Ⅴ. Over the Rainbow 〜虹の彼方に〜

Ⅴ.(1)幸運

 奏汰が『J moon』でアルバイトをしてから、一年以上が経っていた。翔は、奏汰と共に音楽活動を続けることに迷いはなかったが、雅人は大学を卒業後、市役所の職員になっていた。バンド経験がある等の音楽経験者たちと、さっそくバンドを組み、休みの日には集まって練習し、発表の場もあるようだった。


 シェアハウスには相変わらず四人で住んでいる。活動休止中の、雅人と琳都とのバンド『ワイルド・キャッツ』での練習や自由なセッションが、四人の息抜きにもなっていた。琳都も、不規則な映像関連の仕事の気分転換になるのか、微笑することも増え、音楽以外の話もするようになっていた。


 ジャズ・ヴィオリスト香月ゆかりの正式メンバーに奏汰が決まり、後からギター青年の翔もメンバーに加わった。それをきっかけに、翔はエレキギターではなく、主にアコースティックギターに自ら方向転換した。


 奏汰は散々迷った挙げ句、消音ベースを購入した。エレキも持ち歩きたかったことを考え、十五から二〇キロ近くもあるウッドベース(コントラバス)に比べ、重量も半分以下で済む。

 そして、電子楽器に限らず生楽器であっても音質を曲の性質に合わせて変えられるエフェクター(電子機器)も、持っているものよりも小型で性能の良いものと、小型でもそこそこの音量に対応出来るアンプ(スピーカー)とセットで持ち歩いていたため、移動は、折りたたみ式のキャリーカートを使っていた。


 翔と奏汰は、香月ゆかりのメンバーとして、都内のジャズレストランやバーで共演し、二人で横浜周辺駅の路上でも演奏していた。


 広さのある場所では一組に限らず、三組ほどが距離を取って演奏することもあった。女性ボーカルのいる派手な曲を披露しているバンドの方が、同世代や少し上の代らしき若者が群がっていたが、奏汰たちは、あくまでもアコースティックの修行の場としていた。

 そのおかげか、幸い、警察に、通行の邪魔だとか、音がうるさいと注意されることはなかった。


 ボーカルも管楽器もドラムもない、ギターとベースのみの、ジャズや力を抜いたボサノヴァ、自分たちのオリジナルや即興で掛け合いなどがメインだ。

 通りすがりに足を止めたのは、技術に見蕩れる人、ジャズ好きと思われる年配の男性たち数人で、たまに話しかけてくる男性もいた。


 他のバンドやユニットの助っ人で、それぞれに演奏を頼まれるようになってはいても、シェアハウスで息抜きに友達と弾いてはいても、それらでは得られないものもある。

 路上で演奏するのは、技術的にも近く、好み、感性も合った二人ならではの音楽だった。


 場所代もかからず、出演料もないからこそ、気楽で自由だった。

 わかる人にわかればいい。

 そこでは、ライヴで共演するアーティストたちの選曲や求められる演奏ではなく、自分たちの好きな音楽を放つだけだ。

 仕事ではないからこそ、自分たちを一番出せる場所だった。


 ゆかりとのライヴ出演とアルバムのレコーディングに、奏汰は二曲、そのうち一曲は翔も一緒に参加したことで、二人は、たまに外国ミュージシャンとも顔を合わせることがあった。

 中でも、ゆかりと共演の多いピアニスト兼オルガニストのベニー・ホワイトが、二人に声をかけた。


『今は、オルガンは持って来ていないけど、ニューヨークのライヴ・バーには置いてあるから、来たら聴かせてやるよ! だから、来いよ!』


 大柄で人の好さそうな顔の白人男性のベニーは、白髪の割合が多い金髪せいで、見た目は五〇歳代には見られにくい。奏汰たちとも対等に接し、茶目っ気たっぷりに、身振り手振りで冗談を交える愛嬌のある様子は、年齢を感じさせない。


 奏汰と翔が追求し続けてきたノージャンルの、特にボサノヴァ風のものを気に入り——音楽としてはまだ改良の余地はあるが、挑戦する熱意が素晴らしい! という褒め方で——二人を、自分のニューヨークでのレコーディングと、その後のライヴにバンドメンバーとして招いた。


 ただの愛嬌ではないのかと何度も確かめ、そこにいたゆかりも確認したが、どうやら本気らしかった。

 ゆかりも喜び、有頂天になった奏汰と翔は、すぐに蓮華と菜緒にそれぞれ知らせ、飛び跳ねながら駅まで走ったのだった。


「マークに英会話教えてもらえないか、明日香ちゃんに聞いてみるわ!」


 同じくらい喜んだ蓮華が友人明日香に連絡を取ると、しばらくして、マークもOKだという返事が来た。ただし、奏汰との時間がなかなか合いそうにないため、住み込みでなら教えるという条件だった。


「ホームステイ状態ね。日本にいながら」


 蓮華が笑った。


「でも、マークさんて、明日香さんと一緒に住んでるんじゃ……?」


「そうよ」


 奏汰が遠慮がちに、蓮華を見る。

 スマートフォンをスクロールしていた蓮華の指が止まり、破顔した。


「二人、もうすぐ結婚するんですって! それでね、結婚式の二次会を、うちのお店でやりたいって。仕事関係者は呼ばず、友人だけで、ひっそりと」


「へえー! 意外だな! ……ってことは、俺は、新婚のお宅に泊まり込むってこと? ますます悪いよ」


「もともと二人で住んでたし。マークも明日香も了承したからこそなんだから、大丈夫よ。ホストファミリーみたいな感覚かも知れないわね」


「ありがとう、蓮華!」


 蓮華を抱きすくめ、彼女の足が浮く程持ち上げると、小躍りするように、ぐるぐる回った。


「やだ! 下ろしてよ」


 蓮華が笑った。

 奏汰は、蓮華を床に下ろすと、改めて見つめた。


「いつもありがとう。俺、頑張ってくるから!」


「うん」


 嬉しそうに微笑みながら、蓮華は、奏汰の髪を梳いた。


「明日香ちゃんのところに泊まるのは、ちょっと心配だけど、気を付けてね」


 奏汰は、ふっと笑った。


「俺が、魔性の女の魅力に引き込まれちゃうって心配? それには及ばないよ——」


 誓いを立てるような口づけを受けた蓮華も、柔らかく返し、きゅっと奏汰の背を抱きしめた。




 ほんの三駅ほど離れたところに、明日香のマンションはあった。

 三〇代半ばほどのアメリカ人マークは、十歳以上も年下の奏汰にも対等に接する。多少の日本語は使えても、あえて英語で話していた。

 テキストなどは使わず、日常生活で使われる会話をゆっくりと話せば、奏汰には、なんとなく伝わった。


 簡単な料理もしながら、作り方を説明する。奏汰も発音を直されながら、一緒に調理していた。

 夜は、リビングのソファを借りることになった。

 外国製の広めのソファであり、奏汰が寝られるほどの大きさはあった。


 アンプを通していないエレキベースを練習してから、ソファに横になる。

 心地良く眠りに落ちるには、時間はかからなかった。


 夜中だった。

 玄関のドアが開き、鍵を閉めた音の後に、足音が近付く。

 リビングのドアが開くと、オレンジ色の小さな照明だけが点けられた。


「Hi, Mark. I'm home 」


 小さく、女の声が、呼びかけた。

 赤茶色の長いストレートの髪からは、煙草の匂いが振りまかれる。


 千鳥足の音と、キッチンで手を荒い、コップに水を注ぎ、ごくごくと飲み干す音。


 上着や衣服、ストッキングを、次々と脱ぎ捨てながら、「 I missed you!」歌うような甘えた声で、女はソファに近付くと、薄手の毛布に包まった奏汰に覆い被さる。

 甘い音を立てながら、もぞもぞと、食べるように赤い唇は、顔中あちこち動き回った。


「ん~、蓮華……?」

「……ん?」


 うっすらと開いかれた目と目が合う。


「わあっ!」

「あら!」 


 女が慌てて、部屋の照明を明るく切り替えた。

 赤いシルクのキャミソール姿だった。


「やっだー! 奏汰くんじゃないの!」

「明日香さん!? なにしてんですか!」

「ごっめ~ん! 間違えちゃった~!」


 騒ぎを聞きつけて寝室から出てきたマークに、明日香が、酔っぱらって帰ってきたから、あなたと間違えたのだと英語で説明する。


 反射的にソファに座り直した奏汰は、怒られるだろうとビクビクしていた。


 マークは笑い飛ばすと、奏汰の肩をポンと叩き、気にするなと言った。

 それから、明日香をやさしく抱き寄せた。


『今夜も、一段と綺麗だよ、ハニー』 

『嬉しいわ、ダーリン!』


 そのような会話と、終わりそうにない口づけに、思わず見入っていた奏汰は、はっとして、赤くなりながら目を反らした。


「ごめんね〜! 奏汰くん、今日から『合宿』なんだったわね! すっかり忘れてたわー」


 キャミソールのツーピース姿で、明日香は、ご機嫌にミネラルウォーターを飲み、同じソファに座った。

 マークが、彼女の脱ぎ捨てていった仕事着を拾い集め、洗濯機の方へ運んでいるのに気を取られながら、奏汰は言った。


「お二人の愛の城に、無粋な真似してすみません。しばらく、お世話になります」


「あら、気にしなくていいのよ〜! 人がいようといまいと、どうせ、やることは変わらないんだから!」


 コロコロと笑う明日香を、奏汰は恨めしそうに見てから、少し呆れた目になった。


「ねえ、ニューヨークに行ってレコーディングが終わっても、しばらくは日本に帰らないんでしょう?」


「はい。決まった店で、週に四日はライヴやるみたいで。しばらくいろって言われたんですけど。まだ、これからパスポートとかビザも取らなくちゃって段階で」


「蓮華とのこと、どうするの?」


 明日香はソファの肘掛けにもたれかかり、足の先で、奏汰の腕をつついた。


「どうって……」


「単身で行くつもりなんだ? 多分、あの子、待ってると思うわよ~」


「はあ、まあ、日本で待っててくれるでしょうけど……」


「そうじゃないわよ」


 明日香が吹き出した。


「連れてっちゃえば?」


 奏汰は目を丸くしてから、真面目な表情になり、明日香から目を反らした。


「からかわないでください。……お店があるんだから、連れて行けるわけないじゃないですか」


「お店は、優さんがいるんだから、なんとかなるでしょ。経理だってちゃんと雇ってるんだし、蓮華なら、その間のことくらい考えるわよ。キミ、若いんだからさー、そんなこと考えずに、勢いで行動しちゃえばいいじゃないの! 年取ると、常識に囚われるし、つい計算しがちなんだけどさ、そこに、若くて純粋なエネルギーがぶつかって来たりしたら、『いいかも~♡』って、フラフラ~っとなる年上女は多いと思うわよ」


「……そうでしょうか?」


 眉間に皺を寄せる奏汰に、明日香は続けた。


「――ってカンジのドラマなら、書いたことあるわ」


「……ドラマの話ですか。現実は、そんなわけには……」


「もし、ついて行くのが無理でも、ちゃんと待ってると思うわよ。今の蓮華なら、キミに惚れてるから」


 ミネラルウォーターをテーブルに置き、ソファに座り直した明日香が、射抜くような目で見る。

 その瞳を捉えたまま、奏汰も真面目な表情になった。


「……わかってます、明日香さんが、俺に何を言いたいのか。一見、茶化してるかのようだけど、実は……」


「あら、茶化してるだけよ」


 唐突に遮った明日香を、思わず、奏汰が二度見た。


「説教垂れるつもりも、指南するつもりもないわ。ただ、どんな方に向かうのか、見てみたいだけ」


 魔性の女は、好奇心に満ちた物書きの目になり、にっこりと微笑んだ。

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