抜けた。
陽が昇る前の静かな大地。まだ夜であるから青い鳥もいない。
張りつめた冷たい空気を、静かに吸い込むと、やっと思考がクリアになった。
一度、夜空を見上げ、何処へとも無く彼女は歩く。空には相変わらずぶ厚い雲がかかっているのか、瞬く星は一つも見えない。月さえ、何処にあるのか分からなかった。
どれ程の時間、歩いていたのだろう。彼女は徐に、歩みを止めた。
否。
止めざるを得なかったのである。
彼女の先には。
もう、大地が無かった。
ぽっかりと。
足下には垂直な崖が認められるのみである。幾ら目を凝らしてみても、到底底は確認出来ない。その他、地面と認められるものは、見渡す限り何処にも無かった。
下から吹き上げる風が、いたずらに彼女の黒髪をふわりと持ち上げて過ぎて行く。
――世界の果て。
ここは、かつてそう呼ばれていた場所である。その名の通り、これ以上先に地表は存在しない。この世界は、ぐるりと世界の果てに取り囲まれているのだ。
世界に果てがある事は、大昔から誰もが知っていた事実だ。果ての向こうに何があるのかと唱える者ももちろん居たが、結局その疑問を解消出来た者は一人もいなかったのである。
遠く、深く。
白く霞む、果ての底を覗き込んだ時だった。
ざっと、荒野を踏みしめる音が聞こえ、はっと振り向く。
「……エス」
懐かしい声が――聞こえた。
夢の中で、必死に彼女を呼んでいた、あの声。
あの声で。
もう長い間呼ばれる事の無かった、彼女の名前を、呼んだ。
弾かれたように、声の主を見る。
開いた唇から、ぽろりと零れ落ちたのは、一つの名前。
「――エル……レィン」
待ち望んでいた顔が。
薄ぼんやりとしていた夢の顔が、はっきりと重なる。
遠い記憶の中にある顔が、そこにはあった。鈍色の光沢を放つ金髪が、風に吹かれてさらりと揺れる。
つ、と彼女の頬を一筋の雫が伝った。
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