真の邪悪

 3月30日。


「やあ、遅れてすまない」


 仕事場の窓に、長いアッシュブロンドの髪を持った犬系女子アバターが表示される。


「なんだか盛り上がっているのが聞こえたよ。何の話をしていたんだい?」

「邪悪についてだよ、マリカお姉ちゃん」


 額縁に飾られた写真が答える。絵画に描かれた少年――しかし実際は犬アバターのチムラマリカよりも年上だという、シミズルイが。バーチャル会議において、ルイは3Dのアバターではなく紅茶をたしなんでいる自分の写真を窓に映すことを選んでいた。


「ケモプロが邪悪な企業になるかどうか? だってさ。ふふ」

「邪悪な企業? どういうことだい?」

「あァ、つまりな」


 ミタカが話を要約して伝えると、チムラは苦笑した。


「ライムちゃんだったっけ? 君はなかなか頭が回るようだけど、周りから悪い影響を受けていないか心配だよ」

「ムフ。これぐらい普通だよ普通。別に本気でやろうとは思ってないし……それに、真の邪悪は他にあるからね!」

「真の邪悪?」

「邪悪よりもっともっと稼げる方法だよ」


 俺が問うと、ライムは雲のように笑う。


「お兄さんは、人間の購買意欲を最も高めるものって何か知ってる?」

「……購買意欲……」


 買いたい、という気持ちか。


「……今までのものより高性能だとか、新機能がついているとか……そういうことの宣伝か?」

「それでみんな買ってくれるなら平和だよね。でも実際はそうならないよ。例えばお兄さん、今使ってるスマホは最新型じゃないよね? どうして新しいのにしないの?」

「機種変更するにも金がかかるし、手間もある……それに今のところ、性能に不満はない。もちろん、最新のものにすればより便利になるんだろうが……」

「つまり人間って、ある程度の不便は受け入れちゃうんだよね。現状に慣れちゃって、ちょっと苦労して変えなくてもいいやってなっちゃう。だから広報っていろんな手を使う必要があるんだよ。例えば、好意とか共感を利用したり?」

「いい手段だね」


 チムラは小さく頷く。


「好意を持つ人物からの提案には力がある。CMに有名人が起用されるのはそれだね。共感と言えば口コミかな? みんなが持っている、みんながいいと言っているから買おう……と、そんな感じの心理さ」

「これを悪用するのがステマだよ。自分が好意を感じている人が利益関係を無視して勧めてくれる商品……なんて、とっても強力な誘惑だよね!」


 ステマ。ステルスマーケティング。広告であることを隠した広報。


「EUとかアメリカでは法律で禁止されているぐらい、本当に強力な手法なんだよ」

「そういや最近ワンピースであったッスね。ステマとは思わなかったッス」

「なるほど、それが真の邪悪か」

「あ、違う違う」


 ライムは首を振る。


「ステマも確かに人の好意を悪用した、邪悪で強力な手法ではあるんだけど、まだその上があるんだよ」

「想像がつかないが……」

「ビジネスマンの仕事は『いらないものを売る』こと、って話があるよね。今必要ないもの、なくてもいいものを買わせること……最近、心当たりない? 必要ないものがたくさん売り上げられているって状況!」

「……トイレットペーパーとティッシュ、食料品か?」


 新型コロナウイルスの影響でマスクが品薄になっている状態で、次に騒がれたのがトイレットペーパーとティッシュだった。材料が同じだから品薄になる、とかいう話が出回った結果、買い占められて両者は姿を消した。……が、これはしばらくして平常な状態に戻った。品薄になる、という話はデマだったわけだ。

 次に起こったのが、東京がロックダウンされるという噂から起きた、スーパーの食料品買い占めだった。あれは辛かった……スーパーの売り場があんなにガラガラになるのは久しぶりに見た。


「買いこんでる人、見た?」

「見たな。すごい量をカートに載せてた」

「あれさ、必要だと思う?」

「今すぐ必要ではないだろう」


 人数にもよるが、あの量のトイレットペーパーを消費しきるのに何か月かかることか。食料品だって大半は冷凍保存になるはずだ。そもそもロックダウンが発令されたところで、スーパーは稼働すると聞いているし。


「つまり『今いらないものを売った』例だよね!」


 ライムは――笑わない。


「そういうことだよ、お兄さん。人間の購買意欲を最も高めるもの。それは、『不安』なんだ。トイレットペーパーが品薄になるんじゃないかという不安、外出禁止されて食料がなくなるんじゃないかという不安……」


 俺の目を見て言う。


「真の邪悪に至る第一歩は、『不安』を使うことなんだよ、お兄さん」

「不安……なるほど。安心したいから、金を使うのか」

「ん。まあ、買い溜めとかはそうだね。あれは半分娯楽みたいなところもあるし。ほら、ものすごい苦労ってわけじゃないけど、ちょっとした苦労で他の人よりアドバンテージを取ったって『安心』できるし、なにより行列には一緒に並んでくれているプレイヤーもたくさんいるでしょ?」


 なるほど。流行っている、プレイしている人がたくさんいるゲームは楽しい。苦労が報われるのも気持ちがいいものだ。


「ではそういう……不安を煽った人間が真の邪悪か。今回で言うと、そういうデマを流した人間が」

「ううん。まだまだ、だね。それはまだ真の邪悪じゃない。だって、トイレットペーパーも食料品も、役に立たないわけじゃないでしょ?」


 保存しておけばいずれ使う機会はあるし、他の人間に分け与えることもできるな。


「真の邪悪とは、『不安』を使って、『偽りの安心』を売りつけることだよ」

「偽りの安心……」

「新型コロナウイルスは熱に弱い、だからお湯を飲めば発症しない! ってデマが先月に流行ったよね。27度のお湯でウイルスが死ぬって。人間の体温って36度以上あるのにね?」

「論理的じゃないな」


 そもそも27度ってお湯なのか?


「でもその情報を信じて実践していた人はたくさんいた。まったく効果がないのに、それで『安心』を得ていた。これが偽りの安心だよ。これの邪悪なところはね……安心した人が、そこで思考停止してしまうことなんだよ」

「お湯を飲んでいるから大丈夫だと、他の対策をしなくなってしまうわけか」

「お湯はお金にならなかったけど、巷では『空間除菌』なんてもっともらしい言葉を使って、首に次亜塩素酸ナトリウムの入ったパッケージをぶらさげる商品を売っているよね。あれは密閉空間でしか検証してないし、普通に使っても効果はない。むしろウイルスに効果があるほどの濃度になれば人体に危険を及ぼすし、皮膚に接触すれば火傷もする物質なんだよ」


 消費者庁も効果がないって発表してるんだけどね、とライムは呟く。


「こういう一見科学的に見えて何の効果もない、それどころか放っておけば悪影響のあるもののことを、『ニセ科学』っていうんだ。そしてニセ科学によってお金を稼ぐのが『ニセ科学ビジネス』。人々の不安に入り込んで、偽りの安心を売りつける、真なる邪悪」


 ライムは冷えた声で言う。


「断言してもいいよ。今後新型コロナウイルスに効果がある、っていろんなニセ科学が言い出してくる。アイツらはそれを善意だと信じ込んでいるか、すべてを知っていて売りつけてくる、真なる邪悪なんだ」

「ふむ。そうだね、そして善意であっても、善意こそが問題になる。ニセ科学を信じてしまって、善意から人に勧めてしまったときこそ、受け手側は難しい」

「難しい……勧めを断るのがか? なぜだ?」


 チムラに問う。


「間違っているんだから断ればいいだろう」

「オオトリ君。人は善意を与えるとき、好意が返ってくるものだと期待しているものなのさ。そしてそれがかなわないと、裏切られたと思って怒る。それだけじゃなく、自分に好意を示してくれるニセ科学側により深く傾倒してしまうものなんだよ」

「それは……それなら、どうしたらいい?」

「さあ、それが分かっていたらニセ科学はすでに撲滅できているんだろうけどねえ……」


 しん、と作業場が静まり返る。誰もが難しい顔をしていた。


「ん、まあもっとも」


 ライムは肩をすくめる。


「今回の話に限って言えば、全世界的で、実際に被害がでる可能性が高くて、その被害が目に見える期間も短いから、よっぽどカルト的なところじゃないと手を出さないかもだけどね。効かないじゃないか! ってクレームが目立つと商売が成り立たないから」

「ふむ。そうだね、そういったものはすぐに被害が出てこない、目に見えない不安を利用するのが効率がいいだろうね」

「ほら、マリカお姉さんのお墨付きだよお兄さん。ケモプロも不安を使ってもっと稼いじゃおうか? ──新型コロナウイルスは収束の見込みがありませんよ、野球はケモプロがあるから文化が続きます、おたくのスポーツはどうしますか? って」

「……ああ、なるほど」


 合点がいった。


「色々話が持ち込まれると思ったら……そうか。不安だからか」

「ん? どういうことだい?」

「KeMPBに対して、他のスポーツ興行もできないのか、という問い合わせが増えているんだ。中には実際にリーグを運営するための見積もしてほしい、というような話も」

「それはそれは、景気のいい話だね」

「ふうん。どういうところから?」


 静かにしていたルイが問いかけてくる。


「いろいろだ。スポーツリーグの運営団体だったり、企業だったり……あとは、個人からも」

「個人?」

「資産家みたいなものだな。好きなスポーツが開催されなくなってしまったから、とか、スポーツの今後を考えて、とか、理由は様々だが」


 以前からいくつか打診は受けていた。それが今回の騒動で一気に増えた形だ。


「どいつもこいつも簡単に言ってくれるがよ、それぞれ課題はあンだからあまり期待されてもな」

「おや? ケモプロじゃすでに、オフの間に別のスポーツをやっているじゃないか?」

「本格的にはやってねェ。プロスポーツとして提供するならもっと精度をあげなきゃならねェが」


 ミタカは口をへの字にする。


「野球より球速が速い球技はフレームレートの向上が必要だし、ラグビーみたいな人体の接触が多発するようなスポーツは計算能力が必要になる。簡単にゃいかねェよ」

「へえ、野球のボールって速いと思っていたけど、それ以上のものがあるのかい?」

「バドミントンデスヨ。スマッシュの初速は400キロ越えデス!」

「まァバドは一気に減速すッけどな。あとはテニスとか卓球か」

「できなくはない、んだけど」


 従姉はぽそりとつぶやく。


「物理演算用のチップが出来上がるまでは、コスト的にちょっと」

「あとはケモノ世界でそのスポーツを提供したとして、野球ほど収益が上がるのかという問題もある」


 野球は日本で一番売り上げのあるスポーツだ。次がJリーグ、サッカーで、それ以外は一気に売り上げが10分の1ぐらいになるらしい。ケモノたちに、AIにやらせて果たして黒字になるのかの見極めは難しい。いや、日本だけじゃないからなんとかなるのか……?


「いやいや、それでも話が持ちかけられるということは期待されているということだろう? 未来のある話じゃないか。いやあ、KeMPBに養っ……雇ってもらえて本当によかったよ!」

「給料は出すけどよ、働いてなきゃ査定落とすかんな?」

「あっはっは、ま、まかせておいてくれたまえよ」

「ふふ。別に僕が養ってあげてもいいんだよ、マリカお姉ちゃん?」

「やめろ! 君の世話にだけは絶対にならんぞ!」


 チムラは腕をバッテンにして絵画のルイから距離を取る。


「君とは仕事だけの関係だからな! そ、そうだ、仕事の話をしよう! そのために来たんだから!」

「僕は時間があるから、いつまでも雑談してたって構わないよ」

「彼らっ、だ、代表君とかが忙しいだろう!」

「雑談する暇がないわけじゃないが」


 とはいえ脱線しすぎだな。


「せっかく二人に出席してもらったんだ。本題に入ろう」

「うんうん、任せてくれたまえよ」

「AIに言葉を教える、か。ふふ、ワクワクするね」


 チムラとルイが向き直る。


「確かにアスカの言う通り、AIと人間のように対話する下地ができているのはケモプロぐらいだろうね」

「こんな環境用意しようと思ってもできるものじゃないからね。いち言語マニアとしても関われて嬉しいよ。僕の作った言語を、AIが発展させていって、やがて本当の意味で独自の言語を使うようになるんだ。いやあ、楽しみだな」


 ルイの絵画がユラユラと楽しそうに揺れる。


「さてまずはAIたちの背景設定を固めないとね。言語、文化には歴史あり、だ。外来語をも考えるなら別の言語も必要だし、さて僕らの日本語や英語はどう関わってくるのか? うん、考えることはたくさんあるよ」

「そう、その話で呼んだわけなんだが──」


 盛り上がる二人には申し訳ないんだが……。


「少し方向転換をしたい。まずその話をさせてくれないか」

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