第5話 音の宝石箱〈井戸の茶碗〉
よく人に「どうして楓と一緒にいるの?」と質問されることがある。
確かに、楓は面倒なやつだと思う。人をくったような性格だし、何かとちょっかいをかけてくるし、怒られるってわかっていることをわざとやるし、愛嬌だけはやたらといいから憎めないし……控えめに見ても迷惑なやつだ。
それに対し、あたしはどちらかというと真面目な部類に入ると思う。こう見えてクラス委員長だしね。自分でもがさつなところはあると思うけど、問題児ばかりのうちのクラスにおいて、あたしは貴重なまとめ役だ。
そんなわけだから、いつもふざけてばかりの楓と行動していると、あたしの声は大きくなることが多い。元々口は悪いほうだし。見る人によっては、あたしが本当に腹を立てているように思えるかもしれない。「どうして楓と一緒にいるの?」と聞かれるのも当然だ。いつもいつも怒ってばかりなのにと。
だけどね、あるんだよ。あたしとあいつの間にはさ。〈井戸の茶碗〉めいた人情噺ってやつがさ。
ああ、人情噺っていうのは落語の演目の一種で、笑いというよりも、人と人との温かいふれあいをテーマにしたもので、〈井戸の茶碗〉もその中の一つ。
どんなスジかというと、クズ屋を営んでいる清兵衛という男がある日……いや、やっぱりやめておこう。
今回の話は念頭に置かないで聞いて欲しい。念頭に置ける人だけが置いてくればそれでいい。
それはあたしの髪がまだ短かった頃の話だ。
小学校五年生になったばかりのあたしは、とてつもない退屈の中にいた。パイプ椅子に座り、古めかしい着物の並べられた長机に肘を突いて、目の前を行き交う人々を眺めるだけ。二時間以上、ただそれだけ。せっかくの日曜の朝だというのに。なんであたしは時間を無駄にしているのだろう。
地元の商店街で毎月第一日曜日に開催される市民バザー。各々が自由に出店することが出来、あたしの爺さんも毎回のように店を出していた。爺さんは落語家として脂がのり全盛期を迎えたところで突然隠居した変わりもの。年金ライフを満喫する爺さんにとって、このバザーは数多い楽しみの一つだった。
そんな爺さんが家を出るときに鍵を忘れていってしまったらしく、両親はあたしに届けてくるようおつかいを頼んだ。あたしの家から商店街までは大体徒歩三分くらいかな。幸運なことに近所だったので、あたしはすぐにおつかいを終わらせるつもりだった。実際、すぐにおつかいは終わったはずだった。
ところが、あたしが家の鍵を手渡すと、
「おお、そうじゃ。ちょっと留守番を頼まれてくれんかね」
爺さんはそう言い残し、老人会の会合という名の飲み会に消えてしまった。爺さんいわく、どうしても来てくれと言われて、断れないのだという。そりゃそうだ。酒を飲みつつ、ついこの間まで高座に上がっていた爺さんの話をタダで聞けるのだ。こんなに贅沢な酒のつまみはない。
爺さんだって、ウケるとわかっている客の前で話をするのは満更ではないはず。不幸なのはあたしだけ。せっかくの日曜日なのにひとりで店番をしなくてはならないあたしだけだ。
――爺さんはいつになったら帰ってくるんだろうか。
眠たい眼を擦りながら店番を続けていると、一組の親子があたしの机の前で足を止めた。青いポロシャツを着た父親のほうはともかく、不安そうに父親の影に隠れる女の子のほうには見覚えがある。水色のワンピース。確か、最近エリのクラスに転入してきた子だ。初めて見たときも思ったが、腰まで伸びた美しい髪がとても羨ましく思える。あたしもこんなに綺麗な髪だったらなぁ……。
それにしても、なんの用なのだろうか。問いかけるように見つめると、女の子は申し訳なさそうに視線を落とし、父親は仕方なさそうにその頭を撫でた。
「お嬢ちゃん、ひょっとして谷口小学校の子?」
「はい、そうですけど……」
「やっぱり! じゃ、この子と同じ学校だね」
「……はぁ。ところで何かご用ですか?」
陽気に話す父親に切り出す。なんとなく、そんな世間話をしにきたようには思えなかった。
「んー、ちょっとお嬢ちゃんに頼みごとがあってね」
「頼みごと、ですか?」
あたしが訝しげに首を捻ると、父親は紙袋からガサガサと四角い何かを取り出した。それはおもちゃみたいな安っぽい装飾だったものの、あたしの目にはキラキラと光り輝いて見えた。
「……なんですか、それは?」
「オルゴールだよ。音の宝石箱だね!」
「宝石箱……それがどうかしたんですか?」
「実はさ、これをお嬢ちゃんのお店で置いてもらえないかなって思って」
両手を合わせ懇願する父親の姿に、あたしは再度首を捻るしかなかった。お店に置かせてほしい=売りものにして欲しいということは、小学生のあたしでもわかる。が、少し問題があった。
このバザーの趣旨はリサイクルであり、儲けを考えてはいけないものである為、基本的に自分たちの家のもの以外を売りものにするのはNGなのだ。あたしはあくまで店番。店主の判断を仰がねば判断は下せない。そして、あたしも爺さんも携帯電話を持っていない。
「困ります。このバザーはそういうことダメなんです。それに爺さんに聞いてみないと」
断りを入れるも、この父親がなかなかにしぶとかった。なんでそんなに手元に置いておきたくないのかはわからない。けれど、何度断っても諦めてくれず――小学生相手にちょっと大人げない気がするけど――最終的に折れたのはあたしのほう。オルゴールを引き渡すと、父親は何度もお礼を言って女の子と一緒に去ってしまった。
売ったお金は父親に返すという条件つきではあるものの、これはやっかいごとだ。ルール違反をしているということよりも、爺さんに内緒で引き受けてしまったことに後ろめたさを感じた。さっきまでは爺さんが帰ってくるのを待ち望んでいたが、こうなってしまえば話は別だ。爺さんが帰ってくる前に、やっかいなオルゴールを売りさばく必要がある。
とはいえ。早く売ってしまう必要があるとはいえ。あたしが同年代の女の子よりもボーイッシュだとはいえ。押し付けられたオルゴールの鈍い輝きは妖しげで、思わず目を奪われた。魔法でもかかっているのか、無性に目を引きつけられ、心が高鳴っていくような気がした。なんとなく、さっきの女の子の姿が浮かんで見えた。
オルゴールを眺め、本当に宝石箱みたいだとうっとりする。そんな心地のよい一時を終わらせたのは、お客さんの一声だった。
「ちょっとよろしいかな。そちらのオルゴールを譲っていただきたいのだけど?」
唐突な願い出に顔を上げる。スーツに灰色の外套を羽織った恰幅のいい中年男性。声の主はこの街一番の名士だった。話を聞くに、名士は留学していて滅多に会うことの出来ない娘にプレゼントしたいのだという。
本当のことを言うと、もう少しばかり手元に置いて眺めておきたいという気持ちはあった。が、そういう事情があるならばと、あたしは名残惜しみながらも二束三文でオルゴールを売ってあげた。
恐らくこれが最高の形なのだ。あの父親はオルゴールを手放すことが出来、名士は素晴らしいプレゼントを用意することが出来た。まさにこのバザーの理念を表したと言っても過言ではないだろう。おまけに勝手なことをしたという事実は爺さんにバレない。最高の形だ。
それからほどなくして、赤ら顔の爺さんが帰ってきた。会合では大ウケだったと自慢され、人が苦労してたってのに……とどやしたくもなったが、深くため息をついて我慢した。何はともあれ、ようやく店番から解放されたのだ。
これで、あたしのおつかいは今度こそおしまい。このときは本当にそう思っていた。
月曜日。
帰りのホームルームを終えると、あたしはすぐにランドセルを担いで教室を出た。今日は爺さんが三味線を教えてくれる約束になっていたのだ。落語も嫌いではないけど、三味線のほうがあたしは好き。ほら、楽器ってちょっと女の子っぽいだろう?
急いで靴を履き替えて校舎を飛び出し、校門へと向かう。すると、ちょうど学校の敷地から出たところで、声をかけられた。
「お嬢さん、こんにちは」
突然の挨拶に立ち止まり、あたしはその人のほうを見やった。ワインレッドのスーツにカーキ色の外套。昨日とは色違いの服装をした名士がそこにいた。その後ろには黒塗りのリムジンが止まっているのが確認出来る。
「昨日のオルゴールのことでちょっと話があるんだけど、いいかな?」
不安がらせないように優しく微笑む名士。小学生の女の子を車に連れ込もうとする。普通なら完全に事案だ。不審者情報として警察署のサイトに載せられてもおかしくない。
しかし、お金の力は絶大だ。リムジンというお金持ちの為だけに存在する車が安全を保証してくれているかのようだ。これがバンやハイエースならあれだが、名士の背後に止まっているのはリムジンなのだ。見て欲しい、なんだこの無駄に長い車体は? そんなに長くするんだったら、高さもとったほうが快適なんじゃないか?
そんなわけだから、あたしも名士に対する警戒心はほとんどなかった。あるのは、一体どんな話なんだろうという疑問くらいのもの。
「昨日はありがとう。娘は大喜びだったよ」
リムジンの後部座席にふたりして乗り込むなり、名士はあたしに向かって深々と頭を下げた。
「……そうですか。それは、よかったです」
本当はよそ様のものなので複雑だが、喜んでもらえたのなら悪い気はしない。
「それでだね、早速ゼンマイを巻いて聞いてみたのだけど、なんだか変な音がしてね。壊れているのかなと思って、中を覗いてみたんだ」
そう言って名士は懐からハンカチを取り出し、おもむろに開いた。いかにもお高そうなシルクのハンカチの上には、宝石の付いた指輪が。深い青色をした大粒の石に黄金のリング。小学生のあたしにはわからないけれど、安くはないはずだ。
「そうしたら指輪が見つかってね。これは君に返すよ」
「え!? いや、あの、困ります! そんなの!」
戸惑うしかないあたしの態度を不思議に思ったのか、名士に事情を尋ねられ、あたしはおずおずとことの経緯を説明した。そのオルゴールはある人のものだと。
「そうなのか。では、悪いけれど、その人に渡してもらっていいかな? もしかしたら困ってるかもしれないし」
「……わかりました」
「それじゃ、失礼するよ。娘を空港に連れて行かないといけないからね」
名士から指輪と連絡先を受け取ってリムジンを降りると、あたしは踵を返して校舎へと戻った。父親にではなく、エリのクラスにいるはずの娘さんのほうに指輪を渡そうと考えたのだ。
ところが、教室を覗いてみると新顔の姿はなかった。どうやらもう帰ってしまったらしい。仕方がないので先生から住所を聞いて家へと向かう羽目に。なんであたしが使いまわされなきゃいけないんだ……。
ぶつくさと不満を撒き散らしながら、教えられた住所に向かう。マンションの一室に真新しい表札が飾られていた。転入生の名字と同じ〈橘〉であることを確認して、インターホンを押す。すると、控えめにドアが開き、橘さんの白い顔が見えた。あたしの顔を見て、びっくりしたように軽く仰け反る。
「あ、えと、お父さんいますか?」
尋ねるも橘さんは何も言わず頭を引っ込めてしまった。しばらくして、昨日オルゴールを押し付けた張本人が代わりに出てきた。
「あの、実は……」
これこれこういうことがありました。事情を説明して指輪を差し出す。しかし、事情を理解してくれたにも関わらず、父親は指輪を受け取ってはくれなかった。彼が言うには、売ったからにはこの指輪も名士のものなので、自分が受け取るわけにはいかないのだという。
オルゴールを置かせて欲しいというやりとりで既にわかっていたが、この父親は頑なな性格をしていて――結局、その日はあたしが指輪を持って帰ることになってしまった。
それから家に帰り、約束通り爺さんに三味線を教えてもらうことになったのだが、あたしはずっと指輪のことについて考えていた。果たして、名士は指輪を受け取ってくれるのだろうか。それとも、名士も頑なに受け取ってくれないのだろうか。そうなってしまった場合、あたしは宙に浮いた指輪をどうすればいいのだろうか。明らかにあたしの能力を超えた問題に思えた。
あたしはよっぽど上の空だったのだろう。爺さんはお稽古を始めてから十分ほどで休憩を入れ、あたしに何があったのか尋ねてきた。後ろめたさがあったので、初めはシラをきろうとしたが――もしかしたら爺さんならなんとかしてくれるかもしれない――あたしは洗いざらいすべてを話し、爺さんに助言を請うた。
すると、爺さんは「井戸の茶碗じゃな」と小さく笑った。
「イドの茶碗? なにそれ?」
「なあに、こっちの話じゃ。さて、わしにいいアイデアがあるぞ」
「本当、爺さん? また適当なこと言ってない?」
「またとはなんじゃ、またとは。……よいか? まず、わしの知り合いにこういう高級品を集めてるやつがおるんじゃが、そいつに指輪を売ってしまおう」
「だ、ダメだろ! 勝手にそんなことしちゃ」
「まぁまぁ、最後まで話を聞け。その指輪を売った金を、オルゴールを買ってくれたお客さんと橘さんとで分けるんじゃ。こうすればみんな得をするじゃろう?」
したり顔で説明する爺さんにあたしはイマイチ納得出来なかった。他人のものを勝手に売っていいのだろうかと。あたしが言えたことじゃないけどさ。だが、他の方法を思いつかないのもまた事実。結局、爺さんの言うとおりにするしかなかった。
電話で事情を説明すると、名士はあたしの苦労を労い、爺さんの提案を快諾してくれた。一方、橘さんの父親については連絡先がわからず、そのこと爺さんに告げると、爺さんが明日一緒に家を訪ねてくれるということになった。
火曜日。
休み時間になり、あたしは隣のクラスの友人を訪ねた。
「なぁ、エリ。橘って子、どういう子?」
「橘さん……あ、新しくきた子か。んー、よくわかんない。ほら、結構大人しいから」
エリに言われ、様子を覗いてみる。確かに、橘さんは大人しく本を読んでいた。転入生であればもっとちやほやされていても不思議ではない。が、彼女の周りに人はいない。
不意に視線を上げた橘さんと目が合うが、彼女は慌てて視線を本に戻した。一体何をそんなにビクついているのだろう。気づけばあたしは一人で本を読む橘さんに近づいていた。彼女の目の前に立ってみると、あのバザーのときと同じ気持ちが甦る。長く美しい髪。自分と違って女の子らしく羨ましいと。
「……あのさ、橘、さん?」
あたしが声をかけると、橘さんはぎこちなく顔を上げた。
「今日もちょっと橘さんのお父さんに用事があるんだけど、お父さん家にいるかな?」
小さく頷く橘さん。
「じゃあ、また後でね」
こくりと頷く橘さん。結局、彼女は一言も発してくれなかった。思えば、あたしはまだ彼女の声を聞いたことがない。
用事を終え教室に戻ろうとすると、エリが驚いた顔をしてこちらを見ていた。
「ねぇねぇ! ひょっとして亜美ちゃん、橘さんと友達なの?」
「いや、ほとんど話したことない」
「だよねー」
同意するようにエリが頷いたところでチャイムが鳴った。教室に戻らないと。
思えば不思議な関係だった。まだ名前も聞いたことがないというのに、家を訪ねたことがある。名士や橘さんの父親のことで右往左往することは愉快ではなかったが、不思議なことに彼女への嫌悪感はなく、むしろ――
あの子、なんて名前なんだろう。
学校をから家に帰ると、昨日じいさんが言っていたであろう友人がやってきていた。大体爺さんと同じくらいの年齢だろうか。縁なしの眼鏡から覗く落ち着いた瞳は、鑑定士のような雰囲気があった。というか、実際にそういった知識があるようで、あの指輪を手にとってまじまじと観察すると、四十万円という値段をつけた。
「ちょっと孫と出てくるから、部屋でくつろいどいてくれ」
爺さんは指輪を友人に四十万円で売り、あたしと一緒に橘さんの家へと向かった。
その道中、
「ねぇ、じいさん。どうしてあの人を待たせておくの? 何か用事でもあるの?」
客人を待たせておくのはどうなの?と尋ねると、爺さんは穏やかに微笑んだ。
「んー、用事は特にないんじゃが……まぁ、強いて言えば念の為かのう」
「念の為?」
どういう意味なのかと顔を見上げるが、爺さんは優しい笑顔を浮かべたままで何も教えてはくれなかった。
橘さん家のインターホンを鳴らすと、出てきたのは橘さんではなく、妙に頑固な父親だった。招かれるまま部屋に入ると熱心に本を読む橘さんと目が合ったが、彼女は気恥ずかしそうに視線を逸らした。
昨日と同じく、指輪は受け取れないという父親の説得を試みたのは爺さんだった。
「まぁまぁ、そうおっしゃらずに。うちの孫娘も困ってしまいますからな。では、こういうのはどうじゃろうか。相手方とはもう話をしたんじゃが、わしの知り合いに指輪を買いたいという男がおってな。その売り上げをオルゴールを買ったお客さんと半々にするというのはどうじゃろう?」
「そんな、困ります。オルゴール売り上げ以外いただかない約束ですから」
「ふむ。ならこう考えるのはいかがかな? 今から渡すお金は指輪の売り上げではなくオルゴールの売り上げだと……オルゴールは娘さんのプレゼントになったらしくてのぅ、そりゃあ喜んでくれたらしい」
喰い下がる爺さんに、そこまで言うのならばと父親も渋々承諾。ところが、二十万円というお金を実際に見ると、こんな大金受け取れないと態度を改め、あたしに迷惑をかけたのだからそちらでお納めくださいと言ってきた。確かに、あたしが迷惑を被ったのは事実だが、別にお金が欲しくてやっていたわけではない。
「では、こうしてはどうかな? このお金と何か物を交換するというのは」
流石に爺さんは話が上手い。よどみないの流れで新しい選択肢を提供出来る。
そんな爺さんに父親も根負けしたのか、家の奥から薄汚れた磁器を持ってきて、二十万円と交換することになった。
ようやく終わったとゲンナリしながら家に帰る。すると、爺さんは早速家で待っていた友人にもらってきた磁器を鑑定させた。磁器を見るなり友人は顔面蒼白阿鼻叫喚。なんと、この磁器は中国の名のある人が作った代物で五百万円は下らないという。
爺さんの友人と一緒になってと慌てふためくあたしに、
「お前がしたいことをするんじゃ」
爺さんは珍しく真面目顔をして諭した。
あたしのしたいこと……? ……こんな高価なものをもらうなんて変だし、やっぱり橘さんの父親に返すべきだと思う。それに――
そのことを思い立ったときには、あたしはもう磁器を抱えて家を飛び出していた。
橘さん家のインターホンを叩き、事情を説明して磁器を返すと父親は感嘆の溜め息を漏らした。妙に頑なな印象のあった父親も、流石に受け取れないとは言わなかった。
「本当にお嬢ちゃんは正直でいい子だね。何かお礼をしないと。欲しいものはある? なんでも言っていいよ」
父親に希望を尋ねられると、あたしは橘さんのほうを見やった。先程から本を読む素振りを見せつつ、チラチラとこちらを見ていたことをあたしは知っている。あたしもずっと彼女のことを気にしていたから。
「あたしは亜美、寺田亜美。あなたの名前は?」
「え、えと、楓、です」
あたしが橘さんの前に立って自己紹介をすると、彼女はおどおどしながらも自分の名前を教えてくれた。楓、か。髪だけじゃなくて、声も可愛らしい響きをしていた。
「……あたしはね、あなたの友達になりたいんだ」
楓に向かって右手を差し出す。彼女はまるで虚を突かれたかのように一瞬だけ固まってしまったが、今にも泣き出しそうな満面の笑みを浮かべると、あたしの手をしっかりと握ってくれた。
「お嬢ちゃん。いつまでも楓と仲良くしてやってね?」
「わかってます。おじさんのものを手放して苦労するのはもうこりごりですから」
もうおつかいはごめんですとため息をつくあたしに、楓はクスクスと笑みをこぼすのだった。
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