これは未来の、黒猫からの贈り物
「それでは準備はよろしいですか?」
真っ白な部屋に一組の机と椅子があって、私はそこに座っている。
目の前には白衣を纏った女性が立っていて、机の上には小さなチップが一つ置かれていた。
「はい、大丈夫です」
私はその女性の言葉に頷き、そうすると目の前に置かれていたチップを傍らに置かれていた水晶に囲われた立方体の端末に差し込む。そこからはコードが延びていて、部屋の隅に置いてある2mほどの高さがある卵型のボックスに接続されている。
「それではこちらへ」
女性は手招きをして、私は卵型のボックスの中に入り、静かに目を瞑る。
「いま、君の最期を見に行くよ。クロ」
そして私はこれから今朝死んでしまった飼い猫のクロとなって、その最期を見届けるのだ。
◇◇◇
様々な脳機能と接続することの出来る埋め込み型チップがこの世に存在し始めた、今はとにかくそんな時代になった。
チップにはいくつかの種類が存在していたけれど、とりわけ話題になったのが視覚情報保存チップ・VPCだった。脳に伝わる視覚情報を常に保存することで日々の生活の中で起こる些細ないざこざから深刻な犯罪までをすべて把握し抑制していく、そんな文言とともに登場したVPCは、当然だけれども人々には受け入れられなかった。
人々はVPCの登場を口々に非難し、だけれど政府はそれを推し進めようとして、最終的には折衷案として人以外の動物に試験的に運用することになった。
つまるところ、それはペットへの限定的適用。
私は一匹の猫を飼っていた。
クロという名前で、ちょうど、そんなVPCの登場したころに一緒に暮らし始めたのだ。
つやのある黒い毛並で、透き通るサファイア色の瞳を持って、立派な白い髭を携え、愛らしく“にゃあ”と鳴く猫だった。もう何年も一緒に遊んだり、寝たり、話したり、歩いたり、本当にいろいろなことをして、これからもずっと一緒だと思っていた。
そんなクロが今朝、死んでいるのが見つかった。
原因は詳しくはわからなかった。けれど、道路際で発見されて強い衝撃でボロボロだったことから、車と事故に遭ったんだろうって結論付けられた。
でも、私は知っているんだ。
クロは賢くて、滅多に遠出はしない。家の庭で日向ぼっこをして、時々家の周りをぐるりと歩くくらいで危ないことは絶対しないんだって。
私の中にあるクロと出会ってからの毎日が、ミルクをあげて、一緒に遊んで、喧嘩して引っかかれて、仲直りして一緒に寝て、そうして過ごしてきた毎日の思い出がそう言っている。
だから私は何でクロが死んでしまったのか、それを知るんだって決めた。
VPCはクロにも使われていて、事故でチップ自体は壊れてしまっているけれど、VPC識別番号さえ分かれば、直前数時間ほどの情報は見ることができるらしい。
そして、そこにどんな辛いことがあったとしても、苦しかったとしても、見たくないものだったとしても、それはクロの飼い主である私の役目だと強く思ったのだ。
そんな思いを抱いて目を瞑っていると、自分の体が無重力空間にいるようにふわりとした感覚に包まれて、真っ暗な視界に文字が表示される。
―VPCナンバーP17364c
―再生準備可能
―死亡推定時刻直前3時間の再生を行います
―再生まで5
―4
―3
―2
―1
―P3-VPC再生開始
そして私はその3時間だけ、クロの世界を見た。
◇◇◇
まず初めに感じたのは太陽の眩しさだった。
気分としては朝、目が覚めたのに似ている。
だけど自分で起き上がろうとしても起き上がれない。自分の思い通りに体が動いてくれない。
視点もいつも寝ているベッドをいま見上げている状態だ。
ふと勝手に体が動き出して、一瞬の跳躍でベッドの上に飛び乗る。
そこには……私がいた。
そうか、これがクロの視点だったんだね。
決して自分では見ることのない視点に立って、私は始めてこれがクロの見ていた世界なんだと理解する。
クロはその黒い右手を寝ている私の顔にぽんとのせる。
「あ……クロ、おはよ~」と寝ぼけた声で私は声を出している。
こうして耳に響く私の声も、ぽんと乗せた右手の感触もこれでもかっていうくらいリアルに近くて、それでこれから私はクロの最期を見るんだと、改めて胸が締め付けられるような気持ちになる。
そうして少しの時間を過ごすと、クロから見る景色がこんな世界だったんだって、そう実感する。
「今日もいい天気だね、クロ」と頭を撫でられる。その優しい手つきがすごく気持ちよくて、目を細める。
私は机の中から指輪を取り出し、それを指につける。クロはそれに興味を示すように近づいていく。
「ん、クロ? これはね私の大事な指輪なんだよ。ね、きれいでしょ?」と指輪に光をかざしてクロに見せる。
クロの視線はただずっとその指輪に釘付けになっていて、なんとなく私の言葉を分かっているんだなって分かった。
しばらくするとお昼ご飯の時間になった。
その日は珍しく出張続きのお父さんと病院勤めのお母さんが二人とも休みで、よく晴れた気分のいい日で、だから庭で気持ち良くご飯を食べよう、そういった話になったのだ。
そして、そんな幸せを絵に描いたような日の午後に私はクロの死というものを見たのだ。
今、クロである私は庭に出された椅子の上で丸くなって、みんながごはんの準備をしているのをのんびりと眺めている。
しばらくすると準備ができたのか、「クロ、ご飯だよ」と私の声が聞こえ、そのまま抱きかかえられて、地面に置かれた銀色の皿の前に連れて行かれ、そのままご飯を食べる。猫の気分になっているからか、おいしいご飯で、頭の上では「わあ、おいしそうだね」「サキ、ご飯のときくらい指輪はずしなさい!」「えー」「ねえねえ、ママ、もう食べていいの、食べていい?」「ミキ、食べるときはみんな一緒だから、もう少し待ちなさい」「はい、はずしたよ。それじゃ」「「「「いただきます」」」」という楽しそうな談笑が聞こえ、早々にご飯を食べ終わったクロは地面に寝そべり、うたた寝にはいった。
気が付くと、もうみんなご飯を食べ終わっていて片づけに入っていた。立ち上がって伸びをして、さて家の中にでも入ろう、そう思った時、突然一羽の大きなカラスが庭に出してあったテーブルの上に飛び降りた。
「きゃっ!」とそのとき唯一外にいた私はその真っ黒なカラスを怖がってすぐ家の中に入って、その間にカラスはすぐに飛び去った。
もちろん、その時家の中に逃げ込んだ私は知る由もない。
だけど、ちょうどクロには見えてしまったのだろう。クロの視点から見ている私も気づいた。
さっきのカラスのくちばしに私の指輪がくわえられていたことに。
『これはね、私の大事な指輪なんだよ』
ふと、クロの思ったことがそんな風にして伝わってきたような気がする。
そこから二度の跳躍、外に出してあったテーブルの上から塀の上に飛び乗ったクロは一気に走り出して、飛んでいったカラスの後を追う。
『指輪を取り戻す!』
そんな気持ちが直に伝わってきているようだった。
もちろんそのことには誰も気づかない。
そこから先は目を瞑ってしまいたかった。きっとこの先にクロの死があるのだと思うから。
でも、これは私が選んだことで、何が起こっていたとしても見届けるって決めたんだ。震える目をしっかりと見開いて先の未来をただ見ようと、そう思った。
家を出てから随分と走った。別にクロは疲れていないけど、人の私から見たらそれくらいの距離だった。私の指輪をくわえたカラスは、ある一本の木の上に飛び降りた。そこに巣があるのだろうか。
クロはしばらく近くの塀の上からカラスのいる木を何か思うようにしてじいっと見つめ、そしていきなり勢いよく木に向かって走り出す。
目まぐるしく変わる景色の先にこげ茶色の木肌が見えたかと思うと、一転その跳躍で木枝に飛び乗り、そのままカラスの巣があるところまでいく。
カラスは自らのテリトリーに危機が訪れたかのようにクロを見てカァカァと濁った声を響かせ、威嚇する。それに怯まず怯えず、そのまま枝から枝へと飛び乗り、ついに目と鼻の先に指輪のある巣のところまで来た。
だけど、そこに立ちはだかるようにして一羽の黒いカラスが立っていた。鋭い眼光を持って、そこでクロとそのカラスは初めて目を合わせる。
もはや威嚇でしかない行動。もうこれ以上こっちに来るなというカラスの意思表示。
クロは毛を逆立て、そして一気に細い枝の上を駆け抜ける。カラスは大きく羽を広げ飛び上がり、クロに向かう。
『逃げちゃだめだ。絶対に取り返す』
まるで自分に言い聞かせるようにして、クロは前足を踏み出す。
向かってくる捨て身の突進。少なくとも私は恐怖した。
クロの視点から見るその黒い大きなカラスはまるでミサイルか何かのように見えたのだ。
だけど、それでもクロは退かない。
そして時間にして数瞬、カラスの攻撃による鋭い痛みと、突進したことによる鈍い痛みをほぼ同時に受け、巣から素早く指輪を取り戻し木から一気に飛び降り、すぐさま家へと走り出す。
『やった、取り戻せた』
満足気だ。ズキズキと痛む体で走って、口に指輪をくわえて、これで家に帰ったらほめてくれるかな、その気持ちが自然と流れ出してくる。きっと褒めてくれるよ、私はそう思った。
一体私はどこからこの一部始終を見ていたのだろうか、そんなことを思うなんて。
突然耳に入り込んできたのは、再びのカァカァという濁った響き声。空を見上げると一羽の黒いカラスが飛んでいた。さっきのカラスが追いかけてきたのだ。
そして見上げた瞬間、一気に急降下してくるカラス。
『逃げよう』
道路に飛び出して、まさにその時だった。
クロの一人の戦い、恐怖に打ち勝ち、大きな存在との対決、指輪を取り戻すという行為。時間にしては短かったかもしれないけれど、クロの中ではとても長かった時間。それに比べるとあまりにも短すぎる一瞬。
車に轢かれた。
そう気づいたのは、視界が宙に浮いて揺れて、そして一瞬の激痛、身を引き裂かれんばかりの痛みが体中を駆け巡ったときだ。
多分クロにとっては何が起きたのか分からなかっただろう。ただ、くわえていた指輪を離さないようにしっかりと口を閉じることしかできなかった。
その後、地面に頭から真っ逆さまに落ちて、それがクロの最期だった。
◇◇◇
それはまるで白昼夢でも見ているかのような感覚だった。
猫の視点を見るだなんて、そもそも現実離れしていて、あれは実は夢でクロはまだ生きている、なんてそんなことまで思ってしまう。VPCRepeatが終わったばかりのときは激しく乱れていた動悸が大分収まり、クロのお葬式を行った。
火葬した棺の中にはクロだった白骨と灰と、その中に埋もれるようにして私が大事にしていた、クロが取り戻してくれた指輪があって、それを見て、気づけば手を伸ばしていた。
手を伸ばして指輪に触れて、
「あつッ!!」
痛むほどの熱が一気に指に伝わってきた。
その痛みが、目に映る指輪の存在が、さっきまで見ていたクロの記憶は紛れもなく、クロの最期だったんだとやっと分かって、両の目から一気に涙があふれ出した。
「あ……、うっ…………なんでっ……?」
嗚咽が止まらない。苦しい。
「なんでっ……なんで……あああぁっ!」
静けさのある火葬場に私の嗚咽が響きだす。
あれは紛れもない現実だ。分かってたことだったんだ。でも信じたくなかったんだ。
クロは私の指輪を取り戻して、死んだ。
『指輪を取り戻したらほめてもらえるかな』
『やった、取り戻せた。これで……』
『せっかく取り戻せたのに。また落としちゃ、ダメだ!』
私とクロの境界が取り除かれた追体験の中で、クロが思ったことが鮮明に頭に浮かぶ。
「褒めて……あげたいよっ! 褒めてあげたい。よくやったねって……」
私なんか、カラスが怖くて逃げてしまったのに。それなのにクロはそんな相手に立ち向かったんだ、すごいって。
「頭を撫でてっ…………」
その気持ちよさを私は知って、だからこそ
「頭を撫でて……目を細めて、クロにっ……喜んで……ほしいっ!」
だけど、いくら頭を撫でようとしても、すごいって、ありがとうって言おうとしても、クロはもう……、私の話を聞いてくれない、愛らしい声で鳴いてくれることもない。
もう……絶対にっ……。
「ごめんねっ、クロ……私がもう少ししっかりしていればっ、……こんなことにはっ!」
褒めても、頭を体を撫でようとしても、話しかけても、ごめんって謝っても、もう何も言ってくれない。
「ごめんねっ……、無責任にあんなこと言っちゃって。……私の話、ちゃんと聞いていてくれたんだよね」
それで、指輪を守ってくれたんだよね。
「なのにっ……それなのにっ……もう……ありがとうって言いたくてもっ……言っても、伝わらないんだよね」
あれだけ私の話を聞いてくれていた、ちゃんと聞いてくれていたクロは……もういない。
その時初めて、クロが死んでしまった、その現実が初めて本当の意味で分かったような気がした。
「うっ……うぅっ……」
だからこそ、ただ私の嗚咽が口から漏れ出るだけだった。
◇◇◇
クロが死んでから決して短くない時間が過ぎた。
あの日、結局私は飽きるまで泣いて、それで家に帰ってすぐに寝てしまった。
その時見た夢を私は覚えていない。
だけど、朝起きたら自然と胸の中にあったもやもやとしたわだかまりは不思議と消えていた。
もしかしたら、夢の中でクロと会って思うだけの話をしたのかもしれなかった。
しばらくは、クロが死んだのは私のせいだ、とか私がもっときちんとしていればクロは死なないで済んだかもしれないのにと思うこともあった。
だけど今はそんなこと考えてない。
クロは私にそんなこと思ってほしくて、あんなことをしたのではないと思うから。
私もそんなことがしたくてクロの最期を見たわけでもなかったから。
ただ知りたかったんだ。受け止めるべきだと思ったんだ。
そこに幾ばくか私の責任があることは重く受け止めた。
だけど、それよりも……
「格好良かったよ、クロ」
そうクロのお墓の前でつぶやく。
「クロが守ってくれた指輪、ちゃんと大事にしてるよ……。それにね、今じゃ私も守らなくちゃいけない人がたくさんできたんだ。少しはクロの気持ちが分かるようになってきたんだよ」
こんな今の私があるのもきっとクロのおかげだ。
「だからね、クロ……私のことちゃんと見ててね。絶対に後悔させないように頑張るから。……頑張って、皆を守って、生きるから」
ふわりと風が優しく嬉しそうに舞った。
私は「ふふっ」って笑って、
「それじゃ……行ってきます、クロ」
そう、未来に向かって足を踏み出した。
黒猫からの贈り物 風鈴花 @sd-ime
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