Ⅴ.(9)凱旋
横長の封筒が、カウンターから差し出された。
「今度のコンサートのチケットよ」
『J moon』の止まり木に腰掛ける香月ゆかりが、バーテンダーに渡す。
「凱旋コンサートになるかしら。二年半ぶりに、奏汰が戻ってくるのよ」
「本当ですか!」
ゆかりは、優の喜ぶ顔を見ると、小さく溜め息をもらした。
「やっぱり、奏汰ったら連絡していなかったのね。ベニーったら、ベーシストがいると楽だからって、奏汰を連れ回してて」
ニューヨークでのレコーディングを終えた二年半前、翔は日本に帰り、『J moon』にも顔を出したが、そのまま残った奏汰からは連絡すら誰にもない。
「私が呼び戻さない限り、多分ずっと向こうに行ったままよ。チケットは二枚入ってるから、蓮華さんと観にいらっしゃいね」
『J moon』にゆかりが訪れたのは、蓮華が休みの日だった。そのせいか、その日は客も少なく、今ではゆかりのみだ。
「それにしても、あなた、音楽に詳しいわね? 弾く人?」
「昔少しは弾いてましたが、今はまったくの趣味で」
音楽の話に熱中するうちに、優が音楽大学を中退し、バーでピアノを弾きながらバーテンダーの修行をしていた話を聞き出すと、ゆかりが意外そうな顔になり、「ちょっと今弾いてみてよ」と唐突に言い出した。
他に客もいない。
カクテル「YUKARI」を飲み終えると、ゆかりがさっさとヴィオラを取り出したので、つられて優も蓋の開いたピアノの前に座った。
何の曲にするかを簡単に話し合うと、優のピアノから始まった。
コンサートで演奏することのない、気の置けないジャズだった。
ゆかりの旋律に合わせ、それに似合うフレーズをピアノが奏でる。
自然と笑顔になった二人は、次々と気軽に曲を変えていった。
「こんなところに天才ジャズピアニストがいたとはね!」
「とんでもない! ゆかりさんについていくのがやっとでしたよ!」
「あら、全然平気そうだったわよ。私の路線にあったフレーズとかコードで弾いてくれたし」
「誰にでもそんな風に合わせられるわけじゃありません。ゆかりさんだったからです。蓮ちゃんだけじゃなく、僕も十年以上あなたのCDは良く聴いてましたから」
ゆかりの瞳が面白そうに輝いた。
「そうだったの? ありがとう! 嬉しいわ! ところで、こんなにピアノが弾けて、美味しいカクテルも作れるんだったら、相当モテるでしょう?」
優は、不敵とも呼べる笑顔で、にっこり返した。
「言われるほどではありません。お客さんとは恋愛はしませんし、音楽から始まる恋も、もう信用しないことにしてるので」
ゆかりは、ますます面白そうな顔になった。
「奇遇ね。私も、音楽から始まる恋は、もうしないつもりなの」
ヴィオラに付いた手の跡を布で拭き、手入れをしてからケースにしまう。
「楽しかったわ! 仕事とは違う楽しさだった」
「僕の方こそ、憧れのアーティストとこんな風に話したり、セッションまで出来るなんて夢のようでした。ゆかりさんとセッション出来て最高に幸せでした」
「私もよ。久しぶりに大人と演奏出来て嬉しいわ。ああ、奏汰と翔がコドモだって言ってるんじゃないわよ」
ゆかりがいたずらっぽく笑い、優もその笑顔を見つめながら微笑んだ。
「それじゃ、コンサートでね」
帰り際、彼女は、いつもの、おいでおいでをするような特徴的なバイバイをした。
横浜にあるコンサートホール。クラシック音楽の催し物が多い印象があるが、民族音楽やジャズが演奏されることもある。
ステージがまだ暗い中、黒い衣装のバンドマンたちが持ち場に着いた。
スポットライトが、拍手で迎えられる、紫のタイトな衣装を着た、ヴァイオリンよりも一回り大きいヴィオラを持つ女性を追っていく。
中央に立ったヴィオリストが、頭を下げてから弓を構えた。
空気が止まった。
アップテンポのジャズ風音楽がピアノ、ギター、ベース、ドラムと共に始まる。
香月ゆかりのオープニング曲として、毎回コンサートの頭で演奏する短い曲であった。
積極的に繰り出される高度な技術、それでいて、押し付けがましくない響きが、彼女らしい音楽を創造する。常に、余裕のある全力で駆け上る、そこにファンは魅了される。
数曲演奏が続くと、ゆかりがマイクを持ち、曲目紹介をする。
その後、ステージの背景が青一色になった。
ジャズレストランで有名なブルーノートや、赤レンガ倉庫にあるモーションブルーの青い照明を連想させる。
または、会場となる横浜の空を海をイメージするブルーでもある。
アコースティックギターの穏やかなイントロに、柔らかい音質のエレキベースが重なり、ジャズ風ではあるがスタンダードジャズではない音を奏でていく。
ミディアムテンポに定まると、ゆかりのヴィオラが加わった。
石畳の続く、パリの通りを思わせる。
フランスパンとコーヒー、紅茶、フランスワイン……
オープンテラスのテーブルに乗っているものは様々。
ゆったりと、思い思いに過ごす人々。
その中のひとりが席を立ち、大通りの喧噪へ紛れる。
そこからは、ゆかりの世界だった。
ヴィオラを支え、後押しする。
そして、三つの楽器が対等になる。
ギターのソロがメロディックに始まり、徐々に技術を見せていく。
一番の低音ベースへとソロが移ると、タイミングよく、ギターがベースラインも盛り込んだ、アコースティックならではの技巧は、ボサノヴァから培ったものだ。
低音から駆け上がるフレーズ。リズムをキープすることの多いベースが、時に崩れ、もたり、ギターの演奏に乗っかり、安心して暴れ出した。
ギターを信頼していなければ出来ない。
ベースを信頼していなければ、ギターもキープは難しい。
ベースとギターの始めた掛け合いに、ヴィオラは舞台端に下がり、二人を立てる。
競い合いではない、掛け合い。
相手に応え合う。
最高潮に達した時、ゆかりが拍手をし、客席からも歓声が上がる。
再びヴィオラが加わると、エンディングとなった。
「オシャレでカッコ良かった〜!」
会場を出ると、『J moon』とは反対の、海の方へと向かう足取りは軽やかだ。
蓮華は、後から歩いてくる優を振り返った。
「奏汰くん、カッコよくなってた。良かったー、金髪に染めたり、チャラくなってなくて!」
「それ、どういう発想?」
浮かれたような蓮華を見て、優が笑った。
「黒いシックなシャツが良く似合ってた。イメチェンってほどでもないけど垢抜けた感じで、少し男っぽくなって、頼もしくなって……。弾いてる姿もカッコ良かったけど、ベースも年齢を感じさせないくらいさらに上達してて、余裕まであった。ニューヨークでちゃんと修行してたんだってわかって安心したし、見ていてなんかドキドキしちゃった」
優の目が穏やかに蓮華を見つめた。
「楽屋に行かなくて、ホントに良かったの? ゆかりさんの楽屋は立ち入り禁止だけど、彼らのところなら、多分大丈夫だったと思うよ」
「まだいいの」
蓮華は笑ってから、優と並んだ。
「オシャレでカッコいいだけじゃなくて、ゆかりさんとも違うテイスト……あの二人のテイストだったわね。奏汰くんと翔くんの作り出した音楽って、二年前よりも洗練されてる、ああいう感じなのね。粋がってた頃の音楽も、あたしは好きだったけどね」
「ジャズのテイストには、こだわってるところは、僕も好きだなぁ」
奏汰と翔は殻を破ったように飛躍的に上達し、自分たちの音楽を見つけていた。
ぼうっと照らされた赤レンガ倉庫から、夜の海を隔てた先には、ベイブリッジが青く光る。
平日の夜でも、人通りはあった。
様々な年代が広場に点在している。早く帰ろうという人はいないのか、写真を撮るのに夢中だったり、楽しそうに語っていたりする。
「奏汰くんに自分の夢も托したつもりでいたから、押し付けてなかったか心配だったけど、ちゃんと頑張ってた。成長してくれて嬉しいはずなのに……予想してたけど、……遠くなっちゃったな……」
別段、沈んでいる様子もなく、蓮華は、遠くに見えるベイブリッジを見たまま呟いていた。
「泣いてもいいよ。僕は見てないから」
優がそう言ったのは何年ぶりだろうか。
一つの恋が終わると、いつも黙って背を貸していた。
店では、いつも変わらない笑顔でいられるために。
客にも従業員にも、『ママ』と『バーテンダー』は、プライベートを見せてはならない。主役である客に察知され、気遣わせてはならない。
優のシャツには、点々と、
恋の終わりなのか、ミュージシャンになれなかった思い、奏汰と翔、ゆかりの間に入れない悔しさ、空しさなのか、何の涙かはわからない。
それは、そこでは、優だけが共感出来る想いであったかも知れない。
突然、優が振り返った。
「だめっ、見ないって言ったくせに!」
「見てないよ」
蓮華が優の胸に顔を
「僕たちには、僕たちの場所がある。それで、いいんじゃない?」
「そうね……あたしたちは、応援する側に回ろうって決めたんだもんね」
涙を拭いながら、蓮華が言った。
「泣きたくなると、いつも背中貸してくれたね」
「いつでも貸すよ」
一瞬黙った蓮華が、首を振った。
「でも、もう、それじゃだめだよ。優ちゃんは、優ちゃんを必要としてる人に、……優ちゃんが必要とされたい人を見つけて、そうしてあげなくちゃ。だから、あたしが、いつまでも甘えてちゃだめなの。そう奏汰くんに気付かせてもらったの」
「心配してくれてありがとう。僕なら、ちゃんと前に進むから大丈夫。進めると思う。蓮ちゃんこそ大丈夫?」
「うん。大丈夫。いつもありがとう」
『J moon』まで蓮華を送ると、優はコンビニに寄ってからアパートへ戻った。
彼女は、きっと自宅で一人で涙を流すのだろう。
わかっていても、それを側で見守ることはもう出来ない。
「次に進める」とは言ったものの、「次」というのが何を意味することかは、まだ優自身にもわからなかった。
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