第9話(part1)「ちょっとこれ見て可愛い!」「この盆栽の方が可愛いですよ」
井戸端会議。それは近所付き合いを生きがいとしている、いや、否が応にも近所付き合いをしなければならない主婦にとっては避けられないものである。
マンションのほかの住人の悪口は当たり前、ありもしない噂話を楽しそうに話す姿、そんなことを知っていることにどんどんと酔いしれていき、泥沼にはまっていく井戸端会議。
そんな試練のような雑談がアンを待ち受けているとは、この時誰も知る由もなかった。
「そんな話なのか?」
「何を言っているのよ急に」
「いや、久しぶりすぎて頭がおかしくなっているんじゃないかと思ってな」
「それって私のこと?」
「いや、そんなことはない。というかそんなことはアンの前では口が裂けても言えないだろう」
「そう、私の前では、ね」
「……まあ、独り言だ。気にしないでくれ」
空はまだ太陽が顔を出したばかり、暖かい心地よい日差しが二人が向かい合わせで座っているリビングを明るく照らしている。
珍しく朝同じタイミングで自室から出てきた二人はなぜか二人してどこか疲れた様子が見受けられた。
「アン、昨日は寝てないのか?」
「ええ、充電も忘れて盆栽をいじっていたわ」
「まさかそれを徹夜で?」
「そうよ? よくあることじゃない」
「そんな徹夜の仕方は初めて聞いたけどな」
最近アンの趣味への没頭の仕方が異常だ。それははたから見れば目の前の問題から逃げているようにも見えなくはなかった。
いや、それはこの実験に参加している当事者だからこそそう思ってしまうのかもしれない。
ここのところ、毎日同じことの繰り返しで何か感情にも日常にも変化があるようには思えないのだ。
「リクも疲れたような感じがするけれど?」
「そうだな、俺も昨日は簡易充電しかできていないな」
「今日は大学でしょう? 大丈夫なの」
「今日はずっとデスクワークのはずだし、大丈夫だろう」
アンは軽くため息をつきながら立ち上がると、キッチンへと入っていく。その動作もどことなく気だるげに見えるのは気のせいだろうか。
何か作るのだろうか。
食べることが全く必要のないアンドロイドだが、それに似たようなことはすることができる。
人間に近づくためとグルメを装っているアンドロイドもいるが、今まで暮らしてきてアンにはそんな趣向はなかったはずだ。
「試しに聞いてみるけれど、一体何をしていたの?」
アンがそう尋ねながら、キッチンから出てくるとその手には二つのティーカップが握られていた。そこからほんのりとコーヒーの匂いが漂ってくる。
アンはいつもの定位置に腰かけると、リクが座っている目の前にコーヒーが注がれているティーカップを静かに置いた。
リクはそれに対し軽く会釈をして答える。今となってはその一連の行動も当たり前となっていた。
「ちょっと最近腹のあたりの調子がおかしかったからメンテナンスしていたら、意外と面白くて」
「ああ大体の想像はついたわ。それ以上は言わなくていいし、もう聞くこともないわ」
アンは静かにそう言い放つと、目を閉じながらゆっくりとコーヒーをすすった。
リクはそんなアンの反応を見て少し残念そうな表情をのぞかせながら、同じようにコーヒーをすする。
口の中に広がるほのかな苦みと香りで、そんなことは全くないはずなのに目がさえるような錯覚に襲われる。
「今日もうまいな」
「インスタントだけどね」
「そうだな」
「そこでもっと良い返し方をしたほうが、好感度あがるんじゃないのかしら?」
アンは少し不満げにそういいながら、またコーヒーを飲む。
「そうか? もし今そういううまい返しができたとして俺に対するアンの好感度は上がったのか?」
「そんなことはないでしょうね」
「だろうな」
「あくまで一般的な話よ」
「アンに効果がないならやっても意味がないな」
「そういうことをサラッといえてしまうところが腹立たしいわね」
リクはそんなアンの返答に首を傾げながら、カップに残っていたコーヒーを一気に飲み干す。
「ご馳走様。さてと……」
リクはすっと立ち上がると、少しの間自室に戻り服を着替えリュックを背負うと、リビングに戻った。
そんなリクの姿を見てアンはリビングに設置されている壁時計に目をやる。
「あら、もうそんな時間なのね」
「ああ、今日は早く帰れると思うが博士がまた何か突拍子もないことを言わないとも限らないしな」
「きっと言い出すわよ。あの人はそういう人よ」
「……そうだな。まあ、行ってくるよ」
リクは苦笑いを浮かべながらいつもより重く感じる足を一歩踏み出した。
「いってらっしゃい」
その言葉に思わずリクは動き出していた足を止めた。
「……ああ」
「なによ」
「いや、新鮮だなと思って」
「朝に二人同時にここにいることが少ないからでしょう」
「それもそうだな。行ってきます」
「ええ」
リクは少し軽くなった足を再び動かし、外へと出た。
アンはそんなリクを見送りながらまだ半分以上も残っているコーヒーをゆっくりと飲んでいた。
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