タイガ選手と冬の川
コンビニの入り口から、悪鬼のような女が声を上げた瞬間──
タイガ選手は、脱兎の勢いで駆け出した。コンビニの外へ向かって。
「逃がすかッ!」
「ッ……!」
ドアを悪鬼が両手を広げてブロックし──しかし、タイガ選手は素早くその脇をすり抜ける。
そのままの勢いで通りに飛び出し、その場を離れようとして──
「あッ」
転んだ。盛大に。顔面から。
「あぁッ」
そしてその手に抱えていた財布が、小銭を撒きながら飛んでいき──橋の欄干の陰に姿を消す。
「いかん」
「ふぇ……、あ、コラ! ちょっと!」
コンビニを出たすぐ先は橋になっている。その下は川だ。間違いなく、財布は橋からその下への落下コースを取っていた。
レジから飛び出し、タイガ選手が覗き込んでいる隣から、川を見下ろす。水量の多くない川だ、前日に雨もないから、干上がっている岸のほうに落ちてさえいれば。
「財布は!?」
暗くてよく分からん。黄色い財布だったから、目立つはずなんだが──
「ぁ……ぁそ……」
青ざめたタイガ選手の顔、震えて指差す先。財布は──浮いて流されていた。
それを確認して、俺は駆け出した。川へ下りる階段を駆け下り、コンビニ支給の上着を脱ぎ捨てて、なるべく下流から水に踏み込む。
「はあ!? アンタなにやってんの!?」
十二月の水温は刺すように冷たかったが、それより大事がある。無視して足を進めた。
この先、川は俺の身長ほどの段差を迎えて流れ落ちる。さらに人の入れないトンネルへと流れていくから──今ここで拾えなければおしまいだ。
意外と流れが速く、また中央に行くにしたがって深くなるためこちらの歩みは遅くなり──だが、取った。帰りは慎重に、すべって転んだりしないよう、ゆっくりと岸へ。
「アンタ馬鹿!? 何してんのよ!?」
「何って、見てわからんのか」
「わかるけど!」
岸まで来ていたナゲノが、理不尽に怒る。わかるなら怒る必要もないだろうに。
俺は水を滴らせながら階段を上がって、橋からこちらを見ていたタイガ選手の元へ戻った。悪鬼──のようだった女性も一緒だ。
「ほら、財布だ」
拾ってきた財布を差し出す。
「ぎっちり詰まってるから、大丈夫だと思うが──いちおう、カード類の紛失がないか確認してくれ。しかし、びっくりした。高級な財布は浮くんだな……沈めば底をさらうだけでよかったんだが」
「ぁ……ぅ……」
「ああ、紙幣の方は乾いてからのほうがいいんじゃないか? 銀行に行けば交換してくれるし、そう焦ることはないだろう」
タイガ選手は──動かない。いや、受け取ってくれないと困るんだが。
「っと──ありがとう、お礼を言うわ」
とかやってるうちに、悪鬼だった女性が隣から出てきて手を伸ばしてきた。
いやいや、お前のじゃないだろう。俺は手を引っ込める。
「あぁ……違うのよ。私はこの子の親戚で、マネージャー兼トレーナーなの。ね、タイガ?」
「……ぅ、うん」
そうなのか。それにしては鬼のような形相だったが。
「ジムを抜け出してコンビニに行くから、ちょっと怒っただけで……それがこんなことになるなんて。あなたも、巻き込んでしまってごめんなさい。ほら、タイガ、お礼を言わなきゃ」
「うん……ぁ……がとう」
タイガ選手はやっと財布を受け取った。
「そ……だッ! ……うぶ?」
「ああ、大丈夫だ」
「いやいや大丈夫じゃないでしょ、アンタ胸まで濡れてるわよ」
ナゲノが後ろで何か言っている。俺の背中に隠れるようにして言うぐらいなら前に出たらどうなんだ。
「そうよ! 君、ひどい格好じゃない。この気温でそんな──」
鬼が指摘する。まあ、寒い。財布を渡したことだし、さっさとバックヤードに戻って服を替え──
「ついてきて! そのままじゃ風邪ひくわよ!」
「いや、俺はまだバイトが」
「いいから!」
気付いたら腕を掴まれていた。鬼は──見た目によらず、ものすごい腕力だった。抵抗もむなしく、俺は引っ張られるがままに移動する。ビルに入り、例の会員専用の受付を通り、エレベーターの中へと。
すまん、ナゲノ。──あとのシフトは頼んだぞ。
◇ ◇ ◇
高級スポーツジムすげえ。
風呂から上がってポカポカした体で案内図を見ながら、俺は唸った。
まず風呂があったのも驚きなのだが……プールはあるしサウナはあるし、エステや託児所なんかもある。しかもプロテインの自販機まである。コンビニで売ってるのより少し高かったが。
岩盤浴なんてものもある──が入り口まで行ったところ別料金だった。
仕方なくラウンジへと戻る。さて、風呂に入れてくれたり着替えを用意してくれたことについて、鬼に礼を言わなければ。しかしいつのまに用意したのやら。ロッカーの中身が急に新品の服になってて驚いた。メッセージカードがなければ別人のロッカーを開けたんだと勘違いするところだったぞ。
「ぁ……」
「ああ、タイガ選手」
ラウンジに入ると、ヌッとタイガ選手が立ち上がった。鬼の姿はない。
どうしたものかと思案していると、タイガ選手は頭を下げた。
「ぁの……ぁ、………ぅ」
「いや、何度も礼を言われるほどのことでもないだろう」
と言っても頭を上げてくれないので、向かいの椅子に座ることにする。それでようやくタイガ選手も席に座りなおした。
「おに……マネージャーの人は?」
ラウンジで待つように言われているのだが、その本人がいない。さすがに何も言わずに帰るのは失礼だろう。
タイガ選手はしばらく──だいぶ長い時間かけて。
「ぁッ……たを、探しに……」
と答えてくれた。なるほど、ウロウロ見回っている間にすれ違いになってしまったか。
「しばらくしたら戻ってくるかな?」
「……たぶん」
「じゃあ、ここで待つことにしよう」
こっちが動いたらまたすれ違ってしまうかもしれないしな。
しかし──これが本当にあのタイガ選手なのだろうか。従姉以上にオドオドしている女の子にしか見えないのだが。時間もあることだ、黙っているのもなんだし、いろいろ訊いてみるか。
「ところでタイガ選手」
「ぁ……はい」
「予告新人王は残念だったな」
「ぅ」
入団会見で、タイガ選手は新人王を獲ると宣言したのだ。入団当時はそれはもうボッコボコに叩かれた報道をされていたものだが──しばらくして騒がれなくなり、対象年度の新人王が発表された時も小さく触れられるだけに留まった。
「何の成績が足りなかったんだ?」
ニシンもカナも大活躍だと言っていた記憶しかない。今日ナゲノが言っていたように、成績が悪いわけではないのだ。だとすれば何がいけなかったのだろう?
「……れは」
タイガ選手はこちらを睨みつけて言う。
「新人王は……記者の投票だから……成績では、選ばれない……」
「そうだったのか」
知らなかった。てっきり新人の間で成績の比べあいをして選ばれているものだと思ったが。
とはいえ、野手と投手でなにをどう比べればいいのか、というのもあるな。なるほど。投票だったのか……。
「というか……れは」
「うん?」
「……ぁれは……」
もごもご、と口を動かして声になっていない。が、まあまだ睨んできているし、何か言いたいことがあるのだろう。こっちは待ち時間の暇つぶしなのだし、急かすことはない。待っていよう。
「………あれは、予告した……ッけじゃなくて……」
うん?
「しッ……新人なので、とにかく一試合でも多く出て、やるべきことをやるだけです、……ッて、言おうと、しただけ……」
「いやいや」
いやいや。
「何度かテレビで会見の様子を見たけど、そんなに長いセリフじゃなかったぞ」
『新人王獲ってやります』と字幕つきで流れていたんだが。
「ほッ……ほんとに……そ……ッて。なのに……勝手に……」
「──そうか。確かに、タイガ選手の声は少し聞き取りづらい時があるからな。本人が言うなら、そうなんだろう。悪質な聞き間違いをされたものだな」
あの当時、女性初の快挙を祝うと同時に、プロ野球に女性が入り込むことに否定的な連中の声も大きかった。今は小さくなってきたが、なくなったわけではない。
つまり、作られた『予告新人王』は嫌がらせだった可能性があるわけか。
──いや、このしゃべり方だと本気で間違えられた可能性も大きいが。
「……にらんでも、いないし……」
「いないのか」
今、めちゃくちゃにらまれてる気がするんだが。
「観察……してるだけ……」
「なるほど」
観察だったのか。それなら仕方ないな。
「なら、予告フォーク事件は?」
タイガ選手が一年目の時のことだ。先に球界入りしていた高校時代の後輩との対決で、フォークの握りを見せる挑発をし、その上でフォークを投げずに三振に切ってとった。えげつない、とか、卑怯、とか、いろいろ言われている。
まあえげつなかっただろう。さんざんサインに首を振った上でフォークを投げないのだから、そりゃあ、えげつない。
「あれは……久しぶりに会ったから、挨拶……」
あの程度ご挨拶だ、だと……?
「……ピースを……」
「なぜボールを握ったまました」
「……みんな見てるから……こっそり、隠せるかなッ……と」
恥ずかしがりか。
「どうして……フォークのサインばっかり出るのか……あの時は不思議で……」
しかもキャッチャーはやらせてやろうとしたのか、予告フォーク。傍から見るとフォークを投げたいタイガ選手に対し、キャッチャーが馬鹿言うなと別のサインを出しているようにしか見えなかったのだが。
「そうか……なら仕方ないな、うん」
勝負だし、結局は打てなかったほうが悪いのだ。
「じゃあ、いわゆるタイガースマイルも、獲物を前にして舌なめずりしているわけではなく」
「う……ぅん」
「……嬉しいだけとか?」
タイガ選手は──頷く。
「ッこがれの……選手とか……緊張する。……でも、……嬉しくて……顔が、にやけて」
顔を赤くして、大きな両手でそれを隠す。
そうか、にやけていたのか、アレ。悪魔かと思うような笑い方なんだが。
「憧れの選手ならしょうがないな」
しかし、だいぶタイガ選手のしゃべり方にも慣れてきた。人間の音の聞こえ方は認識によるところも大きいらしい。慣れればわりと普通じゃないか。
「あの……」
「うん?」
「えっと、……お礼を──」
「ああッ! いた、やっと見つけたわ!」
背後から大声が上がる。振り向くと、鬼──タイガ選手のマネージャーがいた。
「もう、どこにいたのよ……」
「すまない、物珍しくて見てまわっていた。だが、ちゃんとラウンジに帰ってきたぞ」
「遅くて探しに行っちゃったわよ。……まぁ、今日はこちらが文句を言う立場にないけど」
マネージャーはため息を吐く。
「今日は──アルバイトだって言ってたわね。時間、大丈夫だったかしら?」
「ちょうど終わる時間だったから、気にしないでくれ」
正確には風呂に入っている間に終わった。いい風呂だった。風呂のためにジムに入会したい。高くて無理だが。
「そう。じゃあ今日はしっかり休んでね。風邪をひかれたらこちらの寝覚めが悪いし……あと、後日改めて御礼をしたいんだけど、連絡先を聞いてもいい?」
「構わない──んだが、スマホはコンビニのロッカーの中だ」
「番号やメアドぐらい暗記──はしないか、最近の子は。じゃあ、これ」
マネージャーは名刺を渡してくる。黒葛泳子。
「およこ」
「小学生かッ! エイコよ、エーコ。落ち着いたら連絡してちょうだい」
「わかった」
こちらとしても替えの服を買ってもらった礼はしなくてはいけないしな、すぐ連絡しておこう。
「では、エーコも、タイガ選手も、風呂をおごってくれてありがとう。それでは」
「う……うん。またね」
タイガ選手が──タイガースマイルで見送ってくれる。
うん、背筋がぞっとするな。対峙したバッターもさぞプレッシャーだろう。足まで震えてきた。ささっと出て行くに限る。
──そしてその日の夜──俺は、風邪をひいた。
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