クールなバーテンダー?

「仕事辞める」

「は? 何言って……?」


 キッチンでコーヒーを淹れかけた蓮華が、驚いて振り向いた。


「バーテンダーの修行したい」

「えっ……、本気で言ってるの?」

「本気だよ。優さんには、もう話したから」


 蓮華と奏汰が『J moon』近くのアパートに引っ越し、琳都が『J moon』上の蓮華が使っていた部屋に移り、間もない頃だった。


 映像関連の学校を出て、その系統の仕事に就いていたはずの琳都が、突然切り出した。

 アパートでは、訪ねて来た琳都に、蓮華がコーヒーを淹れ、奏汰は講師の仕事で不在だ。


「それにしても、話す順番が逆でしょう? 普通は、あたしかオーナーに言ってからよ。ちなみに、優ちゃんは何て?」

「ママとオーナーがいいって言ったらいいよ、って」

「……まあ、それは、当然そう言うでしょうね。それで、なんで急にバーテンダーなの?」


 戸惑いながら、コーヒーカップをソーサーごと琳都の前に置く。


「まさか、今の仕事がキツいから、嫌になったとか?」

「それもあるけど、バーテンダーの仕事の方に興味が出て来たから」


 琳都はこれまでも、奏汰が来る以前から時々手伝いには入っていて、初心者の手ほどきは受けていた。見習いの修行にはすぐに移行出来るとは、蓮華もわかっていた。


「でもね、バーテンダーってカクテルを作る職人ってだけじゃなく、接客業、サービス業なのよ。琳都が一番苦手な分野でしょう? ……まあ、クールなバーテンダーってのもアリだけどさ、優ちゃんと並ぶと雰囲気が違い過ぎるわよねぇ……」


 黙ってコーヒーを飲む琳都を、蓮華は心配そうな目で見つめた。


「おじいちゃん、おおらかだから、反対はしないと思うけど……」


 蓮華は心配な顔のまま、早めに店の準備に入った。


「琳都くん、ヘルプで入る時は、いつも真面目にやってるよ」


 優がにこやかに応えた。


「正直、どう思う? 琳都、バーテンダーに向いてると思う? あたしは心配なんだけど」


「う~ん、向いてるかどうかっていうより、やる気があるかどうかじゃないかなぁ」


「わあ、優ちゃん、チーフ・バーテンダーらしい発言ね!」


「何年やってると思ってるの? 蓮ちゃんのママ歴と同じだし、バーテンダー歴ならそのもっと前からだよ」


「そうよね!」


 蓮華が少しだけ頼もしそうに優を見る。

 琳都がやってくると、普段よりも慎重な面持ちになった優が言った。


「見習いってことは、これまでのアルバイト並みのヘルプとはわけが違うよ。バーテンダーになりたいなら、僕もそのつもりで厳しく教えるからね」


「はい。よろしくお願いします」


 琳都はかしこまった礼をした。

 優にとって、後輩やアルバイトに教えることはあっても、本格的な弟子というのは初めてといえた。

 蓮華は、期待した目で、二人を見つめていた。


「きみやバイトの子には教えてこなかったことがあるけど、ある程度技術があるきみには、これからは、所作を意識して欲しい。バーテンダーは人に見られながらカクテルを作る、ある意味『見せる作り方』をしなくちゃいけない。だから、日頃から美しい手の動作を意識して……」


 と、言いながら、優がメジャーカップを、人差し指と中指の間に持つと、「あれ? ビーフィーター(ジン)の瓶は……」と、きょろきょろする。


「ここにありますよ」


 琳都が指差すと、蓮華が「さっき、自分でそこに置いたじゃない」と言った。


「あ、そうだった」


 苦笑いした途端、優の指から、するっとメジャーカップが落ちた。普段はするはずのない失敗だった。


「ごめんごめん。なんか制服じゃないと気合いが入らないなぁ。着替えてきていい?」


 あはは……と笑いながら、着替えに行く優を、二人は見送った。


「優ちゃん、仕事の前後は、完全に気を抜いてるから、結構天然なのよ」

「……ああ、そうなんだ」

「だから、仕事中の方が参考になるわよ」

「……わかった」


 仕事が始まる。琳都は優の隣で、注文されたカクテルでも簡単なものを作りながら、優の動作や、客と会話する様子を観察していた。

 手早く、切れのある動作に加えて、丁寧さと手つきに美しさも見られる。


 仕事を終えた奏汰が、店に蓮華を迎えに行くついでに飲みに来た。


「へー、琳都、バーテンダーの修行するんだ? かっけぇ! 似合ってるよ!」


 きらきらと尊敬の眼差しを琳都に向ける奏汰に続き、優も感心したように言った。


「色の関係も説明しなくてもわかってるし、飾りのフルーツのカッティングも上手いし、よく考えたら前からスジが良かったよね。琳都くん、どこの優秀なバーテンダーに教わったの?」


 優がわかりやすくボケたので、奏汰が笑った。琳都もアルカイック・スマイルを浮かべた。


「もう、どこが『厳しく教える』よ」


 果たして師匠に向いているのかと、優に疑問の目を向ける蓮華だった。




『琳都が仕事を辞めたって、本当か!?』


 数日後、父親から蓮華に電話があった。


『今度はバーテンダーになりたいって、どういうことだ!?』


「あのねぇ、そんなに詳しく聞きたかったら、琳都に直接聞いてよ」


『あいつに電話しても切られるのがオチだ!』


「ああ、まあ、確かにね……」


 蓮華は、父親の愚痴を聞きながら、琳都のことは、とにかくしばらくは思ったようにやらせてみようと説得し、父親は長電話を渋々切った。


「蓮華も大変だね」


 床に座り込んでいた奏汰が、同情的な目を向ける。


「まあね、いつものことだけどね。あ、片付けがまだ途中だったわ」


 蓮華がパタパタと、段ボールから引っ越しの荷物を取り出し、あちこちに収納して行く。

 同じく片付けようとする奏汰だが、何をどこへしまっていいかわからず、荷物を持ったまま蓮華の後をついてまわっていた。


「とりあえず、今日はここまでにしようか。もうすぐ、仕事だから準備しないといけないし」

「うん」


 一息つき、蓮華が台湾烏龍茶を淹れた。


「良い香りだね」

「そうでしょう?」

「はー、癒される」

「ねー?」


 蓮華が気が付くと、奏汰がにこにこと見ていた。


「なあに? どうしたの?」

「いや、なんか、……一緒に住んでるんだなぁと思って」


 照れる奏汰に、両手で茶器を持つ蓮華が、おかしそうに笑った。


 奏汰が椅子を寄せる。


 そうっと顔を近付け、唇に触れた。


「……花の香りがする」

「お茶のせいね」

「……わかってて淹れたの?」

「さあ、どうかしら?」


 軽い口づけは、徐々にドラマティックへと移り変わる。


「まだ時間ある?」

「ん、大丈夫……」


 口づけに集中しながら、奏汰の腕は蓮華を包み込み、蓮華の身体はそこに預けられた。


 突然、テーブルの上のスマートフォンが鳴り響いた。


 きらびやかな音色よりも、テーブルを揺るがせた振動音に驚かされる。

 祖父、つまりオーナーからの特別な着信音に、蓮華が慌てて電話に出た。


『琳都が仕事を辞めて、バーテンダーになりたいというのは本当か!?』

「今、そのつもりで優ちゃんが鍛えてるから」


 早口で蓮華が応えている隣で、後ろめたい思いにかられた奏汰は「別に、悪いことしてるわけじゃないし……」などと自分に言い聞かせるようにぶつぶつ言いながら、動悸を鎮めようとしていた。


 蓮華が先ほどと似たような説明をしていると、話の内容から他の話題に移ったようで、しばらくしてから電話を切った。


「あ、もうこんな時間! じゃあ、行ってくるから」

「俺、休みだから送ってくよ」


「大丈夫よ、近くなんだから」

「送る!」


「ああ、一緒にいたいの?」

「そう!」


 言い切る奏汰に、蓮華が思わず笑った。


「いい子だから、おうちで待っててね。ついでに、少しお片づけもしておいて」


 軽く口づけてから、蓮華は走っていった。




「ブラッディ・メアリー作ってみて」


 閉店後の特訓で、蓮華が琳都に、挑発的な表情で言い放つ。


「ちゃんと美味しく作らないと、三日間カクテルは作らせないから。仕事は見るだけ、つまり、見習いの初仕事に戻して初心に返ってもらうからね」


 初めて作る者には味の加減が難しいとわかっていながら、蓮華はあえてアルバイトたちに作らせ、失敗作でも飲んで来ていたが、明らかに、彼らに対してよりも厳しい扱いである。


 琳都は表情を変えることなく、淡々と作業に入った。

 審査員として、優が、蓮華とカウンター席に並んだ。


「琳都くんは、今のところ、そつなくこなしてるよ。僕よりバーテンダーに向いてるかもね」


 後継者が出来たのが嬉しいとでもいうように、ゆるゆるとした雰囲気で話す彼を、腕組みをした蓮華が気に入らなそうに、じろっと見た。


「ふーん、じゃあ、優ちゃんが、師匠としての修行の旅に出る?」

「え……?」

「そんなんだから、琳都がバーテンダーなんて簡単に出来ると思っちゃってるんじゃないの? ちゃんと厳しく教えてよねっ!」

「……教えてるよー」


 優の声が小さくなる。


「お待たせしました」


 琳都が二人の前に、トマトジュースに見えるカクテルを置いた。


「……なんか、普通のブラッディ・メアリーよりも、さらっとしていそうね」


 ロンググラスを見回しながら、不思議そうに蓮華が言った。

 優は黙って、ちらっと琳都を見た。

 琳都は淡々とした表情のままだ。


 蓮華が口を付けるのを待ってから、優もグラスに口を付けた。


「……やだ、美味しい!」


 蓮華が驚いてグラスを上から見つめ、再び口にした。


「何度飲んでも美味しい……。ウォッカはちゃんと分量通り入ってるのよね?」

「はい」


 琳都が答え、ウォッカの透明な角のない瓶を見せた。


「アブソルート・ウォッカ、確かにクセがなくて美味しいわよね! それでアルコール臭さがなかったのね!」


 蓮華がにこやかに飲み続ける。


「ウスターソースもちょうどいい加減だし、塩、黒胡椒、タバスコもいい感じよ。どことなくスープっぽいような……」


「クレイジー・ソルトも使ってたね。すごく美味しく出来てるよ!」


 優も嬉しそうな顔を琳都に向けた。


「ありがとうございます」


 琳都も、少しだけ微笑んだ。


「まあ、じゃあ、いいわ。今日のところは合格ね」


「良かったね、琳都くん! 一発合格なんて今までいなかったよ! 頑張ったね!」


 琳都よりも、優の方がホッとしたように喜んでいた。


「なお、使ったクラマトジュース代は、優ちゃんのお給料から引いておくから。小さい缶なら二〇〇円くらいかしら?」


 ハッと、優と琳都が蓮華を見る。


「ハマグリのエキスが入ったトマトジュース、ちらっと入れたでしょ? どうせ、優ちゃんの入れ知恵でしょ? 『ブラッディ・シーザー』にならなきゃ、あたしが気付かないとでも思った?」


「あはは、バレてた?」


 「ブラッディ・メアリー」のトマトジュースをクラトマジュースに変えると、「ブラッディ・シーザー」という名のカクテルになる。クラトマジュースを使うだけで、「ブラッディ・メアリー」よりも格段に飲みやすくなる。


「今度はシェイカー使うカクテルをお題にするからね。今までバイトの子には出さなかったものにするから、事前に対策出来ないように」


 そう言った蓮華に、琳都は「はい」と、動じることなく答えた。


「怖いママで大変だねぇ、琳都くん」

「もー、優ちゃんたら、甘やかさないでよねっ!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る