Ⅴ.(8)ベイリーズ
*
明日香の結婚パーティーからも月日は経ち、奏汰がニューヨークに行ってから一年が経った頃だった。
翔が、奏汰とレコーディングを済ませてから初めて『J moon』に顔を見せた。
翔の存在は、奏汰の存在をも同時に思い起こさせる。
そんな翔を、懐かしそうな笑顔で、蓮華は出迎えた。
「そんなことがあったの? 大変だったわね!」
ニューヨークでのレコーディング直前に菜緒が盲腸で入院し、その後の二人が籍を入れたこと、レコーディングには間に合ったが、直前まで肝心なベニーがいなかったことなど聞いた蓮華は、目を丸くした。
「レコーディングで一番緊張したのが、楽譜も何もなくて、イメージだけで全員が即興で演奏したヤツかなぁ。一番緊張したけど、一番面白かったな! その直後、俺も奏汰もぐったりだったけどな」
翔が活き活きと話すのを、蓮華は懐かしそうな表情で見つめていた。
閉店が近付き、客は翔だけになった。
その前から隣に座る蓮華を、翔はちらっと見た。
「奏汰のこと、訊かないんだな」
「レコーディングのことなら、さっき聞かせてもらったから」
「プライベートなこととか訊いてこないんだな、ってことだよ」
「別に、あたしは知らなくていいし」
「蓮華さんは、今誰かいないの? 特定のヤツじゃなくてもさ」
「行きずりの人と? そんな人いるわけないでしょ」
蓮華が呆れて笑った。
「だってさ、奏汰がNY行ってから一年も経つんだぜ? カラダは淋しがってるんじゃない? 俺が慰めてやろうか?」
「生憎、あたしはそんなにおヒマじゃないのよ。ここに入るライヴのスケジュールや打ち合わせとか季節のメニュー、イベントとかで忙しいんだから。だいたい、新婚さんが何を言ってるの。冗談でもだめでしょう、そんなこと言ったら」
笑っている翔に、蓮華が顔をしかめて言い聞かせた。
「それに、あたしはね、奏汰くんと別れたのを、そこまで淋しく思ってはいないわよ。それだけ彼が頑張ってるってことなんだから、嬉しいじゃないの!」
「……ま、そんだけ元気がありゃ、大丈夫か」
「一応、お礼を言っておくわ。ありがと、翔くん、心配してくれて。でも、冗談でも要らぬ心配だからね!」
強調して言うと、蓮華は笑ってみせた。
翔が帰っていき、片付け終わった従業員も帰った後、蓮華がカウンターで一人でウィスキーのロックを傾けていると、私服に着替えた優と目が合った。
「僕も一杯飲んでいいかな?」
「どうぞ。ちょうど優ちゃんと飲みたいと思ってたとこよ」
「偶然だね。僕もだよ」
仕事の後、蓮華が一人で一杯だけウィスキーを飲んでいることが多くなったのを、優は知っていた。奏汰が渡米してからということも。
「さっき、翔くんに口説かれてたね」
しばらく無言でウィスキーを傾けていた優が、静かに切り出した。
「ああ、冗談でね」
「奏汰くんだから良かったんだよ。彼と蓮ちゃんなら似合ってた。だけど、手頃な人で間に合わせるなんて、らしくない。蓮ちゃんらしくないのは、いやなんだ。翔くんに口説かれてるのを見てるだけでも……」
蓮華が瞬きをして、改めて優を見上げた。
「何を言ってるの? 翔くんのは冗談に決まってるじゃない」
「冗談でも、彼は、奏汰くんと一番近い」
「優ちゃん……?」
「ごめん。……酔ってるかも知れないな」
「優ちゃんが酔うなんて、珍しいわね」
「酔ってるなら、勢いで言っても構わないかな?」
すぐ近くにある優の顔を、蓮華は見つめた。
「僕が、一回りも下の翔くんに妬くのは、おかしいかな?」
蓮華の瞳が動揺したように揺れるのを確認してから、優の唇が続けて動いた。
「……そろそろ、友達、越えてみる?」
しょっちゅう遊びに来ていた彼の部屋でも、二人きりで入ったことはない寝室で、蓮華は立ち尽くしていた。
見覚えのある本や旅の土産品、少ない雑貨だけがあった。シンプルな机にはパソコンがある。カクテルのレシピやCD、DVD等、電子ピアノも、キッチンとつながったリビングに並んでいる。ここは、本当に眠るだけの部屋だった。
「懐かしい?」
後ろから、優が声をかける。
「前からこんな感じでシンプルだったような気がするわ」
「殺風景でしょ? 必要なものは全部向こうの部屋だから」
「そうだったわね」
蓮華が遠慮がちな目になる。
「あたし、ホントにここに来て良かった? もし、あたしを気遣ってるだけで、優ちゃんの本心じゃないんだったら、無理に……」
「いやだったら、何もしないよ」
優の穏やかな声が遮った。
黙って上目遣いになる蓮華に、優は懐かしそうな顔になった。
「出会った時と、それから数年後に店を始めた時の蓮ちゃんは、見た目は大人の女性に変わっていても、僕の中では印象は変わってなくて。いつまでも、かわいい女の子って感覚だった。奏汰くんと出会ってからは、さらに綺麗になっていって、いい付き合いをしてるんだってわかった」
蓮華を見つめ直し、優は続けた。
「彼なら、これまでの子たちと違って、蓮ちゃんのことを大事にするだろうって確信した。蓮ちゃんも、彼にはついて行くかも知れないって思ったけれど、羽ばたいていく彼を引き留めずに巣立たせた。奏汰くんを送り出してからも頑張ってる――今は、そんな蓮ちゃんが好きだ」
蓮華が顔をしかめた。
「三五近くの男の人が、三〇過ぎた女にそんなこと簡単に言うもんじゃないでしょ? 優ちゃんは、そうやってなんでも自然に振る舞うから」
「『いい女になった』って今まで言って来たのも、今好きだって言ったのも本心のつもりだったけど、信じようとしなかったのは蓮ちゃんの方でしょ?」
「だって、無自覚なのと区別つかないから」
「じゃあ、もっとはっきり、『今は女として好きだ』って言わなきゃいけなかった? 『きみが欲しい』って? それとも、言葉だけじゃ信じられない?」
蓮華の顔が真っ赤になり、俯く。
優の方も我に返り、少々照れ臭い顔になった。
「ごめん。……ああ、えっと、何か飲む?」
「……さっき買ったベイリーズでいいわ」
わざわざ道具を使うカクテルを作らせずに済むよう、コンビニに寄った時に蓮華が購入していた。
「珍しく甘口だね」
「うん。今は甘いのが飲みたくて。でも、これはカルーアよりも濃厚な割に後口がサッパリしてるのよね」
「濃く作ると酔うよ」
「……濃いめで」
小さい声で、蓮華が言った。
じっと蓮華を見つめてから、優は、氷の入ったロックグラスに、黒いボトルを傾けた。
アイリッシュ・ウィスキーとスピリッツ、バニラのフレーバーで整えられた香りの良いカフェラテ色をしたリキュールが、グラスの中の氷の上に流れ出し、隙間を埋め、さらに氷を覆い隠す。
「そのくらい」
その後は、ミルクを入れ、
蓮華の指示通りに、ベイリーズ・ミルクが作られた。
「自分で飲む時はケチって薄めにするんだけど、このくらい濃いのもたまにはいいわね」
「どんな感じ?」
蓮華からグラスを受け取り、優が口を付ける。
「濃いね。これだとさすがにリキュールが強過ぎて、バランス悪いな」
普段なら絶対にしない、優には有り得ない配合だ。
「お客さんには出せないよ」
「わかってる。甘いしね」
「うん、甘過ぎる……」
「でも、今は、これでいいの……」
グラスを挟んだ近い視線が絡み合う。
蓮華がベイリーズを口に含んだ。
グラスが手に渡ると同時に、近付いた優が唇を合わせた。
蓮華の背を抱き寄せ、バニラ味の強いカクテルを吸う。
「……やっぱり、甘い」
「……そうね」
透かさず甘味を拭い取るように、一つの味を確かめ合う。
「いやだったら、いつでもやめるよ」
「だめ」
「なにがだめなの?」
「やめないで」
腕を優の首に絡め、蓮華が口づけた。
二人の心から
ベッドに、優がやさしく横たえると、蓮華は髪を留めていた飾りを外した。
「こんなこと僕が言うべきじゃないけど、翔くんとも他の誰とも、もう蓮ちゃんには、こういうことはして欲しくない」
「優ちゃん、ホントに妬いてるの?」
「そうだよ、わからない? だから、言わないでおこうと思ってたことまで言うハメに」
「……ホント……なの? だって、そんなこと……」
「もう黙ってて」
囁いてから、優が深く口づけて証明する。
白く長い指が頬を、首筋を、肩から背筋へと滑っていく。
口づけは頬から耳へ、首筋へ、鎖骨、胸元へ広がり、堪え切れない溜め息が、蓮華の唇からこぼれていく。
「何も考えられなくなってきた……」
「だったら、考えなくていいよ」
自分たちがこうなるのは、互いが最後の恋を迎えた後だと、どこかで思っていた。
優の最後の恋はとうに終わりを迎えているように蓮華には見え、優には、奏汰が、おそらく蓮華の最後の相手だろうと思えていた。
もしかしたら、十年来の友情を貫いてきた互いが、本来の真実の相手ではないだろうか。
そう思わなくもなかったかも知れない。
優の手が蓮華のウェーブのかかった髪の下に滑り込み、肩を抱く。
口づけは、二人の気の済むまで続いた。
長く感じられた沈黙の後、優が、蓮華とベッドから離れた。
「……紅茶、淹れてくる」
蓮華は放心したような、どこかショックを受けたような表情で黙ったまま、さほど乱れていない衣服を整え、待っていた。
戻った優は、紅茶をサイドテーブルに並べる。
沈黙の中で、二人は共に、自分たちの関係がこれ以上進展することはないと悟っていた。
なぜなのか。その理由を、互いに頭の中でかき集めていた。
紅茶を飲み、少し落ち着いてから、蓮華が口火を切った。
「ニューヨークに立つ前、奏汰くんが、店を一番に考えるなら、あたしには自分よりも優ちゃんの方が適任だって言ったの」
「僕にも、蓮ちゃんのことを頼んでいたよ」
「自分の身勝手で、随分あたしに甘えて迷惑もかけたと思ってるみたいだった。あたしだって自分の勝手で奏汰くんと付き合ってきたつもりだったけど、彼、真面目だから。……あたしの方こそ、彼を好きでも、恋愛関係にならずに、親心みたいにずっと見守っていたら良かったんじゃないのかな。あたしのせいで、結果的に奏汰くんを傷付けてしまったんじゃ……それだけが気がかりで……!」
蓮華の瞳が潤み、優の胸にすがりついた。
優はそんな彼女を抱え、背を撫でた。
「少なくとも、僕から見れば、きみたちの付き合いはいいことだっと思う。彼のためにも蓮ちゃんのためにもなっていたと思うよ。だから、否定しちゃだめだ」
柔らかな声で、優が続けた。
「蓮ちゃんが選べばいいよ。どうしたいか」
「あたし、優ちゃんが好きよ。もしかしたら、最後の人かも知れないって、思ったこともあった。でも、やっぱり、『友達』でいなくちゃいけなかったの」
通じるものがあったように、優も妙に納得した表情になっていく。
「奏汰くんと過ごした月日は、ちゃんとあたしの中で生きてたの。奏汰くんがどんなにあたしを想ってくれていたのか、覚えてたみたい。あたしも、奏汰くんを今でも想ってることに気が付いて……だから、今は、……奏汰くんを待ちたいの」
優の、蓮華を見つめる目に、愛おしさが加わった。
「それでいいと思うよ」
なんとも言えずに、蓮華が優を見上げた。
「なんでさっき途中でやめたのかっていうと、……怒らない?」
普段通りに見える優に、蓮華は頷いた。
「あたしが、ダメだった?」
「違うよ」
優が笑った。
「いくら奏汰くんが蓮ちゃんとのことを勧めてくれたとしても、罪悪感——奏汰くんに対しての罪悪感もそうだけど、それだけじゃなくて、『領域』を破ったことに対しての罪悪感に、現実に引き戻されたんだ。蓮ちゃんにはお店が大事なのと同じくらい僕にもお店が大事だから、同業者であり、友人であるために必要な『領域』だったはずだったって……」
こくんと、蓮華は黙って頷いた。
「蓮ちゃんに惹かれる一方で、理不尽な想いがあったことに気が付いたんだ。僕にとっては、蓮ちゃんは特別だった。汚したくなかったっていうのかな。友人だとか同性のような間柄が一番似合っていて、居心地が良かった。それは、『彼女』とは別の種類の尊さなのかも知れない」
優が、改めて蓮華を見た。
「だから、待てばいいよ、奏汰くんを。それが一番いいと思う」
「優ちゃん……!」
蓮華は、再び優の胸に抱きついた。
「いつもごめん。あたし……、これじゃ、優ちゃんのことホントに都合良く……!」
言葉を詰まらせる蓮華に、優は何かを思い付いた顔になってから、いたずらっぽく微笑んでみせた。
「そうだね。悪いと思ってるなら、もう一度だけ……」
蓮華の肩を抱き、軽く、ゆっくりと口づける。
「これで、結着がついた」
蓮華が瞳を潤ませながら、なんとも言えない顔で優を見る。
「……そんなんで、いいの?」
「もうわかったから。蓮ちゃんの気持ちも、自分の気持ちも」
これまで以上にあたたかい目で、優は蓮華を見つめていた。
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