アンチと二軍のオープン戦
死ぬかもしれない。
3月3日。俺は敵性勢力に取り囲まれていた。
今はまだ味方だと認識されているが、うかつな言動をすればすぐに押しつぶされてしまうだろう。
俺は遠い目をしながら――三塁側スタンドでひとり、気配を消す努力をしていた。
ギュウギュウに詰めて座った一団があげる、こんな声を聞き流しながら。
「女のクセにDH志望とか何様のつもりだよ、オーイ!」
「客寄せパンダしかいない球団は大変だな、アアン!?」
「アイザワーッ! 打たれるなよ! 打たれたら引退しろ!」
「むしろぶつけろ! プロの厳しさを教えてやれ!」
「オオムラをノックアウトしたれや!」
「守備放棄女、ひっこめオラァン!」
「オラ、兄ちゃんも声出して追い込めや!」
「………」
――どうしてこうなった。
◇ ◇ ◇
プロ野球の1試合における平均観客動員数は約3万人。1万人を割る試合はここ数年、年に数度あるかどうかという人気を誇る。日本国内のプロスポーツでは、サッカーJリーグを大きく突き放した観客数だ。試合数も圧倒的で、日本での野球人気は疑いようもない。
――が、それは1軍の話だ。
2軍以下の試合の平均観客動員数は1000人程度。JリーグのJ2が約7000、J3が約2500――2軍ではなく別々のチームだし昇格・降格の仕組みがあるということを考えれば単純に比較していいものでもないが……それならばと国内の野球の独立リーグを見てみれば、こちらは1000人を切って久しい。
例外としてアマチュアに目を向ければ、実はプロ野球より歴史の長い東京六大学野球が平均8000人。2009年からのタイガフィーバーが巻き起こっていた間は平均1万人を越えていたことはあるが、ともかく――
NPB1軍以外のプロ野球人気は、それほど高くない。
そのため二軍の試合日程も平年どおり組まれていた。日本の東側の二軍チームで構成される、イースタン・リーグのオープン戦……春季教育リーグのその一戦も、ほとんどが立見席の収容人数3000人程度の球場で開かれようとしていた。
――カナが二軍に帯同すると報道されるまでは。
未だ、カナは一球団70名の支配下登録選手の中には入っていない。70名中28名の一軍、それ以外の二軍。そのさらに枠の外にいる――15名の育成選手のうちの一人だ。
それでも、育成選手は5名までなら二軍の試合に出場できる。そしてカナの球団の二軍監督は、カナを連れて行くと記者会見で答えた。新設された三軍ではなく、二軍だと。
問い合わせが殺到したという。
NPBは対応を迫られることになった。収容できない観客を追い返してひんしゅくを買うか、今からでも球場を変更するか。変更するとして、どの程度の球場にすればいいのか? 観客はどれだけ来る?
前例として挙げられたのは二例。タイガの六大学野球リーグ初登板の3万人。同年、独立リーグのプロを選んだ女子投手初登板の1万人。前者はもともと人気のある試合はそれぐらい集まることもあるため、タイガの影響は分からない。後者は年平均に比べ約20倍の集客だった。それでは――単純に20倍と計算して集客予想2万人?
入るわけがない。1万7000人の観客を追い返すわけにはいかない。
球場の変更に関係者は奔走した。だが期間も短く場所を大きく変更することもできないという事情があり、抑えられたのは収容人数9000人のスタジアム。
『会場は混雑が予想される。ネットで無料生中継するので、来場は控えてほしい』
そんなコメントまで飛び出す事態になった。
――……控えてくれ、と言われて控えるわけにもいかない。
久々に幼馴染から、いつものように試合の予定が送られてきたのだ。なんとしても入場して応援しなければ。
というわけで始発で移動し、試合開始6時間前に到着すれば余裕だろうと考えていたのだが。
甘かった――徹夜組がいた。
いなかったが、いた。
シート貼り、という文化らしい。地面に入場日付と名前を書いた紙をテープで貼り付けて、順番待ちの代わりにする。……これまでチケットを買って入場したことしかなかったので知らなかったが、今回のような入場無料の試合や、入場無料の席については前日からこのような列形成をするのだそうだ。
ただ、この球場ではそれに関する規定がなかった。話が急すぎたし、こんなに人が来ることも今までなかった。なので、シート貼りは熱心なファンの独断専行だった。これは有効なのか? と一部で騒ぎになっていたが――結局有効だと認められた。それ以上の騒ぎになるのを避けたのだろう。気持ちは分かる。
かくして無数に貼られたシートの後方に並び、試合開始時間が近づくにつれどんどん前方に人が並んでいくのをハラハラしながら見守った。
ようやく列が動いて入場が始まると、一気に人の流れが加速した。明らかに場慣れしていないであろう係員が制止の声を上げるが、止まらない。止められない。押されて流される。
押しつぶされながらなんとか息のできる方に向かって進んでいって――
――そして気づいたらアンチ・カナ集団の中にいた。カナの球団のベンチとは反対側、三塁側の内野後方。プラスチックの座席でもないただの硬いコンクリに、ギュウギュウになって座って。
後で調べたが、入場者のほとんどがカナ目当てだったため、一塁側も三塁側もなくどこもカナを応援する人たちで埋まっていたらしい。
つまり、俺が詰められた席だけが敵側応援席であり、周囲の空気を読まずヤジを飛ばしまくる集団がいたわけで。
「――どうしてこうなった」
心の声が漏れようとも言うものだった。
◇ ◇ ◇
電光掲示板にスターティングメンバーが表示されると、会場は静かに溜め息を吐いた。カナの名前がなかったからだ。交代での出場を待つしかない。
「オイオーイ! 出るって言って出ないのかよォ!」
「びびってんのかよアァーン!?」
「出すならはよ出せやボケェ!」
なお一番文句を垂れていたのは、俺の周辺の集団だった。なぜだ。
いよいよ試合が始まる時間になると、選手たちがフィールドに飛び出してきた。拍手と共に迎えられる選手たち――の中に、選手ではない小さなツインテールの姿がひとつ。
遠目でも分かる。ニシンだ。用具係だけでなく、試合ではボールガール……ファールボールなどを回収して主審に返す役目もすると言っていた。ペコリと観客に一礼し、飛び跳ねて手を振る。顔が向いている方向――一塁側スタンドに、見覚えのある制服の集団。棚田高校の女子野球部員かもしれない。応援に駆けつけたようだ。
ニシンは手を振りながらキョロキョロと辺りを見回し……ベンチに向かって首を振って肩をすくめると、ボールガールの仕事のため、ファールゾーンに走っていった。
……たぶん俺を探したんだと思うが、今は見つかりたくない。アンチ集団に囲まれているとか、誤解を受けるにもほどがあるだろう。
試合が始まる。俺の座っている三塁側のチームが先行。俺の周囲だけが盛り上がった。
「よっしゃ、先制したれや!」
「点差つけてオオムラが出やすいようにしてやれよ!」
「思い出代打バッチコイや!」
周りからは冷ややかな視線が寄せられるのだが、アンチ集団はまったく意に介していない。すさまじい神経の図太さだ。俺だけが胃が痛い。
アンチ集団の応援も空しく、一回表は無得点に終わり、一回裏、カナのチームの攻撃になる。
――と、アンチ集団が真っ先に気づいた。
「オイオイ! 何してるのかと思ったらボールガールかよオイ!」
「女子マネが欲しくて連れてきたのかよー!?」
「初仕事がバット拾いとか、どんな気持ちィー!?」
カナがグラウンドに出ている。ボールガールとして。
ファールグラウンドでボールを拾うだけでなく、ボールガールは打者がヒットを打って置いていったバットを回収する仕事もある。一軍ならアルバイト等がボールボーイ・ガールをやっているから選手がやる必要はないが、二軍では試合に出ていない選手がやることがあるらしい。
カナがボールガールをやっているのは、せめてものファンサービスなのか? それとも本当にただ雑用につれてきただけなのか? 真意は分からないが、とにかくアンチ集団には受けがよかった。ヤジが飛び、ゲラゲラと笑う。俺はとにかく地蔵になった。
カナの出番はなかなか訪れなかった。試合はどちらも序盤に一番手の投手が打たれまくり、三回終了までに6対5となっていた。ポンポン打球が飛ぶので、見ていて飽きない試合内容とも言える。けれど観客はそれで満足しない。カナの出番はまだか、そういう声がずっと聞こえる。
両チームとも投手交代してからは点の入らない展開に。そして五回からは小雨が降り始めた。用意のいい観客たちはレインコートを羽織る。傘を差すスペースなんてないからだ。ちなみにアンチ集団は全員レインコートを持参していて、俺だけ雨に濡れていた。……予報は曇りだったからな。
冷たい、寒い。……これがケモプロなら席なんて自由に選べるし、ヤジも聞かなくて済むし、寒い思いもしないというのに。
俺のほかにも雨に濡れた観客は多かったが、誰も席を立たなかった。スタジアムの中に引っ込めば雨は避けられるが、このギュウギュウの中で席を失うことはしたくないのだろう。そこまでひどい雨でもないし。
しかし、寒い――
「なんや兄ちゃん、震えてんのか? 寒いもんな!」
――アンチ集団が俺を認識して話しかけてきた。思わず固まる。……気づかれたらやられる。
「って、カッパないんかい!」
「誰か予備ない? ないかーっ! しゃーないな、ほれコレでも飲みな。あったまるで!」
「え」
グループで持ってきたのであろう大きな保温ボックスから、暖かいお茶のボトルを渡される。
「……あ……ありがとうございます」
突き返したほうが怪しまれる。俺は素直に受け取ることにした。
「いいってことよ! それより声出しな! こういうのは初めが肝心やからな!」
「ガーンとわからせたらないとな! 現実を!」
お茶を飲むのに忙しいですというポーズでごまかすことにした。
……が、急な水分摂取と体温変化、寒さのせいで尿意を催してきた。そういえばずいぶん長い間トイレには行っていない。意識したとたんレッドゾーンだ。行かねば。この集団に席は奪われてしまうかもしれないが……いや、もしかしたら別の空席が見つかるかも……。
「お、なんやトイレか!?」
「よっしゃ、兄ちゃんの席は確保しといたるからな、安心しぃ!」
……トイレを済ませ、嫌な予感と共にスタジアムに戻る。
「おお! 兄ちゃんトイレ終わったか!? こっちやで!」
「こっちの攻撃や! 一緒にかましたろやないかい!」
逃げられなかった。そのうえ、多くの観客がこのやり取りを見ていて……どうしてこうなった?
◇ ◇ ◇
相変わらず俺は居心地が悪いが、カナのチームも観客から不満が向けられていた。
点の入らない展開。雨。未だ出場しないカナ。アンチ集団だけでなく、そこかしこから「オオムラはまだか」「オオムラを出せ!」「オオムラを見に来たんだぞ!」という声が上がるようになっていた。
それに耐えかねたのか、それとも当初の予定通りか。
雨の上がった六回裏。6対5。ツーアウトランナーなし。五番。まだ当たりのない指名打者の打順。
俺が気づくよりも先に、ウオオオオ、とスタジアムが揺れる。電光掲示板に表示される、『H 大村』。カナがヘルメットをかぶりバットを持って打席に向かう。歓声と拍手と――
「ようやく出てきたかメガネェ!」
「ウメザワ! バットへし折ったれやぁ!」
「ぶつけろ! オレが許す!」
「勲章引っさげて今年こそ一軍や!」
ヤジ。俺は気配を消した。……幸い、カナは右打者だ。こちらには背を向けてバッターボックスに入る。俺に気づいた様子はなかった。真っ直ぐに投手と向き合う。
初球。ボールカウントがひとつ増える。第二球。見逃してストライク。
第三球――バットが動く。カンッ! 歓声が上がり――すぐに溜め息へ。ライト方向にファール。1ボール2ストライク。ニシンが鮮やかに捕球していた。
その後、数度のファールがあって最後は大きくボールが逸れて……フォアボール。まばらな拍手と共に、カナは一塁に向かった。ニシンが親指を立てるが、カナは気づいていないのか応答を返さず塁につく。
「なんやなんや! 粘っただけかーいっ!」
「ご自慢の十割はどこいったんや、蕎麦かて!」
「ウメザワ、次はど真ん中放ったれ! めいっぱい投げりゃ打たれんぞ!」
……アンチだけが何も変わらずにヤジを飛ばす。この人たち、一貫してこのテンションなの逆にすごいな。
六回裏、ツーアウト一塁。けれど後が続かず六番が三振に倒れ、カナは残塁したままベンチに戻っていった。
七回。双方共に三者凡退。八回も同じく。九回表。あわや追加点……という場面があったが、なんとか無得点のまましのいで、九回裏、6対5。
先頭バッターの四番が二塁打を放ち、ノーアウト二塁。五番、指名打者――カナ。歓声が上がる。六回から投げ続ける相手投手は――継投。二度目の対戦。
「ウメザワァ! JKの一人ぐらい抑えてみせろやぁ!」
「逃げるなよ! 真っ直ぐで三振とってしまえ!」
アンチも騒ぐが観客も声援を送る。一打同点のチャンス。試合は最高潮を迎えて――
――勢いを失った。第10球。ファール。ツーボールツーストライク。前回の打席と同じ展開に、観客はささやきだす。またフォアボールなのか? どうしてオオムラは打たない? やっぱり女子は無理なのか?
第11球。ガキッ! ファール。打球はバックネットを揺らす。
「オイオイオーイ! いい加減前に飛ばして見せろや! フェアゾーン分かってるー!?」
「ウメザワも何付き合っとるんや! 遊んでないでバシッと決めたれ!」
「メガネ、度が合ってないんと違うか!?」
「ビビッてないでど真ん中投げんかーい!」
元気なのはアンチ集団だけだった。相手ピッチャー……ウメザワがギロリとこちらを睨む。
「なんやガン飛ばしてんのか! 文句言えた立場か!」
「相手は向こう、しかもJKやないかい! 目ェ逸らすな!」
「男なら三振とれや! 三振!」
見るからに不機嫌になったウメザワは、ガツガツと足元を蹴ってセットポジションに入り、ぐわッとこれまでにない大きなステップで踏み込み――
悲鳴が上がる。
「ボール!」
主審のコールが聞こえる。顔面すれすれに飛び込んできたボールを、尻餅をついてかわしたカナに、悲鳴をあげた観客たちがホッと安堵の息を吐き出す。スリーボールツーストライク。フルカウント。
立ち上がったカナは、主審にタイムを申し出た。ユニフォームについた泥を払い、バッターボックスに戻る……と、何やら主審に指摘されて、またバッターボックスから出てきた。こちらを向いてメガネを外し、メガネ拭きを取り出す。どうやらメガネにも泥が跳ねていたらしい。
「かーッ! タイム長いわーッ!」
「メガネじゃなくてコンタクトにすりゃええやん!」
「そもそもスポーツマンが視力ないってなあ!」
「デッドボール貰ったほうがよかったんちゃうの!」
メガネを拭き終わり、顔にかけて――
目が合った。
ワイワイとヤジを飛ばすアンチ集団の中にいる俺を――おさげの、プロ野球選手になった幼馴染は、確実に見つけた。
カナは……まじまじとこちらを見た後、くるりと背を向けてバッターボックスに――向かう途中で、崩れるように座り込んだ。バットを支えにしてうつむいて、誰からもその顔は見えない。
ただ、小さく肩が揺れているのが分かるだけ。
「え……ウソ、あれ泣いてない?」
「ぽいよな……アイツらがひどいこというから……」
「ていうかビーンボールのせいじゃないの? かわいそ……」
ざわざわとスタジアムに動揺が走る。誰もがどうしたらいいのか分からず困惑して――
「……ッく……」
ざわめきの波が――引いていく。
「……ふッ……く……ぷはッ! はははッ! あはははははは!」
静まり返ったスタジアムに――カナの爆笑が響き渡った。
「あははっ! あはっ! ッひ、ぃひっ! くっ、ふっ……ふふッ……ははははは!」
再びスタジアムには観客のざわめきが満ちていった。急に爆笑し始めた女子高生プロ野球選手の、その笑いの理由が分からなくて。
「ハァ~……」
やがてカナは笑うのをやめ、大きく息を吐き、バッターボックスに向かっていった。主審と捕手、投手に頭を下げてから、バッターボックスに入って構える。
俺の方からはその背中しか見えないが――きっと、いい笑顔をしているのだとわかった。
「プレイ!」
主審が試合再開を告げ、第13球――
快音と共に、打球はライトスタンドへ吸い込まれた。逆転サヨナラツーラン。6対7、試合終了。この日一番の歓声が、スタジアム中から上がった。……そう、スタジアム中から。
「なんや、やるやん!」
「JKのくせして豪快なスイングやんけ!」
「それでいいんだよ、それで!」
「いい度胸してるでしかし!」
アンチ集団もカナを祝福し、周囲と一緒になって拍手をしていた。白い目を向けられても、何も気にすることなく。
……アンチ……なのか? ……ただの野球好き? ……いや……なんなんだろうな……?
◇ ◇ ◇
【オープン戦完投勝利! 天間大地プロ鮮烈デビュー!】 スポーツ仙人掌
――……先発登板した天間選手は、東北勢初の甲子園優勝を成し遂げた怪腕。甲子園全試合完投勝利をなしとげた投球術とスタミナは、プロの試合でも通用した。初回先頭打者に本塁打を浴びるものの、その後は危なげなく投球を続け結果は9回1失点。九回裏には自ら監督に志願し、DHを解除してバッターとなった。ノーアウトランナー一塁の場面から見事長打を放ってランナーを返し同点に追いつくと、最後は犠牲フライから自身でホームベースを踏んで勝負を決めた。二刀流を目指すと公言するが、有限実行でアピールしてみせた形だ。
なお、同期の大村も二軍の試合で途中出場し、粘った末に決勝点のホームランを放った。一軍の天間、二軍の大村。二人の期待の新星を抱える球団に、今後も目が離せない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます