第十三巻 優しさは財産だが使いどころを間違えれば凄く悲惨
「がっ……ごっ……」
くぐもった唸り声。それを聞いた小雨は、自分がファイルに熱中しすぎていたことに気付いた。
荒い呼吸。明らかに人間のものとはかけ離れた気配。
自分の首から上から、血の気が引いていくのがわかった。
ゆっくりと振り返る。そこにいたのは、狼だ。
体毛は真紅。目は黄金に光り輝き、小雨を容赦なく視線で射貫いている。
だが、とにかく目を引くのは大きさだ。とにかく大型で、身の丈約三メートル。口も、小雨の頭を丸ごと噛み千切るのには充分すぎるほどだ。
「クソッタレ……!」
ここまで近づかれたら、もう逃げきれない。唯一の反抗の余地があるとすればマジックパスだが、それを起動するまで狼がのんびり待っているわけもない。
――滝。ごめん。せっかく情報を得たのにリタイアみたいだ。
そこで小雨はすべてを諦めた。諦めて、すべてを放棄して、覚悟を決めて、冷静になって――
「ん?」
気付いた。
というより、恐怖に頭脳が麻痺していた小雨がずっと気付いていないだけだったのだが。
この狼は、何故か苦しんでいる。今にも崩れそうなほどにふらふらだ。
「あ、れ?」
「……さん……め……さん……!」
どこからか聞き覚えのある声が聞こえてくる。
心なしか小雨の名前を呼んでいるような気がする。
「お、げっ……!」
そして狼が苦痛に口を大きく開けた途端、その声はクリアに響いた。
「小雨さん! 小雨さん! 助けてーーー!」
「……あ!? シリウス!?」
やっとまともに認識できたそれは、シリウスの声だった。
何故かそれが狼の喉から聞こえてくる。
「お前、何? え? 狼に変形する機能とかも付いてたのか?」
「いや違くて! この狼さんがワタシなんじゃなくって! 喉の奥デスよ喉の奥!」
「喉の奥?」
「この狼さんに丸のみされそうになったときにギリッギリで手足ふんばって、喉のあたりで止まってるんデスよ! ちょ、そろそろ限界……すべっ、滑る! 助けて!」
「それでコイツこんなに苦しんでたのか!」
「そんなに奥にいるわけじゃないので引っ張り出してください!」
シリウスの要求はつまり、狼の口の中に手を突っ込めと言っているも同然なのだが。
「……何か道具持ってくるから待ってろ」
「じ、時間ないから! そんな時間ないから! 手! 手! アーム! プリーズキャッチミー! イフユーキャン!」
「他人事だと思いやがって……」
「が、お……」
ずっと苦しんでいた狼が、不意に口を大きく開けたまま、ずいと小雨に近づいた。
「あ?」
「……があ……」
明らかに助けを求めている目と声色。
今のやり取りを理解していたのだろうか。
流石に被害者から助けを求められれば、逃げ場はない。覚悟を決めるしかなくなった。
「……あー! わかったよ! やればいいんだろ! 絶対噛むなよ、お前!」
◆◆
数十秒の悪戦苦闘の末、なんとかシリウスの救出に成功した。
小雨、シリウス、狼の三人(?)は息を切らしながら、その場に疲れ果てている。
「……唾液でべっちょべちょ。しかも獣臭い……水道どっかにあるかな……」
「さっき見かけたので案内しマスよ」
「ああ。全部お前のせいだからな。そうしてもらわないと困る」
「えー。ワタシ、なんかしましたっけー? 何が悪いってこの狼さんでしょ! こんな可愛いウサギさんを情緒もへったくれもなく丸呑みとか正気の沙汰じゃ――むぎゅっ」
狼に対して文句をつらつら並べ立てていたシリウスは、不機嫌そうに牙を向く狼の前足に踏まれた。ついでに狼は、踏んでいる足を思い切りねじる。
「あぎゃぎゃぎゃぎゃ! 破ける! 破けちゃう!」
「……実際破かれてないだけ良心的だろ。なんだコイツ」
下手すればヒグマよりも大きなこの真紅の狼には、人間のような知性を感じる。どういう理屈かは不明だが、小雨たちの言葉を完全に理解しているようだった。
だが、今の小雨には一つ狼の正体に心当たりがある。
「コイツも密輸船に乗ってたキメラの内の一体か……?」
「……おや? もうそんなところまで気付いちゃいました?」
狼に踏みにじられながら、シリウスは感心したような目を小雨に向ける。
「ああ。そこのファイルに書いてあった。この船は旅客船を隠れ蓑にした密輸船だ。商品として扱っていたのは生物兵器。そこのファイルには商品リストも書いてあったよ」
「じゃあ双子人魚の正体も気付いてマスよね?」
「……商品リストの中に双子人魚って書いてあった。つまりは、今回の動力炉の正体は生物兵器ってことになる」
直後、小雨の持っていたパスに電子音が鳴り響く。
ポケットから出し、パスのホーム画面を見ると項目が増えていた。タイトルは『双子人魚について』だ。
「……ビンゴだな」
「クフフ。小雨さん冴えてる。超冴えてマスね」
――どの口で言ってやがる。
心底楽しそうに笑うシリウスに苛立つが、今はそんなふうに感情を動かす時間も惜しい。
今現在も、この沈没船はあの世に向かって航行中なのだから。
「問題なのは、なんで商品であるはずの双子人魚が未だに密輸船に残っていて、しかもその密輸船が沈没してるのかってところだけど。この船、商品の輸送中に何かトラブったのかな」
「……そのトラブルのおおよその内容、既に小雨さんには目星がついているのでは?」
「いや。双子人魚の能力にアタリがつかないと、まだ何とも言えないな。どうにかこのフロアでの探索でわかればいいんだけど……」
「がおる」
小雨は狼の鳴き声の方に顔を向ける。
狼はシリウスから足をどかし、部屋の出口へと歩いて行った。そして小雨の方に振り向き、じっと見つめる。
「……ついて来いって言ってるのか?」
「ふんすふんす」
鼻息を荒くしながら狼は頷く。
「心当たりがあるのか。じゃあ……」
「水道で軽く体を洗ってから探索再開デスね!」
妙な同行者が増えた。
ただシリウスよりは数倍頼りになりそうなことは救いだ。
「……ンー。でもおかしいな。あんなNPC、今回のゲームで設定したっけ……?」
シリウスの不思議そうな声は、狼以外の誰にも届くことなく消えていく。
◆◆
石神井恵は悪人だ。自分でもそう思っているし、他人からもそう言われる。
何か気に入らないことがあれば盗癖を開放し、平気で他人の財布をとるし、自分の才能を使って他人を社会復帰不可能なほどに陥れたことも一度や二度ではない。
対して、霊院滝は恵にとって、反吐が出るほどの善人だった。この治安最悪の亜府呂市において、どんな経験をすればこんなに真っ直ぐ育つのかと頭を抱えるほどだ。
「へえ。チームを組んでるとゲームに参加したとき、近い場所にポップするのか」
「まあ、チームを組むメリットなんてそれくらいしかありませんけどもね。トロフィーの共有などは普通のプレイヤーと同じくできませんし」
「シャクは物知りだな」
「……いえ。この程度、長くゲームを続けていれば誰にでもわかることですわ」
探索中、こんな世間話をしていたのは序の口。
そこから約五分後。
「それでな。コサメはな。凄くてな。機転利かして、ルール違反で動力炉を破壊する方法を思いついてな」
「ふぅん。初めてのゲームにしては頑張ったんですのね」
「ああ! アイツ本当に凄いんだぜ?」
段々と訊いてもいないのに、相方の惚気話を中心とした下らない雑談を話し始めた。
更に五分後。
「なあシャクー。お前、どんな男がタイプなんだよー。先輩に言ってみろよー」
「……はあ」
「あ。既に好きなヤツがいる場合でも相談に乗るぜ? 先輩だからな! 先輩! 私の方が!」
「……そうですか」
目が回るほどに気安くなった。
しかも、ここぞとばかりに先輩アピールをしてくる。
恵は必死に耐えていた。とにかく、心の叫びを間違っても口には出さないように気を付けていた。
「……あ! お嬢様学校だもんな! 別に私のことを『お姉さま』とか呼んでもいいぜ! 許す!」
――うぜえええええええええ!
あまりのストレスに白目を剥いてしまいそうだった。
喜色満面の笑みを浮かべながら楽しそうに恵に纏わりつく滝が鬱陶しくて五月蠅くて煩わしくてたまらない。
――この女、関わりを一切持ちたくないレベルのバカだ! エサをくれる人全員いい人だと思い込むゴールデンレトリバーよりバカだよ!
恵の通っている魔流田女学院にこんな人種はいない。仮にいたとしても視界には絶対に入れないだろう。
恵にとっての心地いい世界とは、周りが敵か、利用価値のあるビジネスライクな仲間かの美しい二極で構成された弱肉強食の戦場だ。
友達はいらない。慣れ合いは面倒だし、嫌いだ。だからできる限り排斥してきたのだ。排斥してきたはずなのに。
「……あ。コサメはダメだぞ。絶対にやらんからな?」
「そうですか」
勝手に勘ぐって勝手に先回りする滝に、ため息を吐いてしまいそうだった。
小雨に男としては一切興味はない。だがここまで甘ったるい認識を持つ女の横だと恋しくもなってくる。
滝とは別の意味で、恵も段々小雨と合流したくなってきた。
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