Ⅴ.(11)再会
『J moon』のドアには、貸し切りの札がかけられていた。
店の奥には、髪をまとめ上げ、水色のワンピースを着た美砂が座り、隣にスーツを着た須藤が付き添っている。
入口付近には、雅人と、美砂の同僚めぐみの受付を済ませると、好きな座席につく。
美砂と須藤の勤める会社の社員がほとんどだ。
貸し切りパーティーは、美砂が退職する送別会であった。
須藤とは三年付き合い、結婚することになり、互いの身内だけで海外挙式をする予定だった。
美砂と同級生のよしみで、雅人と奏汰のバンド『ワイルド・キャッツ』が、ゲスト演奏し、奏汰と翔のデュオも後ほど行われる。
「遅れてごめんっ!」
和気あいあいと皆が食べ始めていた頃、転がり込むようにしてやって来たのは、奏汰と翔だった。その後ろから、菜緒が入って来て会釈をした。
「お前ら、遅いよー」
「こいつが『一人じゃ行きにくいから一緒に行こう』ってさ。なのに、携帯忘れやがって、取りに帰ってたから、遅くなって悪かったな!」
翔が、奏汰を指差しながら、受付の雅人を通り越してカウンターの中にも聞こえるような大声で言った。
その声に、カウンターの中から振り返った蓮華と優と、すぐに目が合う。
「……ご無沙汰してます。その節は、大変お世話になりました」
奏汰は、二人に、恥ずかしそうに頭を下げた。
蓮華も優も、顔を綻ばせた。
「ご丁寧にどうも。こちらこそ、ご無沙汰しておりますわ」
蓮華が笑顔で応えた後、菜緒をソファの一角へ案内した。
菜緒は、細い身体の、腰回りだけゆったりとしたロングのワンピースを着ていた。
ゆっくりとソファに座り、隣には蓮華が座った。
奏汰と翔、雅人、琳都が、久々に『ワイルド・キャッツ』として、美砂と須藤の好きな曲も交え、演奏する。
仕事では弾かないような曲も演奏出来て、奏汰も翔もリラックスした顔であった。
奏汰と翔のデュオも披露した。
その後、奏汰と美砂がカウンターで隣り合い、グラスで乾杯した。
積もる話もあるだろうからと、須藤が、美砂に、奏汰と話すよう勧めたのだった。
「須藤さん、なんか落ち着いた? まあ、三年も経ってるんだから、当たり前か」
美砂が笑った。
今日の美砂は綺麗だと、奏汰は微笑ましい笑顔で眺めた。三年前よりも、表情も自然で柔らかい気がする。
「男の人って、年上でも女心がわかるとは限らないのね。でも、私、なぜか同い年の奏汰くんよりも、年上の晃くん――ああ、年上だけど、こう呼んでるの――に対しての方が、思ったこといろいろ言い易かったの。ケンカも出来たし。ケンカすると、晃くんの方がショボンとしちゃって、後から謝ってきて。年上でも、なんだかちょっと可愛かったり」
「美砂ちゃん、
奏汰が意外そうに笑った。
「幸せそうで、良かった」
「うん。ありがとう」
美砂は心からの笑顔であった。
「私と晃くんね、奏汰くんのファンなんだよ」
美砂は、奏汰と翔が参加した、ゆかりのCDをバッグから取り出した。
「買ってくれたの!? ありがとう!」
「音楽データも、二人でスマホに入れてるんだよ。翔さんとのデュオも、いつかアルバムになるといいね」
「ありがとう!」
「そう言えば、さっき、百合子さんからもメッセージが来たんだよ。見た?」
「えっ、ホントに?」
三年前に無理矢理作らされたSNSの三人グループは、細々と続いていた。
百合子はウィーンに住んだままだ。あちこちのコンクールで入賞したりしなかったり、という報告くらいだが「美砂ちゃん、寿退社おめでとう!」というメッセージと顔文字、祝いのスタンプが添えられていた。
奏汰は、「百合ちゃん、きみのその素晴らしいバイタリティーがあれば、どこででもやっていけるでしょう。神より」と返信した。すぐに「バカなの?」と返事が来る。彼女とのやり取りは、相変わらず、そんなだった。
「奏汰くんには、今度は私が恩返しする番だと思ったの。奏汰くんのおかげでもあるから。奏汰くんとのことがあったから、私、ちゃんと考えるようになったんだ。あの時は、ごめんね。傷付け合ったかもしれないけど、……だからこそ、今は幸せなんだと思ってるの。だから、奏汰くんも、今の奏汰くんに自信持って、ちゃんと蓮華さんにご挨拶して」
「ありがとう。後で、ちゃんと挨拶するつもりだったから」
「それなら良かった!」
「美砂ちゃんは大人だね」
ふふふ、と美砂が笑った。
翔と菜緒のいるソファ席には、雅人と琳都もいた。
そこに、奏汰も加わった。
雅人は公務員同士で付き合い始め、資金が目標額に達したら結婚する予定だった。ドラムは、勤め先のバンドでも趣味で続けている。
琳都は、映像の編集で不規則な生活であり、女性と付き合うどころではないという。
翔は、ゆかりと共演する時は奏汰とも顔を合わせるが、普段は、ギターとベースで別々の仕事に呼ばれることが多かった。スタジオ・ミュージシャンとしてレコーディングに呼ばれたり、楽曲提供もするようになっていたのは、奏汰もよく知っている。
一番大きな変化は、菜緒が妊娠していることだった。
「お前が父親ねぇ……」
奏汰が未だに信じられないと、まじまじと翔を見ると、翔が見下すように笑い、聞こえよがしに言った。
「だいたい、お前は何を偉そうに。帰国してからも、全然、蓮華さんに会いに行かなかっただろ? それって社会人としてどうなんだ? 散々世話になっておきながら、恩知らずで礼儀知らずにもほどがあるだろ!」
まさか、翔にこんなことを言われるとは。
ちょっと屈辱に思いながら上目遣いになると、翔は、してやったりとますます笑う。
ふと、蓮華と目が合った。
微笑んでいる。
奏汰も、照れたように微笑み返した。
「まったく、同級生がパーティーに呼んでくれたおかげで、やっと再会か。大人なんだから、自分から挨拶に行くもんだろ? ミュージシャンだからって無礼者で通ると思ったら大間違いだぜ! お前のせいで、すべてのミュージシャンが礼儀知らずだと思われたら、すっげー迷惑なんだからな!」
「……それ、お前が言う?」
「お前も、俺みたいに、ちょっとは楽曲提供とか出来るようになったかも知れないけどな、俺はお前と違って、所帯を持ったアーティストであり社会人だからな! お前のような、単にフリーなアーティストじゃないんでね。世の中の信用は、俺の方があるんだぜ!」
奏汰は、「酔ってるのか、こいつ?」と、威張りくさる翔を、一歩引いて見ていた。
菜緒が困ったように笑っている。その笑顔は幸せそうに見え、奏汰は安心した。
パーティーが終わり、自発的に片付けを手伝うために奏汰が残ったが、優も蓮華も、カウンターで飲んでいいと言って、手伝わせなかった。
カウンター奥には、高校生のアルバイトがいることに気が付いた。
軽音楽部でギターをやっていると優から聞くと、横から蓮華が「バージン・メアリーが飲みたいわ。お願いね」と、小首を傾げて言っているのが目に入った。
奏汰は苦笑した。
また言ってる。
ブラッディ・メアリーのウォッカ抜き版。
高校生だからノンアルコール・カクテルで練習か。
優に断り、蓮華の見ていない隙に、こっそりカウンターに入る。
蓮華が戻り、カウンターに座ると、アルバイトが言われたカクテルを差し出す。
「ちゃんと味見した?」
「はい、しました」
けろっと答える高校生をじろじろ見てから、蓮華がバージン・メアリーに口を付ける。
「これ、ウォッカ入ってる!? 意外と美味しい? 優ちゃんのとは味が違うし……、もしかして、奏汰くんなの!?」
カウンターに戻り、肩を震わせて我慢していた奏汰が、蓮華の驚いた顔を見て笑い出した。
「新人の頃、騙されたお返しだよ」
憎々し気に笑った蓮華はブラッディ・メアリーを持ち、奏汰の隣へ移動した。
「相変わらずだね、蓮華さんは」
「奏汰くんも、時々予想外なことをするところは変わってないわね」
奏汰はジントニックを一口啜った。
蓮華は、面白そうな瞳で見上げた。
「あら、酔わないようにしてるの?」
「優さんのジントニックが飲みたかったんだよ」
「ブラッディ・メアリー、よく作れたわね」
「ベニーのライヴ・バーのマスターに、カクテルも作らされてたから、ついでに研究してた。どうしたら、ブラッディ・メアリーを上手に作れるか」
「……覚えてたんだ?」
蓮華の頬が、うっすら赤くなったように見えたのは、気のせいか。
蓮華は、当時よく飲んでいたチャーリー・チャップリンではなく、逆三角のグラスで赤い透明なカクテルを飲んでいた。ジャックローズだった。
それを、奏汰は「あの時とは変わった」という意味に、解釈した。
「奏汰くんは、いい男になったわね。あたしは年を取ったでしょ?」
「ううん、蓮華さんは全然変わらない。若くて、きれいなままだ」
「あら、お口の方もアメリカ仕込み? あたし、もう三五よ。優ちゃんは三七に。相変わらずバーテンダーとしてもモテモテで。ゆかりさんも時々来てくれてね、優ちゃんとも同じ年だからか気が合うみたい」
「……優さんとは、なんで結婚しなかった?」
「すれば良かった?」
「……しても良かったのに」
「そんなことは、当人同士のあたしたちの決めることよ。でも、出来なかったの。あたしと優ちゃんは、ずっと『同志』なの」
「あやうい関係のままか」
奏汰が笑う。
「違うもん」
蓮華は、少し聞き捨てならないとばかりに、唇を尖らせた。
その表情にも、覚えがある。
「それより、奏汰くんは? 彼女はいないの?」
「いないよ。ずっと音楽一筋だった」
「あら、ストイックね」
「蓮華さんこそ、優さん以外に誰かいなかったの?」
「いないわ。お店やライヴで、若い子の出入りはあったけど、単に世話焼きだけで、そんな気にはなれなくて」
話が途切れた。
もしかして、……待っててくれてた?
そう尋ねようとして、やめた。
「また来ていいかな、ここに」
「もちろん、どうぞ。お客さんは、いつでも、どなたでも」
お客さん……か。
ま、当然だよな。
にっこり笑う蓮華の笑顔を見つめながら、微かに淋しさを覚えた。
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