武蔵野市の女
インターホンのチャイムを鳴らす。
――返事はない。
「返事がないんだが」
『た、た、大変だよ!』
スマホから慌てる従姉の声が返ってくる。
「開けて入っていいのか?」
『そうして!』
ドアノブを回すと――回った。ドアが開く。
「留守じゃないみたいだな」
殺風景な玄関を抜け、部屋の奥へ。何か物音がする――部屋のドアを開ける。
果たして、そこには目的の人物がいた。
『アスカちゃん、無事!?』
だといいんだが。
自宅アパートの一室で、ミタカは――奇怪なゴーグルを被って地面に倒れ、盛大に吐瀉物をぶちまけていた。
◇ ◇ ◇
ライムが社員になった翌日。
俺は従姉に、ミタカと連絡が取れなくなったから様子を見て欲しい、と頼まれた。なんでも、あらゆるチャンネルで応答がないらしい。
そうしてやってきてみれば、想像以上にひどい有様だった。
ゴーグルを外し、顔を横にして寝かせて、口の中から吐瀉物を指で掻き出す。
呼吸は――ある。ならしばらくすれば起きるだろう。とりあえず、掃除をするか。
適当に洗面所を漁り、バケツと雑巾を取り出す。まずは服からか。このまま脱がせると被害が広がりそうだしな。服が終わったから床を――とやっている間に、ミタカが目を覚ました。
「ア? あれ、オマエ……」
「意識はしっかりしているな? 鍵が開けっ放しだったぞ。あと、着替えたほうがいい。俺は外に出ていようか」
「お……オウ」
外で待つこと十数分。ミタカは髪が濡れたままドアを開けた。シャワーを使ったのだろう。なかなか被害範囲が広かったからな。
「まァ……入れよ」
「わかった」
改めて部屋の中に入る。消臭剤のにおいがした。
部屋の中はパソコンの他はこれといって物がなく、多少ある家財道具もパソコンから遠ざけるようにまとめて置かれていた。
「ツグ姉が心配していたぞ。いったい何があったんだ? とりあえず、無事だとは伝えたが……」
「アァ……アレだよ」
ミタカが指したのは、あの奇妙なゴーグルだった。
「VRのヘッドセットだよ」
「ああ、あれが」
VR。バーチャルリアリティ。一昔前は3DCGだけでもそう呼んだりしていた、仮想現実という意味。今ではもっぱら、ヘッドセットを被って立体視できるゲームをそう呼んでいる気がする。
「それで、あれがどうしたんだ」
「だから、あれを被って……こうなった」
なるほどわからん。
「くわしく」
「だぁら……その。とにかく、昨日、VRに対応する話をしたろ?」
「ああ。確か、VRでなら出展できるんだったな」
ミタカの人脈のおかげだった。勤めていたゲーム会社のツテで知った話だが、VRのゲームを集めて出展するブースで、予定していた数のゲームがそろわなかったらしい。なんでもいいからVRの、できればまだ公に世に出ていない企画はないか――そういう話が流れていたのだ。
当初、ミタカは聞き流していた。ケモプロがVRに対応する予定はなかったからだ。だが、TGSの審査に落ち、ライムに挑発されたことで――思い出した。
「観客席をVR対応にするぐらいだったらすぐできるしな。デモレベルでいいっつってたから、昨日その日のうちに話をつけた。で、秋葉に行ってこいつを買ってきた」
「よく見るやつとは形が違うな」
「PSVRは抽選販売がなかなか当たらねェんだよ……こいつは日本に販売店があるやつだから当日でも手に入ったわけだ。ともかく、セットアップして、コード書いて……できたから試してた」
「寝ずにか」
「そういやもう朝か……」
ミタカは肩をコキコキと鳴らす。
「まァ、寝てなかったのも悪かったんだろーな。まず観客席で試したんだが、なかなかうまくいったぜ。かなり臨場感があった」
「売りになるだろうか」
「VR好きにはいいんじゃねェか? サマーレッスンほど、このために買いたいって感じにゃならねェと思うが。まァとにかくだ。うまくいったから、次は選手の視点をハックしてみた」
「選手の……見ているものが見える?」
「そうだ。バッターボックスに立つと、飛んでくる球がなかなか迫力だったぜ」
「それはいいな」
プロ野球選手と同じ体験ができる、というのは売りになるだろう。現実世界では絶対にできない体験だ。
「だろ? だからしばらく見てて――こうなった」
「なぜ」
「――酔ったんだよ」
ミタカは口を尖らせて言う。
「VRが乗り物酔いするってのは知ってた。だから気をつけてたんだが、観客席にいたときは全然平気だったかんな。テンション上がって油断して、選手の視点をハックしてたら――酔った。思ったのとは違う動きをするし、走ると上下に揺れるし――ヤベェ、と思ったときには足がふらふらして、ヘッドセット外そうと思ってもうまくいかなくて、で、倒れた……」
「そうか……」
選手の視点をそのまま使うのは、思わぬ動きをして危険ということだな。
「しかし、選手の視点で野球を体験できるのはいいアイディアだと思う。観客席のとき酔わなかったのは、動かなかったからか?」
「え? あ、アァ、そーだと思う。席に座って、せいぜい首を動かすぐらいだし、それはモーショントラッキングで自分の動きと連動してっからな」
「なら、バッターボックスで固定の視点を提供するのはどうだろう。打者は透明にして、バットだけ見えているような感じだ」
「アァ、それならいいと思う……」
「売りになるな。さっそく、ライムにページを作ってもらおうか」
バッターだけでなく、各守備位置の視点もいいかもしれない。プレーを参考にする、という観点では、まさに必要とされるものじゃないだろうか?
「あー、その……」
考え込んでいると、ミタカが声をかけてきた。声をかけたくせに、横を向いているが。
「……一応、礼は言っとく。その、あんがとな」
「いや、当然のことをしたまでだ。ああ、ツグ姉にはちゃんと謝った方がいいぞ、心配していた」
「わかった……」
それに従姉が何も言わなければ、助けに来ることもできなかったからな。
「――なァ。オマエって、誰にでもこんななのか?」
「というと?」
「イヤ――イヤ、忘れてくれ。なんでもない」
ミタカは深く息を吐く。それから口を開かないので、そういえば長居しすぎたなと今さらながらに気づいた。
「それじゃ、俺は出て行くことにするよ。ミタカさんは少し寝たほうがいいぞ」
「……でいい」
「うん?」
「だァら!」
ミタカはこちらを向いて、なぜか顔を赤くしながら言った。
「今後は呼び捨てでいい、っつったんだよ! それでこの件はチャラだ、チャラ!」
「なるほど、わかった」
俺は頷いた。
「ではな、アスカ」
「苗字で呼べぇっ!」
殴られた。痛い。
「……わかった。ではな、ミタカ」
「アァ……さっさと行け」
俺は玄関へ行き、外に出て――そういえば気になっていたので聞いてみた。
「そういえば苗字はミタカなのに、吉祥寺住みなんだな」
「行けよォ!」
ドガン、と閉めたドアに何かが当たる音がした。
◇ ◇ ◇
八月も後半。メンバーはそれぞれ忙しく動いている。
クラウドファンディングはやや停滞していた。ベータテスト開始を9月1日と決めてあり、クラウドファンディングの終了は九月の中ごろになるので、ベータテスト開始時にまた動きがあるだろう、とミタカは見込んでいる。
……俺としては、少しその見通しに疑問を感じている。
少し前から実際のクラウドファンディングがどんなものなのか確かめるため、いくつか小規模なプロジェクトに投資しているのだが、残り期間が少ないのに50%を超えないものはどれも後半になって駆け込み需要が起きるようなことはなく、そのまま潰れていた。
ミタカいわく、そういうのは広報戦略が悪いとか言っていたが――今のところ妙案があるわけでもなく、推移を見守るにとどまっている。
ちなみに現時点で、オーナー権への申し込みはない。
いや、正確にはあったのだ――海外から。しかし海外を拠点にしてしまうと現実世界でのキャンペーンが行いづらくなる。申し訳ないが丁重にお断りし、オーナー権の購入は日本を本拠地とする企業のみ、と但し書きを加えた。
その代わりと言ってはなんだが、多言語対応を行うことになった。従姉いわく最初からできるように準備していたものの、需要があるか分からなかったとの事。英語、それからオーナーに申し込んできた企業に協力してもらって、その現地語。そしてもうひとつ。
「フゥ~。台数が増えると大変デスネ」
ニャニアンの母国語にも対応する。国として野球はマイナーだそうだが、いちおうアジア選手権にも出場したことがあるらしい。
そのニャニアンと共に、今日はデータセンターのサーバールームに来ている。ついに、サーバを引越しするときが来たのだ。
「いやぁ……このラック、もうしばらく使えると思ってたんデスケドネ。急に案件が入ったとかで」
「タダで貸してもらえてただけでもありがたいよ」
都内のデータセンターのラックという高価な物件を、「余っていたから」という理由でゴミ置き場にしていたのを掃除して使わせてもらっていた。それがついに、立ち退きを要求されたというわけだ。
もとより、いずれは移動しなければいけないのはわかっていたこと。今日は引越しのため、ニャニアンと作業を進めている。
「まッ、ベータテスト前でよかったデスヨ。新しいラックも回線も無事契約できマシタシ。これがサービス中だったら、時間との勝負デスカラネー」
「ミタカからは急かされているけどな」
例の左利き問題だった。なんとか目安はついたものの、まだまだ右利きに比べると精度が落ちるらしい。山は越えたからもう少し時間をかければよくなる、ということでとにかくサーバを稼動させたいとのこと。
「フフ。聞きマシタヨ、アスカサンとチョット打ち解けたそうデスネ?」
「そうか? 特に最近、態度を変えたことはないが」
「オヤオヤ。これはアスカサンの勘違いデスカネ……いや、ダイヒョーがエェト……アタマオカシイ?」
なんでだ。
「とにかく、サクサク行きマショウ。デモ焦らずに。落としたらコトデスカラネ」
「わかった」
各種ケーブルを取り外し、固定ねじを緩め、サーバを一台一台引き抜いて、台車の上へ。レールと呼ばれる金属部品はまとめて養生テープでぐるぐる巻いて。あっという間に、二台の台車が満載になった。
「サーバがスベスベしているから、このまま動かすと落ちそうだな」
「こういう時は、固定バンドを使うのデスヨ」
ニャニアンがすばやくバンドを台車に取り付け、荷物を引き締める。
「縦方向だけでいいのか?」
「充分デスヨ。台車を横に動かすことはないデスシ。こう見えて結構しっかりしているんデスヨ~」
そう言ってニャニアンは台車を押し出して。
――ズルッ……
バシン。と。ニャニアンは平手でサーバを叩いて、崩れ始めたサーバを止める。
「アッハッハ。チョット緩かったみたいデスネ」
「……台車、ひとつずつ運ぶか? 俺が押すから、ニャニアンは補助で」
「そうしマショウカ……」
サーバールームと駐車場を二往復する。
「さてと、じゃあ車にサーバを載せマスヨ」
「ニャニアンの車か?」
「まさか。レンタルデスヨ」
後部座席がすべて荷台になっていた。そこにサーバを積んで、バンドで固定。扉を閉める。
「さー、まだまだ山場はありマスヨ。がんばりマショウ!」
「免許持ってたんだな」
「都心を運転するのは怖いデスケドネー……事故るときは即死でいきたいものデス」
「ああ……怪我で入院するのはつらいだろうな」
「イヤ……サーバが壊れてたらイヤなので……対応したくないので……」
そうか。
「でも、TGSまでは死ねマセンカラネ! 楽しみにしててクダサイ!」
「うん?」
「シュッパーツ!」
結局、ニャニアンの言葉の引っ掛かりを問う暇はなかった。
あの地獄のドライブの最中にできるやつがいたら、人間じゃない。
あと――将来免許をとっても、絶対に首都高を走らないことを心に決めた。
◇ ◇ ◇
「こんちゃーっす!」
別の日。アパートにライムが訪れてきた。この間とは違う格好をしている。……これもセクはらなんだろうか? とてもそうは見えないが。
「あ、ええと……あの、あなたがらいむちゃん?」
「はい、らいむでっす。お姉さんは――contuguuさん?」
「うん、そうだよ」
ライムはしげしげと従姉を上から下まで見つめた。
「お姉さん、セクはらだね」
「ふぇっ」
「……そうだったのか」
「そ、その、部屋着はね……」
「もー、みんなセクはら着て外に出ればいいのに」
「その発言はいろいろどうかと思うが、中に入ってくれ」
ライムを招きいれ、机を囲んで座る。
「それで今日はどうしたんだ?」
「お兄さんに直談判しにきたんだよ! ここで話すのが恒例なんでしょ?」
「そういうわけではないが……それに、いつもここにいるわけじゃないぞ」
「知ってるよ。スケジュールぐらい確認して来るって。ってゆーか、お兄さん多忙すぎない? ほとんどバイトとか外出で埋まってるんだけど」
「そうか?」
ちなみに今日もこの後はバイトだ。貧乏だから仕方がない。
「それで、直談判というのは?」
「うんうん。あのね、もうそろそろベータテストでしょ?」
ベータテスト。ゲームが本当の意味で外部の人間の目に触れる日だ。
「それ、オープンベータにしない?」
正式サービス、オープン戦の開始は11月。それまではチーム数も決まっていない。なので草野球という体で仮のチームを組んで試合をすることになっていた。二ヶ月間の四チームリーグ戦だ。
そして、それが見れるのはクラウドファンディングで投資した人だけ。いわゆる、「クローズドベータ」という形を取っている。まあ、投資さえすれば見れるので、半分オープンのようなものだ。
だが、それをあえてオープンにしよう、ということは。
「無料で見れるようにしよう、ということか」
「そういうこと!」
ライムは雲のように笑う。
「今ならそんなに反感買わないと思うんだよね! 最低ランクの投資って、ベータ参加権と正式開始後の課金アイテムでしょ? で、課金アイテムって投資額と同じじゃん? だったらオープンでいいよね! その方が宣伝になるよ!」
「言わんとすることはわかるが、ダメだ」
俺はライムに説明する。
まず設備的に準備ができていなくて、今からでは間に合わないこと。想定以上のユーザが来た場合、ネットワークの帯域かサーバの能力のどちらかが足りなくなって止まる可能性がある。人数の読めるクローズドベータでまずは様子を見たい、というのがニャニアンの意見だ。
それから、ユーザーの意見を聞きたい、というのがもう一点。お金を払ってまで見に来る熱心なユーザーからは、有益な意見が見込める――というのがミタカの意見。
「俺はそれらの意見のほうに賛成する」
「……ふぅ~ん。なんだ、流されやすいのかなって思ったけど、そうじゃないんだ。うん、いいよ、らいむも無理だと思うし、オープンにするのはやめよ?」
何か品定めされていたようだな。そろそろこういう扱いにも慣れてきた気がする。
「でも、お金を払わないからって取り込めそうな人たちを取りこぼすのは、らいむ、損だと思うんだ」
「少し見てから投資するかどうか決めたい、という層も確かにいるだろうな」
むしろ今の段階で投資してくれている人たちは、あの少ない情報から可能性を汲み取っている稀有な人たちとも言える。
「うん、だからさ、一部公開しようよ」
「一部?」
「ムフ。そうそう、あのね……」
ライムはニコニコしながら計画を話した。
その全容を聞いて、俺は頷く。
「――なるほど。そういうことなら、俺に心当たりがある」
「ホント? さっすがお兄さん! 頼りになるぅ!」
ぴょん、とライムが飛び掛ってくる。軽いのでなんとか受け止められた。
「あっ、あぅ……」
「………」
従姉が何か口をパクパクしているのを、ライムはじっと見ている。
「どうかしたか?」
「うーん? 今はいいや! じゃーね、らいむ、これから遊びにいくんだ!」
そう言って、ライムは飛び出していった。
本当に名前の通り、嵐のようなやつだな……。
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