報告

 新宿にあるバー『Limelight2』は、銀座にある本店と違い、カジュアルな店でライヴも楽しめる。

 奏汰と翔のライヴが終了すると、ステージ近くのテーブル席から、スーツを着た紳士的な白髪の年配者が話しかけた。


「きみたちの曲には色々な要素が感じられる。いやあ、若いのに勉強熱心だな」

「ありがとうございます!」


 奏汰は嬉しそうに笑い、翔も会釈をすると、老人と目が合った。


「きみは、大分前にも、ここや他の店にいなかったかな?」

「あ……」


 翔が高校生の頃、新宿のライヴ・バーや、銀座の『Limelight』でも他のバーでも会ったことがある、ジャズ好きな老紳士として見覚えのある人物だった。


「懐かしいな! あの時の暴れん坊が、立派になって!」


 老人は愉快そうに笑った。翔は「いやいや、お恥ずかしい」と照れながら、愛想を振りまいた。客の前では「地」はひた隠しにしている彼を見ると、奏汰はいつも笑いたくなるのをこらえるのだった。


「そして、きみのことも、ちょくちょく見かけていた。アメリカ帰りだそうだな」


 にこやかに見つめる老人に、奏汰はさらに嬉しそうな笑顔になる。


「はい、ありがとうございます! ジャズ・ピアニストでオルガニストのベニー・ホワイトのレコーディングに、翔と一緒に参加してきて、その後もしばらく向こうにいたんですが、少し前に帰ってきました」


「私はジャズオルガンも好きでな、ベニー・ホワイトが来日した時も聴きに行くし、ニューヨークに行った時にはベニーのいる『Sidecar』に必ず寄ることにしているのだよ」


「『Sidecar』! ニューヨークにいた時、俺、そこでカクテル作りながらベニーとライブやってたんですよ!」

「そのようだな」

「……え? これも、ご存知だったんですか?」


 喜んでいた奏汰だが、ふと思った。このご老人は、なぜそんなに詳しいのか?


 翔が、いきなり奏汰の肩を叩く。


「それじゃ、俺はお先に失礼するから、お前は、水城みずきさんとゆっくりしてろ」

「水城さんて……、まさか……!?」


 奏汰はそのままの姿勢で硬直した。

 そんな彼を見て、顔を綻ばせた老紳士が言った。


「ちゃんと話すのは初めてだったな、蒼井奏汰くん。最も、蓮華と琳都から聞いて、演奏はこれまでも聴かせてもらっていたが」


 翔がニヤニヤしながら帰って行った後は、カウンターに移った奏汰は、白髪の紳士の隣で、緊張しながらジントニックを少し口に含んだ。


 『J moon』のオーナーであり、さらに蓮華と琳都の祖父である男は、ウィスキーをストレートで頼み、チェイサー(水)を並べて置いた。


 一見にこやかな老紳士だが、こうして隣にいると、隠し切れない荘厳なオーラが、奏汰には感じられていた。蓮華の父親の父でもあり、育ての親でもあると思うと、彼女の父親よりもさらに強大な人物だと身構えてしまいそうになる。


 だが、ここで怖じ気付いてばかりはいられないと思い直した。もしかすると、ことになるのだから、と。


 祖父は、奏汰が『J moon』でアルバイトをしていたことも、橘にジャズを習っていたことも知っていた。

 しばらくは奏汰とジャズの話に興じ、ニューヨークでの話も聞きたがった。話すうちに、奏汰の方も緊張が少しずつ解けていった。


 ジントニックがなくなり、ウィスキーもゆっくりと減っていくと、頃合いを見計らったように、祖父が切り出した。


「蓮華と付き合っているそうだな。話は聞いているが、きみの話も聞いてみたいと思ってね」


 話していいのだとわかると、奏汰は自然と覚悟を決めた。


「……本当は、こんなお酒の場ではなく、きちんと俺の方からご挨拶にうかがわないとならないのですが……」


「構わんよ。もう一度、きみの演奏を聴いてみたかったし、きみも一杯くらい飲まなくては、初めて会った、しかも、恋人の、育ての親も同然の年寄りなんかには、なかなか本音は語れんだろう」


 またしても、奏汰は硬直しかけた。


 チェイサーを口に含んだ祖父は、まったく酔っている様子もなく、黙って奏汰の言葉を待っていた。そこに、威圧感のようなものは感じられない。


「俺、蓮華さんと、……一緒になりたいと思ってます。俺には、蓮華さんが必要なんです」


 わずかな時間の沈黙ですら怖かった。


 祖父はグラスを置き、奏汰の目を見つめた。


「今度、正式な会食をしよう。蓮華を連れて行ってからで構わんよ。こちらは、私が場所を用意しよう」


 はっとした奏汰は、すぐには言葉が出なかったが、背筋を伸ばし、なんとか頭を下げた。




「俺、結婚する」


 『J moon』従業員たちが驚いて、カウンターで珍しくギムレットを頼んだ奏汰に注目した。カウンターにはワイルド・キャッツのメンバーが並んでいる。


「は? お前、今いくつだっけ?」


 奏汰とも親しくしていた従業員のタケルが、動揺を隠し切れない顔で尋ねた。


「二五にはなったよ」

「……だ、大丈夫か?」

「その前に、相手いたのかよ? まさか、ニューヨークにいるとか国際結婚するだとか言わないよな?」


 ハヤトが目を丸くし、タケルもうろたえたままだった。グラスを拭いていた高校生アルバイトも、よくはわかっていないが無言でただ目を見張っている。


「おめでとう!」


 横から顔を覗かせた優が、満面の笑みになって、ギムレットを差し出した。


「ありがとうございます!」


 やっと祝福の言葉が聞かれ、安心した笑顔になった奏汰は、やっぱり、こういう時も優さんはさすがだなぁ、と心強い思いがしていた。


 みなとみらいで蓮華と互いの気持ちを確認し合った後で優に打ち明けた時のことが思い出される。


「すみません! 俺から優さんに蓮華を托したのに」


 優は笑って答えた。


「僕じゃその役目は務まらなかったみたいだから。蓮ちゃんは、ずっときみを待ってたよ。ちゃんと応えてあげてね」


「……はい!」


 蓮華のことはちゃんと考えてはくれていただろう。

 優には詳しくは聞かなかったが、二人が一緒にならなかったのは、二人がよく考えた末なのだと、奏汰には思えた。


 そんなことを考えていると、


「ふつつかな姉ですが、よろしくお願いします」


 奏汰の隣で飲む琳都が、かしこまって頭を下げた。


「あ、ああ、いや、こちらこそ、ふつつか者ですが、よろしくお願いします!」


 奏汰も琳都に頭を下げた。


「え……ってことは、まさか……ママと!?」

「ええっ!?」


 ますますハヤトとタケルが驚き顔になる。


「ええっ!? ママって、優さんと結婚するんじゃなかったんスか!?」


 高校生アルバイトが更に驚いていた。


「バカッ! 誰もが思ってたことをデカい声で言うなよ!」

「奏汰が気にすんだろ!」

「え? ええっ?」


 タケルとハヤトが、わけのわかっていない高校生の背を叩く。


「お前、こんな新米にまで、こんなこと言われてんのかよ! 可哀想ーっ!」


 と、翔がゲラゲラ笑い出すと、奏汰がぶすっとむくれた。


「親に挨拶とかは、もう行ったのか?」


 雅人が気遣って話題を振った。


「うん。都会の女に誑かされてるとか、水商売の女なんかダメだとか言うだろうってわかっていたから、事前に電話でじっくり話したんだけどさ、父親と母親が交代交代で出てきて、それぞれとケンカになって。頭冷やしてからメールでも話したけど、やっぱりケンカになっちゃってさ。蓮華にも、そんな状況だけど俺が守るからって言って、内心不安なまま連れて行ったけど、直接会ってもらった方が早かったよ」


 全員が安堵し、溜め息を吐いた。


「うちの親たちみたいな保守的な人たちにも好感の持てる服装で、控えめにメイクもしてってたから、親には意外だったみたいで。蓮華の方が気難しい年配者にも慣れてるし、トゲトゲした言葉にもにこやかに応えてて。それでも、親たちが頑な姿勢でいたから、俺がムカついて何か言おうとしたら、そこに立ち会ってた兄貴が、珍しく……」


 奏汰は、両親と会食した時の様子を語り続けた。




「奏汰の結婚相手は、蓮華さんしか有り得ないよ」


 黙っていた奏汰の兄・潤が、強く言った。

 自分も始めは奏汰が騙されているものとばかり思っていたが、店に通ううちに蓮華の人柄もわかり、奏汰がニューヨークに行ってから二年半以上も想い続けていたのを見てきたと主張した。


 聞きながら、蓮華は涙をこぼし、奏汰の目も潤んでいった。


「カノジョより音楽を選んだ不届き者の奏汰なんかをだぜ? 蓮華さんじゃなきゃ、誰がこんなヤツを想い続けてくれるんだよ? 父さんも母さんもホントにわかってる? 奏汰なんかを感謝すべきなのは、うちの方なんだぜ?」


 その潤の熱い説得に、両親も次第に納得していき、最終的には「どうか息子をよろしくお願いします」と頭を下げ、蓮華も奏汰も頭を下げたのだった。


「ちょっと引っかかったけど、初めて兄貴を兄貴らしいと思えた! 感動したよ!」


「初めてだと!? だいたいなぁ、俺が言わなくても、お前が自分で親を説得出来なくてどうするんだ。まったく、音楽以外のことはダメダメだな!」


「うっ……」


「潤くん、本当にありがとう! お父様とお母さまにお許しいただけたのは、潤くんのおかげも大きいわ」


 奏汰の横から、潤んだ瞳がきらめいている蓮華が、少し照れた潤のグラスにビールを注いだ。


「これからは、蓮華さんが義理の妹になるのかぁ! ん? いいじゃないか、妹! そうだ、僕、ずっと妹が欲しかったんだった! 弟なんかじゃなくて。しかも、『年上の妹』なんて願ってもないことだ!」


 潤が途端に浮かれ出した。

 なんだか妙な想像をしていないかと、奏汰がちょっと心配になる。


「そうだ! それなら、『蓮ちゃん』て呼んでいい?」


 うきうきと潤が蓮華に尋ねていると、奏汰が割り込んだ。


「だめに決まってるだろ、そんな馴れ馴れしいのは!」

「蓮華さんも、僕のこと『お兄ちゃん』って呼んでくださいね!」


「それもだめ!」

「なんでだよ?」


「邪な心が見え見えだから!」

「なんだよ、義理の兄をただ『お兄ちゃん』って呼んでもらうだけだろ? 当たり前のことなのに、何が悪い?」


「だって、俺、蓮華のなれないもん!」


「奏汰くん……」


 拗ねた表情の奏汰を、蓮華が何とも言えない表情で見上げた。


「はーっはっはっ! 『兄』の特権だな!」

「なんだよ! 自分の力で『兄』なわけじゃないだろー!?」


 蓮華が目尻を拭いながら笑い、そんな彼らを見ている両親も、笑顔を見せるようになっていった。




「潤くん、いいとこあるね!」


 優が感心した。


「とんでもない。それに、兄貴のヤツ、ますます調子に乗って、自分は優さんと友達だとか言ってるんですよ」


「うん。友達だよ」

「正気ですかっ!?」

「奏汰くんだって友達だよ」


 改めて優を見上げた。


 そうだ、優さんは、もう「上司」じゃないんだった……。


 一回りも年下の自分を認めてもらえた気がして、嬉しくなる。


「ママの方の両親にも挨拶に行ったの? そこには、琳都も同席したのか?」

「うん」


 雅人が尋ね、琳都が頷いた。


「確か、ママってお父さんとあまり仲が良くなかったんじゃ……? そのお父さんも自分の父親——つまり、ここのオーナーとも仲が悪いって……」


 従業員のタケルが、奏汰に尋ねてから、同意を求めるように優を見た。心配そうなタケルをよそに、奏汰は夢見がちな表情で語り始めた。




 蓮華側に挨拶に行くことは、奏汰にとってはこれまでになく緊張した。

 ライヴやホールのコンサートで演奏する方がずっとましだ。


 さらに、祖父とも蓮華とも仲が悪いという父親。蓮華が既に話を通し、父親と大丈夫だとも言っていた。


 やっぱり、反対されたんだろうな……。


 不安だったが、会場に着いてみると、琳都も同席していてかなり心強く思えたが、横浜の老舗ホテルの一室は、自分の両親が手配した時の質素なホテルの一室とは比べ物にならないほど厳かだ。それだけで緊張感が増すが、話は意外にも父親の琳都への説教から始まった。


 この場で琳都と父親が言い争うのは奏汰には想定外だったが、奏汰以外の人間には予測されていたように、場は平然としていた。

 そのとばっちりから奏汰へと話が移るという、奏汰にとっては最悪なパターンとなった。


「ミュージシャンなどという不安定な仕事でやっていけるのか? 子供が生まれたら、ちゃんと学校に通わせてやれるのか? ちなみに、蓮華は中学・高校と私立胡桃くるみ女学院に通わせた」


 横浜にあるお嬢様学校として名を馳せている。蓮華が、ちらっとそんなことを言っていて、すごくびっくりしたのを覚えている。


「ちゃんとした教育を子供に受けさせることが、きみに出来るのか? 何でも『夢を追う』と言えば格好はつくかも知れないが、現実的じゃない。まったく、いざとなれば、うちの娘をアテにしてるのが見え見えだ」


「……同じ教育を受けさせることは出来なかったとしても、俺たちなりに、その子の幸せを考えてあげられたら、と思ってます」


 ドキドキと早鐘をくような心臓の音に負けないよう言い終わってから、息を凝らして父親の反応を見た。


 奏汰をじろじろ見ながら、父親がずけずけと嫌味な発言を繰り返すと、琳都がボソッと遮った。


「パパって、そうやって目下の言うことは聞く耳持たないし、若い人のことをいつも蔑んでるよね。もういい加減、若いってだけでバカにしないで、二人の人生なんだから二人に任せたら?」


「お前に何がわかる!」


 親子喧嘩が再開した。喧嘩と言っても、興奮して怒り出したのは父親だけであり、琳都は冷静に言い返していた。


 こんな時、奏汰は何か言うべきだと思ったが、喧嘩の内容も琳都の性格や仕事のことへと変わってしまったので、言うタイミングを失ってしまった。


「まあまあ、もういいじゃないの。今日は、おめでたい席でしょう?」


 雨雲の中から照らす晴れ間のように、にこやかに祖母が遮った。

 奏汰にとっては、女神の登場にも思えた。

 そんな祖母の隣で、普段は温厚に見える祖父が腕組みをして、呆れた溜め息を吐く。


「まったく、いつでもそうやってすぐにカッとなる。だから、お前には任せられない事業があるんだ」


 と、今度は祖父と父親の言い合いが始まる。


「もう、いい加減にしてよね。恥ずかしい! あたしの結婚より仕事や他のことの方が大事なら、もういいでしょ? 言っておくけどね、許しをもらうためにここに来てるんじゃないのよ、報告に来てるんだからね。あたしたち、結婚しますからね!」


 蓮華がテーブルを叩いて立ち上がった。


「文句ないわよね?」


 有無を言わさぬ目付きで、蓮華が父親を見ると、父親が口を開きかけたので、奏汰が急いで立ち上がった。


「あ、あの、まだまだ若輩者で頼りないですし、蓮華さんとも釣り合わないのは充分わかってますけど、彼女を想う気持ちはこの先もずっと変わりません。必ず、蓮華さんを幸せにしますから! よろしくお願いします!」


 年寄りたちが一斉に奏汰を見つめたので、息が詰まりそうになると、蓮華が微笑んだ。


「幸せにしてもらうだけじゃないわ。あたしも、奏汰くんのこと、幸せにしたいから」


 顔を真っ赤にした奏汰は、「ありがとう」と言うだけで精一杯だった。


 祖父が微笑ましいとばかりに笑い、今度、奏汰と飲みに行きたいと言い出した。

 少し怖い気もしたが、奏汰は嬉しく思った。




「うわ〜、やっぱり、そんなことになってたんだね! 想像出来るよ。お疲れさま! 大変だったね!」


 水城家の事情を知る優が、実感のこもった様子で奏汰に同情した。


「お疲れ」

「ああ、琳都もな」


 琳都と奏汰は顔を見合わせた。


「琳都とも兄弟ってことになるんだよなぁ! 俺の方が1つ年下なのに義理の兄って、おかしな感じだな。うちの方も、兄貴がおかしなことになってるけどさ」


 琳都も奏汰も、苦笑いになった。


「なんか結婚するの、怖くなってきた!」


 雅人が、ぎこちなく笑った。


「いや、公務員だし、雅人なら全然問題ないだろ」


 翔が、けろっと言うと、奏汰も琳都も、納得のいく顔で大きく頷いたのだった。

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