第六巻 水分補給を舐めるなッ!

「……ンー?」


シリウスは違和感を覚えていた。

あと少しで滝のバイトが終わる、というところでやっと気付いたのだが、先ほどから誰かに見られている。


どこからの視線なのかはわからないが、妙に落ち着かない。


「……小雨さん。一つ訊きたいんデスが」

「なんだ?」

「ゴーストセッションのことを話したのって、晃さんの他に誰かいマス?」

「……一人、いたはずだ」


話した、というより情報が一方的にいつの間にか流れた、と言った方がいいかもしれない。

小雨にとって中学時代からの腐れ縁であるアポロには、頼ろうという話が出た時点ですべてが筒抜けになっているはずだ。


「さっきから誰かに見られている気がするんデスけど、気のせいデスよね?」

「……あの女、本当にクソだな」

「小雨さん?」

「……気にするな。ちょっかいを出す気ならもうやってる。それをしてこないってことは、多分今は様子見しているだけだ」

「妖怪か何かの話デス?」


あながち否定できない。むしろ小雨にとって、まともな恐怖心や良識を理解しているシリウスよりもの方が遥かに人間離れしている。


あらゆる凶器を隠し持っている亜府呂市市民において、もっとも狂っている部類の女。有り余る才覚と知能を、考え得る限りでもっとも頭の悪い目的のために振るう制御不能の悪鬼。耶麻音アポロがおそらく茶亭の周辺に潜んでいる。


唯一、晃だけが彼女にとっての友人であり、彼の言うことには耳を傾ける。

そのことをよく知っていた小雨は、晃にアイコンタクトを送った。


『ヤツがいるらしい。なんとかしろ』


だが晃はそれを受けて、意図は理解したが首を横に振った。


『まだ明確な悪さをしているわけじゃないから、なんとも』


そう目で訴えていた。


「くそ。そりゃそうか」

「はて?」

「……こういうとき無力さを感じるんだよな。ごめん。俺には追い出せない」

「……言っている意味がわかりませんが」

「どこか見えない場所に俺の知り合いがいる。天才的な脳を深刻な病と狂気に侵された悪魔がな。大丈夫、悪さはしない……まだ……」

「……亜府呂市にはやたらとダークネスな天才が揃っているって話でしたが、まさかナイトメアを食い物にしようとするヤツまでいるなんて……流石に予想外デスね」


あの悪魔から逃げる方法は、現状一つしかない。

滝のバイトが終わり次第、すぐにゲーム会場へとテレポート。これでゲームに関係のないアポロから完全に逃げることができる。

幸い、人もまばらになってきたので、この方法でも問題はないだろう。


「悪い。待たせたな」


そう言って滝がやってくるのに時間はかからなかった。

ただ、少し服装がチグハグだ。上はラフなTシャツ。右腕に金属質で、しかし主張しすぎない程度に細い銀の鎖のブレスレッド。下は亜府呂学園の制服であるスカート。

長い髪は緩くゴムで一本に束ねているようだ。


「……長ランはどうした?」


と小雨が訊くと、滝は微かに不機嫌な声色で


「修理中」


とだけ言った。


「……後で保証金をわける」

「ん。悪いな。お前は着替えてないのか?」

「制服のダメージは見た目だけなら軽微だし……何よりも家に入れなかったからな」

「アキに貸してもらえよ」

「面倒臭い。時間も惜しいし」

「時間?」

「悪い。滝。すぐにゲーム会場に行かないか?」

「……別にいいが、何があった?」


尋常ではない気配を感じた滝が、不安気に問うが、説明している手間も惜しい。


「……後で話す」

「ではお二人とも、ゲーム会場へ向かう、ということでよろしいデスね?」


シリウスがにっこり笑う。それに、滝は重々しく頷いた。


「……よろしい。では、すぐに向かいます。スリー、トゥー、ワン」


パチン、と音がした。

次の瞬間、茶亭から三人の姿が桜吹雪にかき消され、跡形もなくなった。


その様子を直視していたのは、店の中では晃だけだ。


「……人が少ないからって無茶をやる。時間が時間なら大騒ぎなのに」


晃がぼやくが、その声は誰に届けるつもりで言ったわけではない。

言ったわけではなかったのだが。


「大騒ぎしてほしいの?」

「……いつからいた?」


背後から急に聞こえてきた声。

それは女性の声だった。

やたらと甘ったるく、子供っぽく、綺麗で甘えた不思議な声。晃は冷静に、それに振り返らず声を浴びせる。

そしてその声の主は、やはりふざけきった態度を隠しもしない。


「おっと会話が成り立たないアホが一人登場ー! 質問文に質問文で答えるとテスト0点なの知ってたか?」

「相変わらずだな」

「あはは! まあね! 私の可愛さと愛くるしさと憎らしさは国宝級だからね! 維持費どれだけか知ってる? 四捨五入してゼロ円だよ! 某クワが似合うアイドルグループも大歓喜だね!」

「……本当に相っ変わらずだな」


喋っているだけで段々と晃の体から力が抜けてくる。

このジャーゴンとノイズ塗れの口調。妙なトチ狂いっぷりは間違いなく――


「で? 私に助けてほしい人って、誰だっけ?」

「さっき説明しただろ」

「忘れ――」

「忘れたとか言うなよ。お前の脳がそんな生易しい作りしてないことは小学生のときから知ってる」

「……やだ。私のことをわかってるアピール? 晃ちゃん生意気! 死ね! あ、間違えた。Die死ね! あ、これも間違い。大好き!」

「そろそろ殴って黙らせていい?」

「おっと。ごめんごめん。じゃあ本題に入ろうか」


振り返らずともわかる。幼馴染の晃は感じる。

彼女はおそらく、ヘラヘラ笑っている。こういうとき、決まって彼女は胃もたれするような重い話をするのだ。


「外町ウノちゃんのことは助けられるよ。明日になったらね。押し付け先はしっかり見つかった」

「……ありがとう。やっぱりお前は頼りになるよ。認めたくないけどな……本当に認めたくないけど……くそ……失敗すればよかったのに」

「あはは! 超残念!」

「くそ……くそ……っ!」

「……あ、あれ。冗談のつもりだったんだけど、ガチで悔しがってない?」

「感謝はしているけどさ。お前、成功報酬をかなり高めに設定してただろ。それを考えると今から憂鬱で……」

「……可哀想な晃ちゃん……報酬は一切まけないけどねッ!」

「だろうな! 知ってた! お前はそういうヤツだよッ!」

「あ、いや条件次第、かな? ごめん今の発言は忘れて! 九割くらいならまけてもかまわないよ!」

「……何?」


破格の譲歩に、晃は耳を疑った。

余程のことがない限り、彼女がまけることはありえないのだが。


「……何を考えてる?」

「さて……何でしょう。そんなのキミにとってどうでもいいじゃん? 最後に残った赤の線と青の線のどちらを切るかくらい、クソどうでもいいじゃん!?」

「それはかなり大事なんじゃ……」


と、そこまでだった。晃は頭を切り替える。

彼女が話をすり替えようとしているのは明らかだ。ペースに乗せられてはたまらない。



ピタリ、と一瞬だけ背後の気配が静止する。

急に名前を呼ばれたことで、虚をつかれたらしい。

ふざけた態度は少しだけ萎縮し、反省した様子のおずおずとした声が返ってきた。


「……わかったよ。キミには目的くらい言うって。今となっては私の唯一の友達、だもんね。ただこっちの要求の方が先」

「要求?」

「あの木偶人形ちゃんの情報、知ってる限りこっちによこして」

「……アポロ……」

「……断らせないよ?」


晃は思う。本当に何故、自分はこの厄介極まりない女性と絶縁しないのかと。

だが、特に理由はないのだ。絶縁する理由は確かに山のように存在するのだが、絶縁しないことに関して理由は


晃にとってはそれで充分だった。


「……間違っても悪用するな」

「うんわかった! と、即座に嘘を用意できる私はやっぱり超天才なのでは!?」

「……終いには刺し違えてでもキミを殺すぞ」

「晃ちゃんにやられるのなら本望さッ! 悔やんでも悔やみきれない!」

「どっちだよ!」


手綱を取れたと思ったのも一瞬、晃はアポロのテンションに乗せられていってしまった。


◆◆

時間と空間を超え、小雨と滝はゲーム会場へと辿り着いた。

隣にシリウスの姿は既になく、二人は回りを見渡す。

ここは甲板。キャプテン・メランコリックの海賊船ほどではないにしろ、今回の船もかなり大きい。だが、近代的な金属や電気の使われている船なので、あれほど不気味さや陰鬱さは感じない。


「これ……客船、か?」


滝が回りを見渡しながらつぶやく。

小雨もその見解におおよそ同意だった。ところどころ塗装は剥げているものの、今自分たちがいるのは客船に相違ない。


「周りは相変わらず暗いが、船は電気がついてる。今回はコサメの手を借りんでも私も攻略に参加できそうだな」

「……滝。周りをよく見てみろ」

「あ? 周り?」


滝は小雨に言われた通り、船を再度見渡す。


「……んー?」

「違う。船じゃない。船の回りだ。上がわかりやすい」

「上ェ? 一体何が……」


直後、滝の目に飛び込んで来たのは水面だった。


「……ん?」


自分の目を疑いながらも、彼女が連想していたのはシャボン玉だ。

子供のころ読んだ絵本のことを思い出す。子供がシャボン玉で遊んでいる内に、どんどん大きなシャボン玉を作り、終いにはシャボン玉の中に入って空を飛ぶというファンシーな内容。

むかしの滝はそれをマネし、必死で大きなシャボン玉を作ろうとしていた。そんな微笑ましい思い出だ。


今、その願いは半ば叶った。ただし、この船をぐるりと取り囲んでいるのは――


「……おい。冗談だろ……?」


水だった。それも、この船をぐるりと囲めるほどに大量の。

落ちることも、流れることもなく。ただゆらゆらと光を受けて波打っていた。

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