Ⅳ.(5)疑似恋愛
「今度のレコーディングでは、『Night and Day』を入れてみようと思うの」
ゆかりが、メンバーの前で切り出した。
「ええっ、ゆかぽん、やっとやる気になったんだぁ?」
ゆかりの兄、香月孝司が驚いた。
常に、きりっとしているマネージャーの孝司は、妹に対しては、子供の時からであろう接し方をしていた。
それには、始めは驚いて違和感のあった奏汰と新人たちも、やっと慣れてきたところだ。
ジャズのスタンダード・ナンバーで、特別珍しい曲ではない『Night and Day』。
奏汰が初めて演奏したバラード『Ev'ry Time We Say Goodbye』と同じ、コール・ポーターの曲だった。
緊張感のある響きから、安心感のあるコードに落ち着く。特徴的なテーマが始まり、伸びやかに歌うサビ。
奏汰も知っている曲であり、それを選択したといって、なぜ、周りが驚いているのか不思議だった。
「『Night and Day』は、ゆかぽんが大好きな曲でさ、それを初めて聴いた時に、ジャズに目覚めたんだって」
新人の奏汰たち三人に、ピアニストが説明した。
「だけど、既にいろんなアレンジがあるだろ? ボサノヴァとかスイングとか、ラテン系とスイングを交互にとか、いろいろ」
「思い入れの強い曲だからこそ、アレンジが納得いかなくて、自分らしいアレンジを求めるあまり、ずっと彼女が避けてきた曲でもあるんだ」
「なんで、急に、やる気になったんだろう?」
「だよな!」
ピアニストとドラマーの話を聞いて、「へえ」と、新人たちは顔を見合わせた。
「ゆかぽん、ホントにいいの?」
「いいのよ、コウちゃん、今なら出来そうな気がするの。このメンバーではエレキを使ってフュージョン風に、そして、もう一つ、アコースティックでボサノヴァ風に、やってみたいの」
ミディアム・テンポのボサノヴァでは、ギターは翔が、ウッドベースに奏汰が指名された。
再び、新人以外のメンバーが、どよめいた。
「ゆかぽんがフュージョンやるなんて、何年ぶりだ?」
「三年ぶりだ」尋ねたピアニストに、孝司が即答した。
「よっぽど、奏汰のエレキベースが気に入ったのかな?」
「そうよ。若い風を入れたいって、オーディションする前に言ったでしょう?」
メンバーに、あっさりと、ゆかりが答えた。
皆の注目が集まると、奏汰は嬉しいような、恥ずかしいような表情で、ぺこりと頭を下げた。
「ジャズは、なにも特別なものじゃなくて、気負わず気楽にやるものだわ。そんな当たり前のことに、改めて気付かされたの。これからも、『Night and Day』はアレンジを変えて時々発表していくわ。なにも、私らしくなんて、ひとつのアレンジにこだわらなくてもよかったんだわ」
「頑固なゆかぽんが、やっとそう決めたんなら、それで行こう!」
ゆかりは、そう言った兄を、わざと睨むようにして笑った。
バーの営業時間ではない日中、場所を借りて集まることもあった。
孝司と仲の良いマスターが、時々、練習にと場所を提供していた。
マスターが買い出しに行く間、メンバーよりも早くやってきた奏汰とゆかりは、練習中だった。
ウッドベースで、奏汰が試行錯誤していると、ゆかりが寄って行く。
「そのフレーズ、良いわね」
奏汰の思い付いたベースのフレーズに乗せて、ゆかりがヴィオラを奏でる。
息遣いまでも彼に合わせたのかと奏汰が思ったほど、彼女のフレーズはぴったりと合い、練習とは思えないほどの出来映えに感じられた。
思わず、奏汰が、溜め息を吐いた。
「今、なんていうか……鳥肌が立ったっていうか、ビリビリ来た感じがした。共鳴するって、こういうことなんですかね」
「私も同じよ。これで行きましょう! 後で、皆が来た時に聴いてもらうわ!」
「感性がくすぐられたような感覚だった。それを、自分だけじゃなくて、相手も味わうなんてこと、あるんですね」
新たな発見に奏汰が瞳を輝かせていると、ヴィオラを置いたゆかりが、背伸びをした。
柔らかく、唇が奏汰の頬に触れる。
一回り年上で、颯爽とした美しい彼女のそんな動作が、奏汰には可愛らしく感じられた。
見上げて待つ彼女に、唇を重ねる。
口づけ直したゆかりが、奏汰の腕の中にすべりこんだ。幅の狭い彼女の背を包み込む。
暗黙のうちに始まった無言の口づけは、誰にも気付かれてはいない。
マスターが戻る頃には、二人は元の位置で練習を続けていた。
その後、メンバーがバラバラとやってくる。
例え短いフレーズであっても、合わせた時に波長が合うような、共鳴するような、そう感じられると、自然と触れ合うことがあった。
今日は、いつもと違う気がする。
彼女は自分を受け入れてくれている。
自惚れではなく、そう思えた。
自分は、彼女を受け入れられるのだろうか。
受け入れてしまって、いいのだろうか。
早めに練習を抜け、彼女の指定する、そこから離れた場所にあるカフェに向かった奏汰には、彼女が何を言い出すのか、少し不安であった。
「私には、音楽が一番なの」
とりあえず、奏汰は、それを聞いて、ほっとした。
「だから、勝手かも知れないけど、あなたが、私に甘えないところも助かるの」
そう言って、カプチーノを傾けるゆかりを見つめ、奏汰は少し考えてから言った。
「甘えてないって、言えるのかな」
「だって、そうでしょ? あなたから、私に、プライベートでも会いたいって言い出すとか、触れて来るとか、そういうことはなくて、全部、私からでしょう? 私が、そうしたい時だけ」
「……そんなこともないと思いますけど。俺からの時だって……」
奏汰は、言葉を濁すように、コーヒーを口にした。
そんな彼に、ゆかりは、見守るようなやさしい視線を向けた。
「それだって、私の気持ちを察してくれて……でしょう? やさしいのね。私を傷付けないようにしてるのがわかるわ」
奏汰が顔を上げた。
「あの、俺、実は……!」
ゆかりが、手で制した。
「誰かいるんでしょ?」
ゆかりの表情は変わらないままだ。
「私とは、これ以上は発展しないということね」
「少なくとも、あなたを俺のものにしようだなんて、おこがましいことは考えてません。……ああいうことも、あなたが作り上げる音楽の一部だと……あなたとの音楽の余韻だと思ってますから」
ゆかりは、同調したように頷いた。
「そうね。あくまでも、私は、あなたとは音楽仲間」
じっと彼を見据えるゆかりは、すがるような瞳になった。
「それでも、一度でいいから……もうキスだけじゃ、イヤなの」
奏汰の心臓が、大きく鳴った気がした。
恐れていたセリフだった。
硬直した奏汰が、すぐには言葉を返せないでいると、ゆかりが、いたずらっぽい笑いを浮かべ、緊張を破った。
「――って言ったら、どうする? あなたのお相手と同じように、って言ったら?」
「……同じようには、出来ないと思います……」
小さい声で、彼は答えた。
「それなら、最大限に、近付けて」
ゆかりの端正な顔立ちから目を反らせず、どう答えていいか迷う奏汰を見てから、彼女は、さっと時計に目をやり、彼の答えを待つまでもなく言った。
「ねえ、今から出かけない? 夕方からは、ちょっと安いのよ」
にっこり笑って立ち上がると、善は急げとばかりに、ゆかりが奏汰の腕を引っ張った。
夜のテーマパークを訪れたことは、社会人になってからは初めてだった。
ゆかりの方は都内に住んでいるため、思い付きで何度も来ているという。
思ったほど混んでいなかったのは、平日の夜だからだろうと、奏汰は思った。
ヨーロッパ調に造られた夜景を見渡しながら、イルミネーションの中を、二人は並んで歩いた。
さっきの発言は、本気なんだろうか?
「最大限に、近付けて」と。
楽しそうな笑顔の彼女と反対に、奏汰は、迷いながらも、いくらなんでも、越えてはならない一線を越えるわけにはいかないと思っていた。
一通り、ゆかりの遊びに付き合い、水の上をくるくるとトリッキーに進む乗り物に乗り、波瀾万丈空の旅のアトラクションも楽しんだ。
「今、何を考えてるの?」
夜の水上ショーが終わり、そのまま、パークの港を見下ろしていた。
夜景を眺めながら、隣にいる彼女の質問に、奏汰は答えようがなかった。
ゆかりは、別段、不快でもなんでもない顔で、さらっと尋ねた。
「私がどこまで望んでいるのか、それに応えていいのか、どうしたら、私を傷付けないで済むのか、――って、断り文句を考えてるのかしら?」
「両方です。応えちゃいけない想いもあれば、応えたい想いもあります」
「応えたいっていうのは、あなたのやさしさ以外の理由があるとすると……、例えば、断れば、私が機嫌を損ねて、あなたをメンバーから外すことを恐れているから? それとも、疑似恋愛とはいえ失恋のショックから、私の音楽に影響が出てしまうかもしれない、と心配してくれているのかしら?」
「そんなんじゃないんです。そこまで、俺なんかの影響が、あなたの音楽にまで現れてしまうなんて、自惚れているわけではないし……」
「影響するわよ」
「えっ……」
強い一言に、奏汰は、さーっと顔が青ざめ、絶句した。
「――なんて言うと、増々断れなくなるから、パワハラよね。でもね、例え、すごく傷付いたとしても、私はそれを自分の音楽に取り込んでいけるって、思っているの。その時は深く傷付いたとしても、後に、その経験を、曲や表現に活かせる——いいえ、活かしてみせるって。これまでもそうしてきたし、これからも、そうしていくつもりよ」
言い終わると、改めて、ゆかりは奏汰を見上げた。
「だから、奏汰は、私のことを気遣うことなんてないの。自分がどうしたいか、だけでいいのよ」
演奏している時の彼女からは見られない、大人の女性らしい、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
この
そう考えられるようになるまでには、おそらく、いろいろな想いをしてきたのだろう。
きっと、蓮華も……。
「大人はいつも、相手を気遣っているんだなって思います。以前の俺なら、こういう場合、言葉通りに受け取っていたけど……。おそらく、たくさん傷付いて、それでも負けずに今のあなたがあるんだとしたら……」
言葉を区切ると、奏汰は、ゆかりを、そっと抱えた。
「せめて、あなたの心を抱きたい」
ゆかりの瞳が揺れ動き、潤んでいく。
「……ずるいわ。そんなこと言える子だったの?」
「これが、俺の『最大限』かも知れないです」
ゆかりを抱く腕に、力が込もっていく。
しばらく、彼女は、それに身をゆだねていた。
無言の時が流れ、静かな波の音を聞きながら、ゆかりは、ぼんやりと、水面を眺めていた。
「ありがとう。もう大丈夫よ。困らせて、ごめんね」
奏汰の腕の中で、彼女は俯き加減に、目尻を指で拭う仕草をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます