第9話 アサガオは咲かない〈朝顔〉

 あなたは〈朝顔〉という話を聞いたことがあるだろうか。

 あるところに、寝坊助で有名な親父がいた。一度眠ってしまったら最後、昼すぎまで眠ったままで、仕事に遅れてしまうこともままあったとか。

 そんな寝坊助の親父が、ある日、アサガオの植えられた鉢を買ってきた。アサガオは朝に花を開く花なので、当然この親父が咲いたアサガオを見ることは出来ない。

 それでも、せっかく買ったのだから、一度くらいは拝んでみたいもの。寝坊助親父は女房に頼み込み、なんとか朝早くに起きることに成功した。

 これなら咲いたアサガオを拝めるかもしれない。早速、寝坊助親父はアサガオの鉢の前へ。すると、どうしたことか、咲いていたはずのアサガオがじわじわとしぼんでいくではないか。

 何か病気なのだろうか、それとも枯れてしまったのだろうか。突然の事態に親父が「どうしたことか……」とため息を漏らすと、目の前の鉢から返事が返ってきた。

「へい。おやっさんが起きてきたもんだから、てっきり昼になったのかと」ってね。

 ――どうだろう。なかなかにユニークな話ではないだろうか? 

 この話だけでなく、落語には、人間以外のものが言葉を発する話がある。奇天烈に思えるかもしれないが、話によってはあの世に行ったり死神と取引したりするんだから、アサガオがペラペラしゃべり出してもなんの不思議はないね。

 この寝坊助親父はどうしてアサガオを買ったのだろう?と不思議がる人もいるかもしれない。が、これには、江戸時代に起きたというアサガオブームが背景にあるのではないだろうか。ブームを機に品種改良が進み、アサガオは薬用植物から園芸植物へと移り変わっていったそうな。現存するアサガオの品種は、ほとんど江戸時代に作られたという話だ。なので、どれだけの大ブームだったかを察することはそう難しくはない。

 さてさて、うんちくはこの辺にしておこう。あまり長々と話し続けると、ボロが出て、底の浅いことがバレてしまうからね。

 今の話を念頭に置いてちょっと聞いて欲しいことがある。

 


 それはあたしが高校生になってから迎えた初めての冬のことだ。

 あたしの住む神奈川県相模原市という場所は、あまり雪の降る土地ではないのだけど、その年は珍しく雪が降った。それも大袈裟なくらいに。真っ白な雪に覆われた地面。足を踏み入れれば、ふくらはぎの辺りまで足が雪に埋まってしまう。駅のほうでは、電車が遅れるというトラブルが起きているそうだ。

 そんな、しんしんと雪が降り積もる朝の街を、あたしと楓は傘を片手に歩いていた。学校というところは、そう易々と休みになってくれないらしい。


「あっちゃんあっちゃん! 雪合戦しようよ」

「嫌だね、こんな寒いのに」


 楽しそうな顔が面倒臭い。タイツを履かなくてはならないほど寒いというのに、楓は何故嬉しそうなのか。あたしには友人の考えがイマイチわからなかった。いつものことだけど。


「冬が寒いのは当たり前だよぉ。そうだ、せっかくだから怖い話してあげようか?」

「何がせっかくなんだよ。するんなら、胸が暖かくなる様な人情話にしてくんな。昨日寄席に行ってきて、さんざ勉強したんだろう?」

「むー、あっちゃんたら怖がりさんなんだから」

「そういう問題じゃねぇよ」


 突拍子のない楓の提案を却下すると、不意に静寂が訪れた。雪を踏みしめる規則正しい足音が、聞こえては消えていく。寒いと口を動かすのも億劫だ。少なくとも、あたしはそう。……どうやら、こいつは違うみたいだけど。

「寄席……寄席ねぇ……」と悩ましげにつぶやくと、楓は何か閃いたかのようにパンと手を叩いた。


「あ、そうだ! ね、突然だけど、私アサガオが咲くところって見たことないんだぁ」

「いつもながら本当に突然だなお前は……やっぱり起きるのが遅いから見れないんだろ」


 あたしも人のことを言えるほど朝が得意なわけではないが、楓は格が違う。学校がない日は、お昼まで寝ているのがザラ。夕方の待ち合わせに寝坊することも少なくはない。アサガオが花を開くのは、その名の通り朝。寝坊助な楓が立ち会うことは、ほぼ不可能に近いだろう。


「ううん。頑張れば早起きも出来るもん! でも、そもそも家でアサガオを育てたことがないから」

「そりゃあ早起きしても見れないだろうな、確実に。育ててないんだから。結構綺麗なもんだぞアサガオも。うちの庭に爺さんが植えたんだが、夏頃になるとパッと青い花が開いて、蝶なんかが飛んでるとなかなかに絶景って感じだ」

「えー、あっちゃんガーデニングが趣味なんだ。ちょっと意外」

「だから爺さんが植えたって言ってんだろうが……」

「……ねぇ、あっちゃん。アサガオが咲くところが見たいから、今日あっちゃんの家にお泊りしてもいいかなぁ?」

「はぁ? 泊まるのは構わないけど、今はまだ二月だぞ?」


 アサガオが花を咲かせるのは、夏から秋にかけて。種を撒くのですら、五月下旬。今は雪の降りしきる二月上旬。花が咲かないどころか、芽すら出ていないどころか、まだ土に植えてすらいない。けれど、楓はそんなことなどお構いなしなようで、満面の笑みを浮かべていた。


「やった! あっちゃん大好き! 明日は頑張って早起きしないとね!」

「いや、ちゃんと人の話を聞けよ」


 嬉しそうに抱きついてくる楓に呆れながら、わかったわかったと首を縦に振る。長い付き合いであるあたしにはわかった。これは家に泊まる為の口実だと。恐らく、普通に頼んでも断られると思ったのだろう。

 泊まりたいんなら、最初から泊まりたいって言えばいいのに。まったく、愛いやつだよ。



 学校が終わると、一度楓と別れ、あたしは部屋を整えに急いだ。別に汚いわけではない。が、人を招き入れる作法として、お年頃の女の子として綺麗にしておきたかった。

 清掃を始めて三十分ほど経つと、呼び鈴が鳴り、楓が我が家にやってきた。


「おう、よく来たな」

「えへへ、お邪魔しまーす」


 ちょうど一段落ついたので迎え入れると、私服に着替えた楓は鞄を片手に弾むような足取りであたしの部屋に。ベッドの横にもう一組布団が用意されているのを見つけ、楓は大袈裟に肩を落とした。


「え、別々のお布団で寝るの? 私、あっちゃんと同じお布団で寝たいなぁ」

「それは私がイヤだ。お前は寝相が悪すぎる」

「私そんなに寝相悪いの? 身に覚えはないけどなぁ……」

「そりゃ寝てるから覚えはないだろうよ。お前は一緒に寝ると何故か毎回脱いでる。寝てる間に」


 布団に入るまではパジャマを着ていたはずなのに、あたしが目を覚ますと、隣の楓は何故か裸になっている。直接的な危害はないが、あたしにとってはいい迷惑だ。


「もぅ! あっちゃんのエッチ! 私が寝てる間にいやらしいことをしてるんでしょ!」

「こういうやり取りがめんどくせぇからイヤだつってるんだよ!」


 なんてくだらない会話を交わしながら、UNOやらトランプをしたり、漫画を読んだり、テレビを見たり。気づけば、時刻は午後九時になっていた。

 明日は土曜日。なので、今日は夜更かしかなとあたしが考えていると、


「そろそろお風呂にしようよ」


 時計を見て、楓がそう切り出してきた。


「ん? うん、じゃあそうすっか。楓、先に入ってきな」

「え! あっちゃんも一緒に入ろうよぉ。せっかくあっちゃんちのお風呂広いんだし」

「あたしも? ……たく、しょうがねぇな。ほら、行くぞ」


 タオルや下着、パジャマを用意して重い腰を上げる。


「あ、ちょっと待って。これ外さないと」


 慌てて首からネックレスを外す楓。シルバーのチェーンで金のリングを二つ通した、シンプルな構造のネックレスだった。おそらく、元々はネックレスではなく、リングを首からさげる為にチェーンを用意したのだろう。


「これね、誕生日にお父さんから貰ったんだ」

「へぇー、随分豪華なプレゼントだな」


 宝石はついていないが、金のリングには細かく模様が刻まれている。これは安物ではないと、知識のないあたしでもわかった。部屋の明かりに反射して煌めく二つのリングには、なんとも言えない魅力があった。


「本当は大事なものなんだけど、あっちゃんにも特別に触らせてあげよっか?」

「いいっていいって。傷ついたり無くなったりしたら申し訳ないからさ」


 何かの拍子で失くしてしまったら、堪ったものではない。なので、あたしは遠慮するのだが、


「いいからいいから」


 楓は楓で自慢がしたいのか押し付けてくる。


「いいっていいって」

「いいからいいから」


 と押し問答をやっている間に、嫌な予感はずばり的中。充電器のコンセントに楓が躓き、掌からこぼれるネックレス。床に落下した拍子に二つのリングはチェーンから外れ、ころころころころとベッドの下へと転がっていってしまった。


「ど、ど、どうしようあっちゃん!?」


 慌てふためく楓をよそに、あたしはベッドの下を覗き込む。リングは右と左に別れ、手のギリギリ届かないくらいの同じような距離に転がっていた。


「まったく、言わんこっちゃない。……んー、二つは難しいけど一つくらいなら十分取れそうだ」

「本当!?」

「ああ。ニマス前に桂馬を打てば、左右の金、どっちかは取れるだろ」


 こう慌てても、いい案は見つからない。とりあえず落ち着かせようと、あたしは小洒落た回答をしてみたのだが――どうやらそれは逆効果だったらしい。


「もう、あっちゃんてばふざけてないでちゃんと考えてよ! 明日の朝は早いんだから!」

「お、おう。すまん」



 翌日。


「あっちゃんあっちゃん。起きて起きて」


 自分のベッドであたしが熟睡していると、何者かに肩を揺すられた。


「あんだよ……人が寝てんのに」

「早く起きないと。もう朝だよ?」

「朝ぁ?」


 執拗に身体を揺すられ、渋々目を開ける。まだ辺りは真っ暗闇だった。携帯電話で確認してみれば、時刻は午前四時。二月の太陽が昇るには、あまりにも早すぎる時間だった。


「まだ四時じゃねぇか……まだ寝てていいだろ」

「ダメだよぅ! 今じゃないとアサガオが咲く瞬間に立ち会えないよぅ」

「アサガオ……? お前本気で言ってたのか?」


 寝起きのぼんやりとした頭に、昨日のやり取りがぼんやり思い出される。楓はアサガオが咲く瞬間を見たいからと言って、あたしの家に泊まりに来たのだった。


「本気に決まってるじゃん! さぁあっちゃん起きて」

「馬鹿野郎! アサガオは夏に咲くんだよ! うわ、止めろ! 引っ張り起こすな!」

「いいからいいからぁ」


 正論を述べ抵抗するも、こうなってしまえばもう無駄だ。楓がキラキラと目を輝かせれば、誰も彼女を止めることは出来ない。小学校からの付き合いであるあたしには、よくわかりすぎていた。

 風邪をひかないよう、パジャマの上に半纏を着てから外へ。一面に広がる銀世界。今は止んでいるが、昨日の朝から降り続いた雪が丸々残っていた。傷一つない白い絨毯に二人で足跡を刻んで歩む。花壇があった場所も同じように雪に埋れていた。当然、アサガオなんて咲いていない。


「えー! どうして咲いてないの? 早起きしたのにぃ」

「だからアサガオは夏から秋にかけて咲くんだってば。ほら、寒いから中に入んぞ」


 肩を震わせながら、あたしが家の中に戻ろうと促すも、楓は素知らぬ顔で花壇があったほうへと聞き耳を立てていた。


「あ、アサガオさんが何か言ってる。何々? ……いっつも寝坊助の私が起きてきたから昼だと思ってしぼれちゃった? もー、やだー」

「誰と話してんだお前は?」

「え? アサガオさんだけど?」

「だからまだ種も蒔いてねぇっての!」

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