HERB

「これが……完全な電子書籍?」

「触ってみてくれ」


 手に取った感触は普通の文庫本のようだった。最初に出てきた本型コントローラーと似て、背中が硬く、表紙に薄いボタンがついている。中を開いてみると、中は白紙ではなく文章が書いてあるが――


「――途中から白紙で終わっているな」

「それじゃ、最初のページに戻って。開いたまま、そこの表紙についてるボタンを押してもらえるかな?」

「これか」


 ボタンを押す。すると――じわりと、本の中身が書き変わった。


「ハ? オイオイ……マジかよ」


 隣から覗き込んでいたミタカが横から手を出してページをめくる。冒頭の数十ページほど、白紙だった部分を除いてすべて内容が変わっていた。電子書籍リーダーのページ切り替えのように。


「これが完全なる電子書籍。プロジェクト名そのもの、仮称HERBだ。全ページがE-INK……電子インクで書き換え可能な電子ペーパーで作られた電子書籍リーダーさ。VR図書館やMRデバイスの現実版、っていったところかな?」

「電子ペーパーだったのか……普通の紙のように感じた」


 普通に曲がるから紙としてめくるのに支障はなかったし、触感も紙のようだった。


「全ページつったって、冒頭の……30ページぐらいみてェだが?」

「3Dプリンターのおかげで試作が楽になったとはいえ、さすがに電子ペーパーは無理だよ。新しく開発してようやく工場で仕上がったんだ」

「コイツ、一枚何ミリなんだ?」

「曲げられて、両面表示対応で、70マイクロメートル……0.07ミリさ」

「文庫本で使用される紙と同じサイズになります」


 ススムラが補足する。紙と同じ厚さの電子機器か……。


「やあ、紙っぽい手触りになるコーティングをしなければもっといけるだろうけど、重ねて使うからくっつきを防止するために必要でね。なに、世の中には0.01ミリでカラー対応なんてものもある。こっちはタッチ機能はないし、モノクロで、ページ数がたくさんあるから書き換えも低速でいい。両面にしたところで0.07ミリなら楽勝さ」

「……相変わらず、とんでもねェことを軽く言いやがって。これだから変態は」


 ミタカが呟くように言う。ミシェルはそれを無視して、本――HERBを手に説明を続けた。


「基本はさっきのMRデバイスと同じで、スマホで書き換え操作をする。ボタンはページ数が足りない時の切り替え用だ。ここをオミットすれば多少軽量化できるけど、いちいちページ数足りない時にスマホを操作するのも面倒だろう? いずれにしろ電力は必要だしね。製品版ではページ数は320にする予定だ。あとはさっきの本型コントローラーでも話した本棚型の充電スタンドだが、同様のものを用意する。置くと自動で設定していた本に書き変わるなんて機能もつけるよ」

「読み終わったら本棚に入れて、取り出すと……次の巻になっている、とか?」

「そんなイメージだね。インジケーター類は本棚側に搭載する。本棚のランプが点いたら完了、って具合さ……どうだい?」


 ミシェルはHERBをひらひらと動かして訊いてくる。


「これがきみに対する答えだ。今までの紙の本の完全上位互換。操作性はそのままに、何百冊読もうとスペースはたったの一冊分。防水性能もつけるから入浴中に水没させたって平気だよ」


 それは確実に読書シーンが増えることを意味する。


「完璧だ」

「イヤ待て」


 頷いたとたん、ミタカが横から割り込んできた。


「大事なことが残ってる。……値段だよ、値段。これ、一冊で――何万するんだ? 一番安い電書リーダーでも8000円とかそんなもんだぞ。それが、320ページだと?」


 言われてみれば。現行の電子書籍リーダーは1枚しかないと考えると……単純計算で約300倍の240万円? いや、電子ペーパー部分だけの値段じゃないから……。


「やあ、アスカはごまかせないな。まあ折り曲げできるから生産工程が多少楽にはなるし、それほどじゃあないよ。販売価格で50万円ぐらいかな?」

「ごじゅう……」


 一見ただの本にしか見えないこれHERBが、50万円。


「なに、売れて大量生産できるようになれば値下げできるさ。半額ぐらいにはなると思ってくれていい。あるいはバリエーションを増やす手もある。特に売れ行きが見込めそうなコミックスサイズなら、ページ数は200ページでいいだろう。これなら30万円ぐらいだ」

「半額になって15万か……」


 そこそこのスペックのノートPC並みの値段だ。けれど。


「それぐらいなら欲しい人はそれなりにいるだろう」

「だろう? 日本人はなんだかんだ、読書好きだからね。そこはぼくも楽観視して――」

「マテ。オレは納得しないぞ。大量生産には疑問が残る」


 ミシェルを遮って、ミタカが切り出す。


「あァ、いいアイディアだとも。認めるぜ。価格もまァ……好きなやつには売れんだろ。だがなまじ完璧に紙の本の上位互換だけに、弱点もある。……ひとりに二台目以降が売れるか、コレ?」

「む……」


 中身が入れ替え可能でスペースをとらない。ということは、二台目以降はよっぽどのケースでなければ不要だ。ひとりどころか、なんなら一家に一台になるかもしれない。


「ある程度のサイズ違いは買うかもしれねェが、同じサイズの二台目はねェな。値下げできる段階までいけるのか疑問だね」

「うんうん、らいむも賛成! このままじゃ少数のユーザーが買っておしまい、ってなりそう!」


 ミタカに同調してライムが声を上げて――ミタカはイヤそうな顔をする。


「あれ? アスカお姉さんどうかした?」

「オマエがオレに賛成すると、ろくでもないこと言い出しそうな気がしてな」

「ムフ。ひどいなあ」


 ライムは雲のように笑う。


「逆ザヤになってもいいから、最初から5万円ぐらいで売ったら? って言おうとしただけだよ!」


 ◇ ◇ ◇


「ご、ごまん……十分の一で!?」


 ススムラが悲鳴のような声をあげるが、ライムは涼しい顔で頷く。


「それでもスマホよりお高いじゃん。電子書籍を紙のようにめくって読める……それしかできない体験を、スマホ以上のお値段を出してする人、あんまりいないと思うな」

「で、でもそれだからって、5万円というのは……」

「できれば1万円ぐらいがいいな!」

「無茶を言わないでくれ」


 ミシェルが顔をしかめる。


「プロダクトの最終段階なら5万も……不可能じゃないと思うけど、いきなりは逆ザヤが過ぎる。売れば売るほど赤字だぞ」

「だからってそれ以上じゃ、いくらか売れたとしてもお金持ちの趣味で終わっちゃうよ。サダコお姉さんは出版業界を敵に回す覚悟なんでしょ? これが普及しなかったら死ぬってことで」

「エッ。あ、ま、まあ……はい、ソデスネ……少なくとも業界に居場所はないかと……」

「ならもっと攻めていかなきゃ。VRとMRは多少高くてもいいけど、これは安くなきゃだめだよ。50万? 文庫本約1000冊? 読書好きは1000冊より1つのデバイスを選ぶの?」

「うッ……」

「それに、さっきも言ったとおり5万円でも高いよ? だからさ――」


 ライムは自分のスマホを操作して、先ほどミシェルが示したVR図書館協力企業ロゴの一つを映す。海外に本社を持つECサイトの最大手。



「オマケ、つけよう? 電子書籍定額読み放題サービスの――永年無料権とか!」

「買った!」



 ミタカが大声で宣誓し――咳払いして座りなおす。


「あー……その、なんだ。それは買うわ。イヤ実現できたらだが。や、いいデバイスだと思うしそもそも欲しいけどよ」

「ムフ。無理なら初回のみの予約特典とか、そうだなあ、1年分とかでもいいよ。とにかく、そういうオマケがないとユーザーは動かないよって話。……そもそも、サダコお姉さんはその話もしたいんじゃない?」

「どういうことだ?」

「あのVR図書館の映像だよ。スゥ……コード!」


 尋ねると、ライムは手を伸ばして叫んだ。……今度は噴き出さなかったぞ。


「デモで獣野球伝が使われてたじゃん? あれでピンときたの。高価なデバイスを買わせるためのオマケに違いないよ」

「……なるほど」


 高価なデバイス。ただの入れ物としてだけで売ることは難しい。それを買ったらすぐに何かできる――あるいは、それでなければできない専用の何か。そういったものがあれば売りやすくなるだろう。たとえば、書籍版の獣野球伝はこれらプロジェクトHERBのデバイスでだけ読める、とするわけだ。


「VR図書館も、MRデバイスも、HERBも、らいむイイものだと思う。でも本気で取り組むなら――最初から黒字なんて甘いこと考えてちゃダメだよ。ごく普通のユーザーが買うことのできる価格で始めないと」

「読書好きの子供を増やしたい……というなら、そうだな」


 5万でも高いぐらいかもしれない。


「うん。だから……最低条件だよ。最初はクラウドファンディングとか使って資金調達するとか、そういうことしてもいい。けど販売価格は一般への普及を目指したものにする。そういう条件なら――KeMPBは、獣野球伝は、専売コンテンツとしての交渉の席につくよ!」

「う……ぅぅ」


 ススムラは唸り、冷や汗をかきながらミシェルに目をやる。ミシェルはというと、腕組みをしてライムを見つめていた。


「し、しかしですね……」

「らいむ、そんなに無茶なこと言ってる?」

「イヤ言ってんだろ」

「そう? でもさ、こことは本来、電子書籍リーダー同士で競合するはずじゃん?」


 ライムはロゴを指す。確かに電子書籍リーダーといえばここ、というイメージがあるな。


「なのに、プロジェクトに参加してくれてるんでしょ? なら読み放題はいけるんじゃない?」

「……あくまで、VR図書館について……電子書籍のストアとしての協力、です。ほかの物についてはプロジェクトHERBの中核だけが関わります」

「ふんふん。なるほど? じゃあ対抗として立つわけ? もしかして、独占状態になるのを避けたくてそうするの? 確かに日本の出版業界に一番影響力を持ってそうだもんね?」


 出版どころか物流のほとんどと言ってもいいだろうな。


「……そうです。日本のコンテンツが海外系の企業に独占されはじめている……いい流れじゃありません。対抗できる存在が必要で……」

「サダコお姉さんは、いったいどっちなのかな?」


 言葉を濁すススムラに、ライムは首を傾げて問いかける。


「プロジェクトHERBとしてお金を稼ぎたいの? それとも――読書文化を生き残らせたいの? VR図書館までは後者かなって思ったけど……HERBが出てきて、なんかブレたよね」


 確かに。VR図書館は出版業界を敵に回してでも読書文化を、ネットの時代に合わせたものにするという意志があったが、MRデバイスとHERBにはそれを感じない。特にHERBの50万という価格もミタカが文句を言わずに納得した以上、利益を度外視したものではないのだろう。


「そういうの困るんだよね。その点KeMPBはいいよ。お兄さんの意志が明確だから、やりやすいし、らいむ気に入ってるんだ」

「大したことはしてないぞ?」

「ぶう。褒めてるんだから、よその人の前では堂々としなよ。ま、とにかくさ。好事家に高いものを売って儲けを出したいなら、50万円でいいと思うよ。高級感を出せばもっと。でも半額になっても一般には普及しない、できるスピードじゃない。らいむはそう思うな」


 ススムラは――きゅっと唇を結んだ。机の上で握った手が、血の気を失っていく。


「しかし……原価的にも……」

「ライムはススムラ先生がどうしたいのか聞きたいんだろう。……俺も聞きたい」

「わた、しは……でも……プロジェクトの、リーダーだから……みんなのために、なるように……」

「サダコ」


 ミシェルが、その手を上からそっと握った。


「どうか自分に正直になってほしい。プロジェクトメンバーの立場は様々だが、最終的にサダコの熱意に参加を決めた者たちばかりだ。それが、そんな顔をして悩んでいるのは悲しい」

「ミシェルさん……」

「口は悪いし、話の仕方も無遠慮だが、彼女らの言ってることは的外れじゃない。ぼくも、そう思う。今はコストがかかりすぎる。ごく一部の人間にしか売れないだろうと考えていた。けれどきみがHERBを見て喜んで、絶賛してくれたから、世に出すことにも反対しなかった。……しかしね。サダコが悩むようだったら、今売らなくてもいいと思うんだ」

「ど、どういうことですか?」

「HERBの話題性によってVR図書館やMRデバイスも牽引されるだろうけど、HERBがなくてもその二つはやっていける。50万円で売ったところで莫大な利益が生まれるわけでもない。技術革新が進んで、もっと安価に作れるようになってからでもいいだろう」


 確かにMRデバイスはそれはそれで売れそうだし、むしろHERBとはやや競合するだろうしな。ズラして売るのもアリかもしれない。


「サダコが決めてくれ。それが本心からの、熱意のある答えなら、ぼくは従おう」

「わたしは――」


 ススムラは目を伏せて……そして、失った自信を取り戻した顔で言った。


「わたしは、売りたい。普及させたい。それも――可能な限り、安価で」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る