黒猫からの贈り物

風鈴花

黒猫からの贈り物

 今日、飼い猫が死んだ。

 クロという名前でつやのある黒い毛並で、透き通るサファイア色の瞳を持って、立派な白い髭を携え、愛らしく“にゃあ”と鳴く猫だった。もう何年も一緒に遊んだり、寝たり、話したり、歩いたり、本当にいろいろなことをして、これからもずっと一緒だと思っていた。

 そのクロが車に轢かれて死んだ。道端に転がっていたらしい。動かなくなってしまったクロを見て、触って、撫でて、ただ冷たいと感じた。妹が泣き喚いて、両親がそんな妹をなだめて、その脇で私は静かにクロを庭に埋めた。墓標を立てて、手を合わせて、庭でクロの墓を見ている家族を残して自分の部屋へとひとりこっそり戻った。

 体をベッドに投げ出して、枕に顔を埋めて、そうするとじわりと心の奥底から悲しみがあふれ出てくる。

 クロとの様々な思い出が走馬灯のようにして頭の脇を通り過ぎていった。

 クロが初めて家に来たこと、赤ちゃんのクロにミルクをあげたこと、ひっかかれたこと。

 楽しかった時も辛かった時もいつも一緒だった。

 その思いが枕を濡らし、歯を食いしばらせた。それは一端始まってしまうともうどうしようもなくて、止めることなんてできない。

 ただ“なんで死んでしまったの”という思いを胸にそうし続けるしかなかった。


 太陽の眩しさを感じて目を覚ます。

 ああ、私あれから寝てしまったのか……。目を開けて体を起こそうとして、ふと異変に気付く。

 あれっ、体が動かない! 起き上がろうとしても起き上がれない。自分の思い通りに体が動いてくれないのだ。

 それによく考えると寝ている場所もおかしい。だって、いつも私が寝ているベッドを今私は見上げている。

 ふと勝手に体が動き出して、ベッドの上に飛び乗る。

 そこには……私がいた。

 え、ちょっと待って、これって……?

 深く考えさせてくれる時間もなく、私は私の黒い右手を寝ている私の顔にぽんとのせる。

「あ……クロ、おはよ~」と寝ぼけた声で私は、私に言う。あれ……クロ……?

 って、もしかしてこれってクロの視点?

 夢……、夢だよね。あ、だけど体動かせないから頬をつねって、夢かどうか確かめることできない……。

 でも夢にしては伝わってくる感触とかがやけにリアルだよね。

 しばらくはあれこれ考えていて、ああじゃないとかこうじゃないとか思っていたけど、最終的には落ち着いた。

 夢とか現実とか関係なくて、今私はクロがすることをして、クロが見ているものをみているのだと、ただそれだけを理解した。

 でも……ああ、そっか……全然知らなかったな。これがクロの視点なのか。

 でも、まあきっと心の底ではこれが現実であるはずがないって思っていたはずだ。

 だって、もうクロは死んでしまっているのだから。


 クロから見る景色がこんなものだったのか、そう思わされる。

「今日もいい天気だね、クロ」と頭を撫でられる。その優しい手つきがすごく気持ちよくて、目を細める。

 私は机の中から指輪を取り出し、それを指につける。クロはそれに興味を示すように近づいていく。

「ん、クロ? これはね私の大事な指輪なんだよ。ね、きれいでしょ?」と指輪に光をかざしてクロに見せる。

 クロの視線はただずっとその指輪に釘付けになっていて、なんとなく私の言葉を分かっているんだなって分かった。


 私がクロの視点から見るその日は、実際現実にあった日で、さらにクロの死んでしまった日なのかもしれない。そう気付いたのは、その日の昼ごはんの時。

珍しく出張続きのお父さんと病院勤めのお母さんが二人とも休みで、よく晴れた気分のいい日で、だから庭で気持ち良くご飯を食べよう、そういった話になったのだ。そんな日、そうそうない。

 そして現実で、そんな幸せを絵に描いたような日の午後に私はクロの死というものを見たのだ。

 今、クロである私は庭に出された椅子の上で丸くなって、みんながごはんの準備をしているのをのんびりと眺めている。

 しばらくすると準備ができたのか、「クロ、ご飯だよ」と私の声が聞こえ、そのまま抱きかかえられて、地面に置かれた銀色の皿の前に連れて行かれ、そのままご飯を食べる。猫の気分になっているからか、おいしいご飯で、頭の上では「わあ、おいしそうだね」「サキ、ご飯のときくらい指輪はずしなさい!」「えー」「ねえねえ、ママ、もう食べていいの、食べていい?」「ミキ、食べるときはみんな一緒だから、もう少し待ちなさい」「はい、はずしたよ。それじゃ」「「「「いただきます」」」」という楽しそうな談笑が聞こえ、早々にご飯を食べ終わったクロは地面に寝そべり、うたた寝にはいった。


 気が付くと、もうみんなご飯を食べ終わっていて片づけに入っていた。立ち上がって伸びをして、さて家の中にでも入ろう、そう思った時、突然一羽の大きなカラスが庭に出してあったテーブルの上に飛び降りた。

「きゃっ!」とそのとき唯一外にいた私はその真っ黒なカラスを怖がってすぐ家の中に入って、その間にカラスはすぐに飛び去った。

 もちろん、その時家の中に逃げ込んだ私は知る由もない。

 だけど、ちょうどクロには見えてしまったのだろう。クロの視点から見ている私も気づいた。

 さっきのカラスのくちばしに私の指輪がくわえられていたことに。

『これはね私の大事な指輪なんだよ』

 ふと、クロの思ったことがそんな風にして伝わってきたような気がする。

 そこから一瞬の跳躍、塀の上に飛び乗ったクロは一気に走り出して、飛んでいった カラスの後を追う。

『指輪を取り戻す!』

 そんな気持ちだった。

 もちろんそのことには誰も気づかない。

 そして、私はもうそこから先の未来を見るのが怖かった。でも、目を塞げない。もしも、これがクロの死んだ日のことで、本当にクロが死んでしまったとしても、私はただその先の未来を見ることしかできなかった。

 

 随分と走った。別にクロは疲れていないけど、人の私から見たらそれくらいの距離だった。私の指輪をくわえたカラスは、ある一本の木の上に飛び降りた。そこに巣があるのだろうか。

 クロはしばらく近くの塀の上からカラスのいる木を何か思うようにしてじいっと見つめ、そしていきなり勢いよく木に向かって走り出す。

 目まぐるしく変わる景色の先にこげ茶色の木肌が見えたかと思うと、一転その跳躍で木枝に飛び乗り、そのままカラスの巣があるところまでいく。

 カラスは自らのテリトリーに危機が訪れたかのようにクロを見てカァカァと濁った声を響かせ、威嚇する。それに怯まず怯えず、そのまま枝から枝へと飛び乗り、ついに目と鼻の先に指輪のある巣があるところまで来た。

 だけど、そこに立ちはだかるようにして一羽の黒いカラスが立っていた。鋭い眼光を持って、そこでクロとそのカラスは初めて目を合わせる。

 もはや威嚇でしかない行動。もうこれ以上こっちに来るなというカラスの意思表示。

 クロは毛を逆立て、そして一気に細い枝の上を駆け抜ける。カラスは大きく羽を広げ飛び上がり、クロに向かう。

『逃げちゃだめだ。絶対に取り返す』

 そんな気持ちが伝わってくる。

 捨て身の突進。少なくとも私は恐怖した。

 クロの視点から見るその黒い大きなカラスはまるでミサイルか何かのように見えたのだ。

 だけど、それでもクロは止まらない。

 そして時間にして数瞬、カラスの攻撃による鋭い痛みとカラスに突進したことによる鈍い痛みをほぼ同時に受け、巣から素早く指輪を取り戻し木から一気に飛び降り、すぐさま家へと走り出す。

『やった、取り戻せた』

 満足気だ。ズキズキと痛む体で走って、口に指輪をくわえて、これで家に帰ったらほめてくれるかな、その気持ちが自然と流れ出してくる。きっと褒めてくれるよ、私はそう思った。

 一体私はどこからこの一部始終を見ていたのだろうか、そんなことを思うなんて。

 突然耳に入り込んできたのは、カァカァという濁った響き声。空を見上げると一羽の黒いカラスが飛んでいた。さっきのカラスが追いかけてきたのだ。

そして見上げた瞬間、一気に急降下してくるカラス。

『逃げよう』

 道路に飛び出して、まさにその時だった。

 クロの一人の戦い、恐怖に打ち勝ち、大きな存在との対決、指輪を取り戻すという行為。時間にしては短かったかもしれないけれど、クロの中ではとても長かった時間。それに比べるとあまりにも短すぎる一瞬。

 車に轢かれた。

 そう気づいたのは、視界が宙に浮いて揺れて、そして一瞬の激痛、身を引き裂かれんばかりの痛みが体中を駆け巡ったときだ。

 多分クロにとっては何が起きたのか分からなかっただろう。ただ、くわえていた指輪を離さないようにしっかりと口を閉じることしかできなかった。

 その後、地面に頭から真っ逆さまに落ちて、私は目を覚ました。


「はあっ、はあっ……」

 気づくと息荒くベッドの上で寝ていた。時計は午前0時を回ったところを指している。

 ゆっくりと起き上がる。さっきのは夢だったのだろうか。

 でも体中に残る痛み、あの現実感を思い出すととても…………。

 私のせいでクロが死んでしまった。

 いや、でもまだ分からない。

 今まで私が寝ていたってことは十中八九あのことが夢での出来事で、もし本当だとしたら正夢になるけれど、正夢なんて私は見たことがない。

 あれが現実かどうか確かめる方法もないわけだし、夢か現実かなんて……。

 いや、ひとつだけ確かめる方法があるじゃないか。考えたくないほど、恐ろしい方法だけど。

 そして思いついた瞬間、私は走り出した。ベッドから飛び起きてスコップを片手に、そうしなければいけなかった。

 庭に出て、クロの墓標を抜き取り、その土を掘り返す。交通事故で傷つき土にまみれたクロの死体を土の中から取り出す。硬くなった体に触り、クロの口を無理やりにでも力を入れて開ける。

 確かめるのが怖くて、体ががたがたと震える。震える手をそれでもゆっくりとクロの開いた口の中に入れる。

 なければよかった。そんなものがなかったらどんなによかったことだろうか。

 だけど、私の手にあったのはじっとりと冷たい感触と、その中の硬くてただ異質なものの存在。

 怖い、それを引き出すのが怖い。そう思った。これを引き出さなくても、過去は変わらないし、その必要性はない。だけど、私の体はそんな私の思考を拒絶した。

 その異質なものを掴んで、引き出して、月光にあてる。きらりと光りを受けて輝くそれは、私が持っていた指輪と完全に姿かたちが一致した。

 こんな偶然あるはずがない。

 あの夢が現実を映したものだと分かった瞬間、一気に両の目から涙があふれ出した。

「あ……、うっ…………なんでっ……?」

 嗚咽が止まらない。苦しい。

「なんでっ……なんで……あああぁっ!」

 深夜0時過ぎに私の嗚咽が響きだす。

 夢じゃなかった。

 あれは紛れもない現実だ。

 クロは私の指輪を取り戻して、死んだ。

『指輪を取り戻したらほめてもらえるかな』

『やった、取り戻せた。これで……』

『せっかく取り戻せたのに。また落としちゃ、ダメだ!』

 私とクロの境界が取り除かれた追体験の中で、クロが思ったことが鮮明に頭に浮かぶ。

「褒めて……あげたいよっ! 褒めてあげたい。よくやったねって……」

 私なんか、カラスが怖くて逃げてしまったのに。それなのにクロはそんな相手に立ち向かったんだ、すごいって。

「頭を撫でてっ…………」

 その気持ちよさを私は知って、だからこそ

「頭を撫でて……目を細めて、クロにっ……喜んで……ほしいっ!」

 だけど、いくら頭を撫でても、すごいって言っても、ありがとうって言っても、クロはもう……目を開けてくれない、私の話を聞いてくれない、愛らしい声で鳴いてくれることもない。もう……絶対にっ……。

「ごめんねっ、クロ……私がもう少ししっかりしていればっ、……こんなことにはっ!」

 褒めても、頭を体を撫でても、話しかけても、ごめんって謝っても、もう何も言ってくれない。

「ごめんねっ……、無責任にあんなこと言っちゃって。……私の話、ちゃんと聞いていてくれたんだよね」

 それで、指輪を守ってくれたんだよね。

「なのにっ……それなのにっ……もう……ありがとうって言いたくてもっ……言っても、伝わらないんだよね」

 あれだけ私の話を聞いてくれていた、ちゃんと聞いてくれていたクロは……もういない。

 その時初めて、クロが死んでしまった、そう現実的に分かった。

「うっ……うぅっ……」

 だからこそただ、私の嗚咽が口から漏れ出るだけだった。


 クロが死んでから決して短くない時間が過ぎた。

 あの日、結局私はあの後お父さんとお母さんに連れられて家の中へと入り、ただ温かいミルクを飲んだ。しばらくしたら、また眠くなって寝てしまった。

 その時見た夢を私は覚えていない。

 だけど、朝起きたら自然と胸の中にあったもやもやとしたわだかまりは不思議と消えていた。

 もしかしたら、またクロが何か見せてくれたのかもしれない。

 しばらくは、クロが死んだのは私のせいだ、とか私がもっときちんとしていればクロは死なないで済んだかもしれないのにと思うこともあった。

 だけど今はそんなこと考えてない。

 クロは私にそんなこと思ってほしくて、あんなことをしたのではないと思うから。

 きっと知ってほしかったんだと思う。

 クロが私のためにやったことを私自身に知らせたくて、そして私も知りたかった。

 そこに私の責任があることは重く受け止めた。

だけど、それよりも……

「格好良かったよ、クロ」

 そうクロのお墓の前でつぶやく。

「クロが守ってくれた指輪、ちゃんと大事にしてるよ……。それにね、今じゃ私も守らなくちゃいけない人がたくさんできたんだ。少しはクロの気持ちが分かるようになってきたんだよ」

こんな今の私があるのもきっとクロのおかげだ。

「だからね、クロ……私のことちゃんと見ててね。絶対に後悔させないように頑張るから。……頑張って、皆を守って、生きるから」

 ふわりと風が優しく嬉しそうに舞った。

 私は「ふふっ」って笑って、

「それじゃ……行ってきます、クロ」

 そう、未来に向かって足を踏み出した。

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