第3話 ものは試し〈試し酒〉

 あなたは〈試し酒〉という話を知っているだろうか?

 ある大家の主人と近江屋という商人が家で酒を楽しんでいたときの話だ。近江屋はお供に久造という男を雇っており、近江屋いわくこいつが大の酒飲みということらしい。「いくら大酒飲みといっても五升は飲めないだろう」と主人は思ったが、近江屋は飲めると言い張った。お互い面子というものがあるのだろう。どちらも「飲めない!」「飲める!」と一歩も引かず、ついには久造を呼び出して実際に五升飲めるかどうか賭けをすることになった。

 呼び出された久造は、もし自分が飲めなければ近江屋は大金を失うと知ると、「ちょっと考えさせてくれ」と言って外に出て行ってしまった。これに主人は大喜び。飲めないので臆して逃げてしまったのだと思ったのだろう。

 ところが、久造はすぐに戻ってくるやいなや「飲みましょう」と言って、あれよあれよと五升もの酒を本当に飲み干してしまった。一升が大体二リットルだから、十リットル弱の酒を飲んだのだ。

 あまりに気っぷのよい飲みっぷりに驚きながら、主人が「大したもんだ。しかし、飲めるってんならさっきは一体どこに行ってたんだ?」と尋ねる。

 すると、久造は少し照れくさそうにこう言ったそうだ。「いやぁ、五升なんて量飲んだことないから表の酒屋で試してきたんだ」ってね。


 どうだろう? もしかしたら、この話は知らない人のほうが多いのかもしれない。寄席に行かない人には耳馴染みのない話だろう。

 元々は中国の笑い話だということらしく、日本で初めてこの話を落語として演じたのは明治時代のイギリス人落語家・初代快楽亭ブラックだと言われている。そう聞くと、随分国際色豊かな話に思えるもんだ。まぁ、どこの国でも思いつくようなありふれた笑い話っていうのが正体なんだろうけどね。

 さて、うんちくはこの辺にしておくとして。今の話を念頭に置いてちょっと聞いて欲しいことがある。




 それはある日の放課後のことだ。

 数学の補習で呼び出された楓を待つあたしの隣には、天然物の金髪美少女がいた。この色白で日本人離れしたルックスをした女の子はプリシラという。

 ついこの前に転校してきたプリシラは、これがまぁ絵に描いたようなお金持ちのお嬢様で。本来ならあたしみたいな下町の女と一緒にいることはないのだろうけど、ひょんなことから妙に懐かれてね。いつしか行動を共にすることが多くなっていた。ほら、誰だって慕われることに悪い気はしないだろう? あたしも海外生活の長い箱入りのお嬢様には色々と興味があったしさ。


「今日はどこに行くんですの?」


 椅子に座りながら尋ねるプリシラ。机に座るあたしとは育ちの違いが露骨にあった。よくもまぁそんなに背筋が真っ直ぐなるもんだ。


「今日はカラオケかな。ほら、前に言ってただろ? カラオケに行ってみたかったって」

「よろしいんですの?」

「別に構やしないよ。私も楓もカラオケ行くの嫌いじゃないしな」


 気にするなと目を細めるあたしにつられてか、プリシラも一瞬頬を緩めたが、何故かすぐに不安げなため息を漏らした。


「あの、お聞きするところによると……カラオケとは歌を歌う場所なのでしょう?」

「ああ。そうだけど?」

「私、上手く歌えますでしょうか?」


 不安そうに俯くプリシラを見て、思わず笑ってしまいそうになる。どちらかというと、プリシラは気の強いところのある女の子だ。わがままってほどではないけどね。育ちがいいせいか物腰は柔らかいし。が、それにしたってプリシラにこんな潮らしい一面があるとは夢にも思っていなかった。


「大丈夫、心配すんなって。カラオケなんて上手く歌うってより気持ちよく歌う場だからさ。最初は恥ずかしいかもしれないけど、ちっと練習すりゃあ気持ちのいいもんだ」

「そうですの……私頑張りますわ!」


 そう言ってプリシラが決意を表明すると、どこからともなく腹の虫が鳴った。それも二つも。間の抜けた音にふたりして笑ってしまう。どうやらお腹が鳴るのに育ちのよさは関係ないようだ。


「……腹が減ったな。コンビニでも行くか」

「そうですわね。楓さん、もう少しかかりそうですし」

「ところでプリシラは何か苦手な食べ物ってあるのか?」

「苦手な食べ物ですか?」

「あ、饅頭怖い的な回答はなしな」

「饅頭怖い? 何のことでしょう?」

「いやこっちの話。気にすんな」


 楓の〈饅頭怖い〉をモチーフにした面倒な話に付き合う羽目になったことがあったので、念の為に釘を刺したのだが……この様子だとその心配はなさそうだ。


「変な亜美さん……そうですわね、苦手な食べ物は特にございませんわ。幼少の頃から好き嫌いをしてはいけないときつく言われておりましたので」

「ほぅ、流石だな」

「亜美さんは何かございますか?」

「んー、私も特にないけど、あんまり熱いのは好きじゃないな。ほら、猫舌だからさ」

「あら、江戸っ子ですのに」

「いや猫舌かどうかと江戸っ子は関係ないんじゃねぇかな……」

「楓さんはどうでしょう?」

「楓は何でも食べる。あいつの食欲と胃袋は底なしだからな」

「そんなにすごいんですの?」

「そりゃあもう。コンビニの弁当だったら五つぐらいはペロリとたいらげちまう」


 あのときのことを思い出すと今でも催すものがある。そう、楓があたしのアルバイト先であるファミレスに来たときのことだ。

 〈寿限無〉めいた量の注文をすると、料理が来るのを待つ間にあろうことか駅前のハンバーガーショップで小腹を満たし、颯爽と帰ってきては注文の品を全て平らげるという離れ業を楓はやってみせたのだ。……あのときの光景を思い浮かべるだけで空腹が満たされていくような気がする。

 もっとも、プリシラが首を横に振って否定するのも無理のない話だろう。彼女が転校してきたのはその事件のあとなのだから。


「ありえませんわ! 五つだなんて、楓さんのあの小さな体に入るとは到底思えません」

「いや本当だって本当。確かにあいつは小せぇし細いけどさ。この間なんてファミレスで寿限無みたいな注文を全部食っちまったんだから」

「寿限無……? 何の話でしょう?」

「あん? 知らないかね? 寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末、食う寝る処に住む処、やぶら小路の藪柑子、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助ってぇのがあるのさ」

「ちょーきゅーめー……? 何をおっしゃっているのかまったく理解出来ません。……まさか、私を担ごうとしているのでは? そうはいきません」


 何やら話は変な方向へ。別に担ごうなんて気はなかったが、こうも頑なに否定されてしまうと気分が悪い。お腹が空いていたからというのもあるのだろう。一言で言うと、カチンときた。


「だから本当だって言ってんだろうが。信じられないからって他人を嘘つき呼ばわりするのはよくないぞ」

「信じられないものは信じられませんわ! だいたい、そんなに意地になるなんて怪しいにもほどがあります」

「意地になってんのはそっちだろ! ちっとは自分を疑うってことも覚えろよ!」

「なんですって!?」


 あたしもプリシラも完全に熱くなっていた。こんなことで喧嘩出来るのは仲のいい証拠なのかもしれないが、そんなありきたりな言葉で片付けられてしまうのは面白くない。言っちゃなんだけどあたしもプライドは高いほうだ。あたしから折れるつもりはないし、プリシラだってそうだろう。

 となれば――


「よしわかった! そこまで言うんなら実際に楓にやってもらおうじゃねぇか!」

「望むところですわ! 恨みっこなしですのよ?」


 ――こうなってしまうのも当然の流れだった。




 楓が教室へと戻ってきたのはそれから三十分後。その間にあたしとプリシラはコンビニに行って弁当を五つ買ってきた。道中から現在に至るまで、ふたりの間に会話らしい会話はなかった。完全に頭にきていたというのもあるし、本当はいい子だとわかってはいるので、悪口を言って傷つけたくはなかった。少なくともあたしは。


「お待たせ、あっちゃん、プリシィ。もうくたくただよぅ」


 教室に入ってくるなり、楓は大きく肩を落とした。どうやら疲れ切っているようで、あたしとプリシラの微妙な空気にはまだ気づいていないらしい。


「今日はずいぶん絞られたみたいだな」

「んー、授業ってより心得って感じだったけどね」

「心得?」

「えとね『公式を覚えたかどうかは実際に使ってみて確かめる』って言ってたよ」

「……まぁそうだろうな。つか、お前はそんなこともしてなかったのか?」

「私、勉強なんて教科書の丸暗記ぐらいしかやったことないよ? 出来たことないけど」

「胸を張って言うことか? 私ら来年受験だぞ……」


 あまりの脳天気さにあたしがため息をつくと、


「あっちゃん、これ何?」


 楓は机の上に置かれた白いビニール袋を指差した。あたしとプリシラの間に緊張が走る。


「コンビニの弁当。楓に食べてもらおうと思ってさ」

「本当!? 私お腹ペコペコだったんだ!……って、あれ? いちにぃさんよんご……五個もあるよ? 私とあっちゃん、プリシィ。三人しかいないのに」


 もう帰りのホームルームが終わってから大分経っているので、教室に残っているのはあたしたしたちだけ。人の数より弁当の数のほうが多かった。


「いや、私とプリシラは食べない。全部お前のだ」

「どういうこと?」


 珍しく真面目な顔をした楓にあたしはかくかくしかじかと経緯を語り、そして大事なことを確認した。


「で? 食えるよな五つくらい」


 というよりも、食べてもらわないとあたしが困る。食べられると何度も断言してしまった手前、もし無理だったら嘘つき呼ばわりされてしまう。それだけは勘弁だ。

 ファミレスであれだけ食べたのだから大丈夫に違いない。そんなあたしの予想に反し、楓は戸惑いの声をあげた。


「えー、そんなのわかんないよぅ。五つなんて食べたことないし」


 まさかの弱気な発言で勢いづくのはプリシラだ。


「ほら、私の言った通りです。まったく、私を担ごうだなんて一億年早いですわ」


 勝ち誇ったかのように鼻で笑う。状況は劣勢だが、ここで黙っているわけにはいかない。


「やってみなきゃわかんないだろ。食べたことがないって言っただけで、食べられないとは言ってない」

「あら、意外と往生際が悪いんですのね」

「なんだと!? プリシラのほうこそ本当はビビってるんだろ? もし食べちまったらどうしようって」

「失礼な!」

「そっちこそ!」


 プリシラのことを煽ってはみたものの、ぶっちゃけあたしのほうがビビっていた。そりゃそうだ。あんな弱気な発言をされちゃったら。けど、だからって素直にごめんなさい出来るほどあたしはまだ大人じゃない。

 意地になっているあたしたちは、さぁやってみろと何度も何度も楓のことを急かした。

 すると、唇に人差し指を押し当てて難しい顔をしていた楓は、


「あ! ちょっと待ってて」


 突然そう言って教室から出ていってしまったのだった。





 それからかれこれまた十分ほど経ったが、楓は帰って来なかった。いったい何を思いついたのかはわからないものの、こうなると形勢が悪いのはあたしだ。


「帰ってきませんわね、楓さん。きっと亜美さんのおっしゃることだから無碍に出来ず困り果ててしまったんですわ」


 プリシラの言葉にあたしは何も言い返せなかった。帰ってこないとなると、逃げたと思うのが自然だ。もし自分のせいで楓が帰って来れないのだとしたら。そう思うと少しだけ胸が痛む。

 ……楓には謝らないと。……その前にプリシラにも。

 自分の負けを認め、楓を探しに行こうと決意したそのときだった。妙に明るい顔をした楓が颯爽と教室に飛び込んできた。まさかの帰還にあたしたちは動揺を隠せない。


「楓!? どこ行ってたんだよ?」

「話は後だよあっちゃん。さっさと食べちゃわないとカラオケ行く時間なくなっちゃうよ」


 そう言うと楓はコンビニの袋から弁当を取り出し、黙々と弁当を食べ始めた。

 その食べっぷりは凄まじく、初めは気持ちよさそうに食べるなぁと感心していたあたしたちも次第に自分のお腹をさするようになり……。ああ、そうだった……。ファミレスに来たときも……あー、こっちが苦しくなってくる……。


「あー、美味しかった。ご馳走さまぁ」


 五つもの弁当を食べたにも関わらず、楓の表情は少しも苦しさを感じさせない。そのご機嫌な笑顔と空になった五つの容器を見て、あたしとプリシラは氷点下三度くらいまで冷静になっていた。


「……私の負けですわね。亜美さん、申し訳ございませんでした」

「え、あ、いや、こっちこそ変に意地になっちゃってごめん」


 素直に謝罪の言葉を述べるプリシラにあたしも頭を下げて謝り合う。……もし自分がプリシラの立場だったら謝ることが出来たのだろうか? そう思うととてもプリシラのことが大人に思え、そんな彼女と仲直り出来たことに少なくない喜びを感じた。

 あたしたちが喧嘩した理由が楓なら、仲直りさせてくれたのも楓だ。もしかしたら、あたしたちの微妙な空気に本当は気づいていたのかもしれない。大手柄を成し遂げた楓の頭をよしよしと撫でてやると、彼女は心底嬉しそうに白い歯を見せた。まったく、大したやつだよほんと。

 ……それにしても――


「それにしても、さっきまでどこに行ってたんだ? さては、何か秘密があるんだろ。食べられた秘密がさ」

「そうですわ。こんな小さな体であんなに食べるだなんて何か魔法でも使っているとしか思えませんわ」


 ――席を外してどこに行っていたのか。あたしたちが疑問をぶつけると、楓は恥ずかしそうに鼻の頭をかきながらこう言った。


「なんでもないよぅ。ただ、弁当五つなんて食べたことがないから、コンビニに行って本当に食べられるかどうか試してきたんだ。同じ弁当五つで」


 てぇことは、計十個かよ。おぇ……。

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