Ⅰ.(1)ジャズの月

 横浜――

 馬車道を通り、横浜赤レンガ倉庫と海を見ながら、とあるビルの地下へと狭い階段を下りて行く。


 バー『J moon』と彫られた真鍮しんちゅうの表札が打ち付けられている洋風の木戸を開けると、青い絨毯貼りの、落ち着いた雰囲気の、上品なバーの室内が待ち構えている。

 その木戸ではなく、奥にある従業員用の目立たない扉を開ける。


 制服に着替え、客席のテーブルを拭き始める。

 開店前からかかっているジャズは、古いものから新しいものまでランダムだ。

 カウンターと正反対の壁側には、グランドピアノとドラムセットが置かれ、天井にはスポットライトが備え付けてある。


 週に数回、ジャズの生演奏が行われる。

 店の名前も、「ジャズの月」のようなつもりで付けたらしいと聞く。

 プレイヤーはアマチュアが多く、たまにプロや、定期的に学生の日を設けたりもしていた。


 奏汰かなたも利用したことがあり、それをきっかけにアルバイトをすることになった。


 ここでは、主にミュージシャンを夢見る若者が働いている。

 新米の奏汰の仕事は、店内と休憩室、シャワー室の掃除や、接客、注文されたものを運ぶ等であったが、そのうち、カクテルの作り方も教わる予定だ。


「おはようございます!」


 業界では、朝でも夜でも、最初の挨拶は「おはよう」だ。


「おはよう~!」


 バー『J moon』のママ・水城蓮華みずき れんかだった。

 初めて店を訪れた時から、若いと思っていた。


「どう? 少しは慣れた?」


 そうにっこり微笑んだ彼女の笑顔に見入っていて、返事が遅れた。


 開店時間をしばらく過ぎると、スーツ姿のビジネスマンたち、着飾ったOLたち、楽器の入ったケースを持つ若者たちなどがやって来る。

 サンドウィッチやパスタなどの軽食も用意はあるが、注文は、もっぱらアルコールと肴だ。


 店のBGMで流れるジャズは、古き良き時代のものから新しいものまであり、うっかりすると、聴き入ってしまう。


 ついベースのフレーズを耳で追っていたり、コードを聴き取っている。その時点で気付ければ、すぐに現実に戻ることは出来るが、それが進むと、右手の指が見えない弦を探っている。


 困った癖だと自覚しながらも、これまで、なんとか同僚に見つかることなく仕事は出来ている。


 休憩時間には、仮眠も取れるパイプベッドと、ソファのある小さな殺風景な部屋で休める。小さめの冷蔵庫とカクテルの道具、カクテルの本などが並び、身だしなみをチェック出来る姿見もあった。


 悪くない職場だと、奏汰は思っていた。


 仕事が終わると、近所に借りたアパートへ帰り、殺風景なワンルームで、スタンドに置いたベースを取り、アンプを通さず弦を弾く。


 そんな日々だった。




 数日が経ち、従業員が帰った後、奏汰の他にチーフ・バーテンダーの桜木優さくらぎ ゆうも残る。

 閉店後に、奏汰は、優から簡単なカクテルを作る手ほどきを受けていた。

 店にある酒やカクテルを作る材料は、練習や研究のために、使って良いことになっている。


 優は、一八〇センチを越える背丈で、細身であり、手の指も長く、男にしては綺麗な手が印象的だった。

 ベースを弾く奏汰は、人の手にも自然と目が行く。バーテンダーは、爪の手入れも行き届いていて、ハンドケアもしているのだなぁと、密かに感心する。


 仕事中はアップにしていた髪をほどいた蓮華は、カウンターに腰掛け、チャーリー・チャップリンという珍しい名のカクテルを優に注文していた。

 柑橘系のリキュールを組み合わせていても、さっぱりとしていて香りも良いから好きだと言いながら、グラスに、そっと唇をつける。


 何気ない仕草であったが、奏汰の知る中で、そのように品のある飲み方をする女性を見たことはなかった。


 大きく、丸く削られた透明な氷が、暗く照明を落とした灯りの中で、宝石のように反射する。

 紅茶のようなカクテルの輝きも手伝ってか、やけに彼女の美しさが際立った。


「奏汰くん」


 優が奥に引っ込むと、蓮華が頬杖をついて、微笑みかけた。


「今日のお題は『ブラッディ・メアリー』にしよっか。シェイクじゃなくて、ビルドで出来るから大丈夫でしょう?」


 シェイカーを振るうものは、まだ教わっていなかった奏汰は、グラスに直接作り、混ぜるだけで出来るカクテルから習っていた。


 人好きのする若いママの微笑みは、客の心を癒し、安心させる。

 奏汰も、そのひとりだった。


 目の前で小首を傾げ、にこにこと親しみのある笑顔で頼まれれば、お題でも、お題じゃなくても、作れなくても、作って差し上げたくなってしまう。


「レシピは、そこの本に載ってるから」


 まさに、天使の微笑みだった。

 その美しい微笑みに、照れながら応えた。


 『ブラッディー・メアリー』または『ブラディー・マリー』ともいう「血塗られたメアリー」と呼ばれるカクテルは、イギリス女王メアリーが新教徒を迫害したことで付けられたあだ名から来ていた。


 天使の割りに、恐ろしい物が飲みたいんだな、と思いついてしまい、笑うのをこらえた。


「元はジンベースだったが、今ではウォッカベースが主流となり、名前も変わったことがある……へー、カクテルのベースや名前が変わるなんてこともあるんだ」


 情報をインプットしながら、酒と材料を用意していく。


「ウォッカをトマトジュースで割って、結構スパイス入れるんだな。塩、胡椒、ウスターソース、タバスコ……えっ? ソースとタバスコ?」


 指定されたレシピを見て、奏汰は目を疑った。

 飲んだことのない彼には、どんな味になるのか皆目見当がつかない。


 とにかく、冷やしてあったロンググラスに氷を入れ、酒(スピリッツ)とジュースを入れる。 

 スパイスを適当に入れて味を見ると、当然、美味しいはずがなかった。


「なにこれ!」


 胡椒が喉に残り、げほげほむせていると、優が飛んできた。


「あれ? ブラッディ・メアリーなんか作ってるの? スパイスの加減が難しくて、注文が入った時は僕が作ることになってるから、新人さんはまだ作らなくて大丈夫だよ」


「そ、そうだったんですか? でも、ママが、お題だって……」


 二人が見ると、カウンターに蓮華の姿はなかった。


「なんだったんだ?」


 わけのわからない顔の奏汰の横で、優が苦笑いになる。


「蓮華さんにやられたね」


「えっ?」


「ママのイタズラだよ」


 奏汰は信じられない顔になった。


「そんなことするんですか、あの人!?」


「ああ、バイトの洗礼みたいなものだよ」


 優は、こらえるようにして笑っている。

 奏汰は、まだ目を丸くしていた。


 きれいな顔して、なんてことするんだ!


 酷い目にあった。

 ママには気を付けよう。


 そう思った。




「奏汰くん、質問!」


 蓮華は、手を顔の位置くらいの高さに挙げた。


「はい、なんですか?」


「ブランデーベースで、ホワイトラムとホワイトキュラソーに、ちょっとレモンジュースも入れて、シェイクするカクテルは、なんでしょう?」


「えーっと……」


 カウンターの中で、ブランデーベースのレシピをめくっていた奏汰の手が止まる。


 『ビトウィーン・ザ・シーツ』――「ベッドに入って」を意味するカクテル。


 ページを開いたまま、かあっと顔が赤らんだ。


「ねえ、なんて名前だった?」


 邪気のない笑顔のまま、蓮華が小首を傾げた。


「そ、そんなこと、……言えるわけないじゃないですか!」


「そお? じゃあ、少し飲んだら言えるのかしら?」


 この人、正気か!?


 ますます奏汰は何も言えなくなった。


 そ、そうだ! 優さん!


 優に助けを求めると、蓮華が舌打ちした。


「『ビトウィーン・ザ・シーツ』。ひとりで静かに眠りたい時に飲むカクテルよ。じゃあね~、おやすみ~」


 優が解説する前に、蓮華は、きゃっきゃ笑いながらカウンターを去った。


「な、なんだ。そういう意味か」


 奏汰がホッとしていると、優が「いや、それだけじゃ……」と言いかけてやめた。

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