Ⅳ.(7)ブルームーンVSジャックローズ

「ちょっとお願いがあるんだけど」


 そうメールで呼び出された翔は、ゆかりと居酒屋に来ていた。

 ゆかりは、中ジョッキのビールを飲むと、カウンターの隣に座る翔に、微笑みかけた。


「今日は、奏汰は、ベースのレッスンの日よね?」

「はい。今頃は、吉祥寺ですね」


 ビールを一口飲んだ翔は、ジョッキを置き、これまで女たちを落として来たスマイルで、ゆかりに応えてみせた。


 奏汰不在の日に、自分に声をかけたということは、俺にも脈があるはず! と、確信していた。

 外見でも、音楽面でも、自分が奏汰に劣るはずはないのだから。


 ゆかりは、微笑みを絶やさず、尋ねた。


「翔は、奏汰と一緒に住んでるんでしょう? 彼と、付き合いは長いの?」

「そんなでもないです。一緒に住んだのだって、半年も経ってないし」

「そうなの? でも、演奏は息が合ってたわよ」

「ああ、二人で散々練習しましたから。あなたと共演するために」


 熱い視線を、ゆかりに送るが、ゆかりが意識して、頬を染めるということはなかった。

 その代わりに、微笑む彼女の瞳が、きらりと光った。


「それで、……翔なら知ってるわよね? 奏汰の彼女のこと」




 翔とゆかりは、電車で横浜に着くと、並んで歩いていた。


「どうしても、私は、そのひとに会わなくちゃいけないの。だから、お願い!」


 居酒屋で、ゆかりに、そうせがまれた翔は、逆らえず、たじろいだ末に、「……まあ、あのねえちゃんなら、なんとか出来るか……」と思い、横浜まで来てしまったのだった。


「あら、ここって、前にも来たことあったわね」


 ゆかりが辺りを見回している。


 アコースティックギターの黒いハードケースを背負った翔は、地下の階段を下りて行き、躊躇ためらいがちにバー『J moon』の扉を開けた。

 カウンターの近くには、落ち着いた赤い色のワンピースを着て、髪をアップにした蓮華がいた。


「よ、よう、蓮華さん、今日も綺麗だね!」


 その声に蓮華が振り返り、冷や汗をかきながら取り繕った愛想笑いを浮かべる翔を見つけた。


「あら、翔くん、お世辞なんか言っちゃって、何の魂胆が……あっ!」


 翔の後ろから、ゆかりが顔をのぞかせた。

 蓮華は驚いた顔になるが、「まあ! ……いらっしゃいませ!」と、すぐにいつもの親し気な笑みを浮かべた。


「蓮華さんなら大丈夫だよな? うまくやれるよな? じゃ、後はまかせた!」


 気まずい顔のまま、翔は、ゆかりを置いて、逃げるようにして去っていった。




 蓮華は、優に仕事の指示をしてから、間もなく店を出た。

 ワインレッドのワンピースに、ところどころレースをあしらった仕事着姿のまま、ウェーブのロングヘアをアップにした蓮華が、ラウンジに辿り着く。


 ライヴやコンサートの時は、いつも紫色のタイトなワンピース姿で登場するゆかりを見慣れていた蓮華には、彼女のトレードカラーである紫色のシャツと黒いタイトスカート、カールした茶色のロングヘアが、妖艶というより好感の持てる、品の良い大人の女性に映り、見蕩れていた。


「あなただったのね」


 ゆかりが蓮華を見るなり、納得のいった顔で微笑んだ。

 二人は、赤ワインを頼んだ。


「初めてお会いした時は、突然大勢で押し掛けちゃって、ごめんなさいね」


「あ、いいえ、突然でもいらしていただければ、有り難いです」


 口を付けたワイングラスをテーブルに置き、ゆかりは、蓮華もワイングラスを置くまで待ってから、切り出した。


「一連のことは、ご存知? 私と奏汰の関係も」


 蓮華は俯いて、こくんと頷いた。


「どんな神経してるのかと思われようが、私は、あなたと話してみたかった」


 ゆかりは、蓮華の表情を見つめながら、語り出した。


「私と彼とは、単なる疑似恋愛よ。恋人が欲しかったわけじゃないの。疑似で良かったの。そうじゃないと、……溺れていたかも知れない」


 蓮華の肩が、ぴくっと強張こわばった。


「そうなったら、全部が台無しになるところだった。もう若くはないから、そのくらいの分別はあるつもりよ。だから、奏汰を信じてあげて。これまで突っ走って来たのを、彼にいたわってもらって、癒してもらっただけなの」


 ゆかりが、気遣うような表情で蓮華を見る。


「彼の話は、信じてはいました。今、お話を聞いていて、ゆかりさんの誠意も感じられました」


 続きを話そうとする蓮華に、ゆかりはある覚悟の現れた表情になるが、蓮華は、ゆかりにとって、おそらく予想外なことを口にした。


「奏汰くんを、お願いします。音楽面でも、どうぞ導いてあげてください。奏汰くんの才能を成長させてあげられるのは、ゆかりさんだけだと思っています。そして、もし疑似恋愛が、愛に変わった時は……」


 蓮華は、どこか淋し気な微笑になって、続けた。


「あたしには、遠慮しないでもらいたいのです」


 ゆかりの目が、見開かれていく。


「……取らないで、って言われるとばかり思って、覚悟してきたのに……。どうして、あなたは、そんな風に思えるの?」


 信じられないように蓮華を見るゆかりの目に、蓮華は、微笑しながら応えた。


「ゆかりさんのことも、奏汰くんのことも、大好きで、信頼しているからです。奏汰くんは、あたしの『もの』じゃない。彼は、彼です。あたしは、彼を縛り付けて、可能性を潰すようなことはしたくないんです。だから、……お願いします」


 蓮華は、頭を下げた。


「あなたは、奏汰の才能を伸ばしてあげたいのね。私も同じよ。彼は、まだまだ伸びるわ。だから、もっと伸ばしてあげたいと思っているわ。だけど……」


 ゆかりは、テーブルの上のワインに、視線を落としたが、ワインを見ているようではなかった。


「私は、自分の音楽のために彼に甘え過ぎてきたわ。今までも、自分のことしか考えてこなかった。だから、ずっと独りの時間が長かったのね」


 蓮華が顔を上げ、慌てた。


「あ、あの、奏汰くんとの疑似恋愛でしたら、あたしに気を遣って、やめてくれなくていいんです。あなた方の音楽のためなのですから。口に出さなくても、奏汰くんが、あなたのことが好きなの、あたしにもわかります。あたしは、あなた方の『かせ』には、なりたくないんです」


「もういいのよ」


 穏やかな口調で遮ると、ゆかりは微笑んだ。


「あなたと話していたら、気が済んだわ。あなたの考えも、よく理解したつもりよ。これからは、奏汰を育てることにするわ。疑似恋愛は、もういいの。彼の才能を伸ばすことに専念するわ。私が、そうしたくなったのよ」


 ゆかりは、蓮華の手を握った。

 蓮華が、はっと、ゆかりを見る。


「蓮華さん、あなたと話せて良かったわ。勇気を出して、あなたに会った甲斐があった」


 吹っ切れた笑みを浮かべるゆかりを見つめるうちに、蓮華の瞳は潤んでいった。


「あたしも、……ゆかりさんとお話し出来て、良かったです……!」


「私たちは音楽を愛し、仕事を愛する者同士。似た人が頑張っているのを知って、元気をもらえたわ。ありがとう!」


「そんな! 似ているだなんて、もったいないお言葉だわ! こちらこそ、ありがとうございます!」


 蓮華が感激し、その瞳は、ますます潤んでいった。


 その後、ゆかりは、蓮華と『J moon』に戻った。

 カウンターに、ゆかりが腰掛けると、カウンターの中から、優が目を丸くした。


「ジャズ・ヴィオラの香月ゆかりさん……!?」


「ええ。初めまして」


 ゆかりが、にこっと微笑んだ。


「蓮華さんのお友達になったの」


 蓮華は未だに潤む瞳で、嬉しそうに微笑む。

 普段はポーカーフェイスである優でも、蓮華とゆかりを見て、しばらくは驚きを隠せないでいた。


 味の好みを尋ねてから、優がシェイカーを振るう。

 ゆかりの前には、紫色の飲み物の中に、赤いマラスキーノ・チェリーの沈むカクテルグラスが置かれた。


「……美味しい! 香りも良いわ! これは、どんなカクテルなの?」


「すみれの色と香りを再現したヴァイオレット・リキュールを使った『ブルームーン』というカクテルを、少しアレンジしてみました。カクテル名は、『YUKARI』です」


 ゆかりは嬉しそうに笑った。


「ありがとう。『ブルームーン』て、ジャズの曲にもあるわね」


「はい。作曲は、意外にも、ミュージカル映画で有名なリチャード・ロジャースですが」


「そういえば、そうだわ!」


「ブルームーンとは、一ヶ月に満月が二回あることで、月が青く見えるそうです。カクテルの『ブルームーン』は、ヴァイオレット・リキュールとジン、レモンジュースを使うんですが、こちらは、それにちょっと一工夫してみました」


「どんな?」


「それは、秘密です」


 にっこり微笑んだ優に、ゆかりはくすくす笑った。


 スマートフォンで検索した彼女は、面白そうな顔になった。


「『ブルームーン』のカクテル言葉は、『幸福な瞬間』『奇跡の予感』『出来ない相談』とか、良い意味も悪い意味もあるようだけど、どれかしら?」


 優は、ゆかりの面白そうな表情を、さらに面白そうに見つめた。


「どれでもお好きなものを。僕からすれば、そうですね……、『奇跡の予感』は、いかがでしょう?」


「素敵ね」


 ゆかりが笑った。


「あなたのカクテル、すごく美味しいわ! また来ていい?」


「光栄です。いつでもどうぞ。お待ちしております」




「お疲れ。いろいろ」


 閉店後の従業員も帰った後、優が、カウンターに座る蓮華に差し出したのは『ジャックローズ』だった。

 逆三角形のカクテルグラスには、赤く透明なカクテルがそそがれていた。


「優ちゃんこそ、ゆかりさんに、ありがとうね」


 蓮華は微笑み、カクテルグラスを掲げてみせた。


「美味しい。カルヴァドスのりんごの甘い風味と、サッパリした後口。さすがね」


「どういたしまして。アップル・ブランデーの甘さと、ライムジュースの酸味と爽やかさが、まさに、酸いも甘いも知っている大人の女性にぴったりだと思ってね」


 優が、わざとかしこまった礼をする。

 制服のままであっても、彼の口調も表情も、バーテンダーの時と違い、くだけた友人に戻っていた。


「優ちゃんにしては、いつもより甘めね」


「その方が、今の蓮ちゃんには、もしかしたら、いいのかなと思って」


 蓮華はカウンター越しに優を見つめ、ふっと、肩の力が抜けたように笑った。


「あたし、ちょっと偉かったのよ」


「へえ、そうなんだ?」


 優は、面白そうな顔になる。


「どこまで、わかってるの?」


「う~ん……、奏汰くんが、ゆかりさんと仲良くなって、蓮ちゃんは、それを認めてあげた、もしくは譲ってあげたとか?」


 蓮華は驚いた顔になり、「はあ」と、感心に近い溜め息をもらした。


「やっぱり、優ちゃんには、何もかもわかっちゃうのね」


「えっ!? もしかして、当たりだった!?」


「また! トボケちゃって!」


「いやいや、ホントに知らなかったんだよ! いやあ、奏汰くん、すごいんだね!」


「まったく、優ちゃんてば」


 ぶつぶつ言う蓮華が、大きく溜め息を吐いた。


「奏汰くんて、バカ正直っていうか……、嘘が付けないみたいで。ゆかりさんとの疑似恋愛は、音楽のためには必要だったことだから、浮気してるつもりはないって、堂々と。心から好きなのは、あたしだなんて、いかにも、浮気してる男の人が言うようなことを言うのよ。まあ、信じたけどね」


 蓮華は再び溜め息を吐き、仕方のなさそうに笑った。


 優は、あたたかく微笑んだ。


「奏汰くんの場合、ごまかすとかじゃなくて、多分、本気でそう思ってるんだろうね」


「あんまり正直過ぎるのも、どうかと思うわ」


「正直であるべきだと信じてる時期は、僕にだってあったよ」


「奏汰くんの場合、ずっとかも?」


「実は、僕も、今でもそう信じてるよ」


 優が笑う。


「……そうよね。正直でいる方が、いいわよね」


 互いに、苦笑いになった。


「優ちゃんの場合は、そう思ってはいても、それを表には現さないでしょう?」


 意地悪そうに、蓮華が言った。


「まあ、時と場合によっては、隠し通すかな」


「ホント、食えないわねー!」


 しれっと応える彼を、蓮華は憎々し気に見た。


「その方が助かるわ。でも、あの純粋さが、奏汰くんらしくて、かわいいんだけどね」


 困ったように笑うと、優も、奏汰を思い浮かべ、自然と微笑ましく笑っていた。


 二人は、くすくす笑い続けてしまうのを、止められなかった。




 宣言した通り、ゆかりは、奏汰との疑似恋愛は止め、音楽面で育て、鍛えることにしたと、彼に話した。

 彼女がそう決めたのならと、奏汰も、それに応えることにした。


 メンバーの中には、二人が音楽面で意気投合していたのを、信頼し合い、仲が良いと捉えた者もいれば、恋愛関係なのかと勘ぐる者もいたが、その後の二人を見ているうちに、意気投合している男同士の友情のようなものだろうと見るようになった。


「蓮華を泣かせちゃいけない。今まで、俺が甘え過ぎてた」


 蓮華が笑い飛ばした。


「なーに言ってるの。奏汰くんが疑似恋愛中でも、あたしは泣いてなんかいなかったわよ」


 奏汰は、上目遣いで蓮華を見た。


「でも、本当は、泣きたかった?」


 途端に、蓮華の目に涙が溜まっていく。


「……そんなこと、……訊かないでよ」


「ああっ、ほら!」


 ポロポロとあふれる涙を拭う蓮華に、奏汰が慌てた。


「もう痩せ我慢はしないって、決めたから……」


「うん。話してみて」


 奏汰が、蓮華の肩に手を置き、泣きじゃくる彼女を覗き込んだ。


「心配だった。ヤキモキはしてた。でも、彼女になら……いいって……覚悟してた」


 奏汰は強く蓮華を抱き竦めた。


「ごめん! やっぱり、俺、いつも蓮華に甘えててダメだな! 蓮華ならわかってくれるからって思うのは甘えすぎだった。ごめん! 一番大事なのは蓮華だから!」

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