第5話 3

「じいさん、どうやって入ってきたんだ? ここは関係者以外立ち入り禁止だよ」

 見知らぬ若者がそうぬかした瞬間、雪村の血管は音を立てて切れていた。

 若者にヘッドロックを決め、そのまま細い通路を一気に抜ける。技を解除して若者の後頭部をわしづかみ、疾走の勢いを利用して容赦ないフェイスクラッシャーに移行。もしも重力が1Gだったら、殺人罪で逮捕は確実な一発だった。実際には雪村は宙を飛び、ガレージの壁に激突して落下していた。

「何だ? テロリストか?」

「もしやどこかのチームの嫌がらせか!」

「いや違う! この前のレースで風祭に賭けていたギャンブラーに違いない。腹いせに邪魔しに来たんだ」

「貴様らーっ!」

 互いに不幸だったのは、村雨ら古参のスタッフが〈テンペスト〉の問題を解決するため、工房に出向していたことだった。予備パーツを組み上げて、そちらでも同様の問題が発生するか実験する段取りになっていたのだ。

 アルフレッドが雪村の顔を思い出した頃には三分以上が経過し、五人以上のスタッフ――全て虚弱なプログラム班だった――がマットに沈んでいた。響が現場に到着したのはさらに二分後。電話連絡があったにもかかわらず、響は、暴れている老人が誰だか、すぐには判別できなかった。

 そのくらい、雪村の姿は変わっていた。

 きっちりと刈り上げていたごま塩頭は伸び放題で、雨の中に捨てられた雑種犬のように乱れていた。ひび割れだらけの革靴に膝の出たスラックス。よれよれのシャツのボタンはいくつかが無くなっており、襟元のシミは、多分――酒だ。

 どこからどう見ても、末期のギャンブル中毒者だった。

「雪村、さん?」

「おのれしょんべん娘ッ! 貴様のせいでッ!」

 響の姿を認めるなり、雪村はつかみかかってきた。驚いた響は足をもつれさせ、自分の踵に引っかかってよろける。酒臭い息が迫ってくる。

「ひっ!」

 響の脳裏に三面記事が浮かんだ。美人監督、前任者に殺害される。

 その時、横合いから突風が吹いた。

 恐る恐る目を開けた響の前に、パイロットスーツの足が見えた。

「……大丈夫ですか?」

「慧一くん……」

 シミュレータに接続していたのだろう。パイロットスーツを着込んだ慧一の肩口から、ちぎれたハーネスがぶら下がっていた。

「小僧……」

 雪村がふらめきながら立ち上がる。

「すいません。雪村さんも大丈夫ですか?」

「忘れているようだな小僧。ワシが貴様を採用してやったのだぞ。蹴る前に謝らんかッ」

 ろれつははっきりしていたが、言っていることに今ひとつ筋が通っていない。酔っているのは間違いなさそうだ。

 慧一は新旧の監督を交互に見た。言葉を探しあぐねている、そんな様子だった。

「雪村、さん」

 ようやく、響はそう言った。

「どうしてこんなことを……」

「貴様らがワシのチームを乗っ取ったからだッ」

 雪村が宣言すると、ガレージにはどこか白けたような雰囲気が生まれた。

 いまさら出てきてその物言いか。

 この数ヶ月の俺たちの苦労も知らないで、飲んだくれて暴れて、まだ自分のチームだと言い張るか――言葉にすればそのようなものだ。

「傲慢だわ」

 響を助け起こした徹子が言った。

「あなたは、なぜあなただけが最呼集されなかったか、全く理解できないのですか? 自分のチーム、自分のスタッフ、自分の機体、自分のパイロット。そう主張するばかりで、義務を果たさなかったからですよ。来島氏の脱税に絡んで、あなたは、一人の友人と五十人のスタッフを秤にかけ、友人を取った。そうでしょう? そんな人間に新しいチームを任せることなど、とうていできません」

「一時的なことだろうがッ」

 徹子は冷笑を浮かべた。

「いっときの過ちだった、などという言い訳が許されるのは、未婚のカップルの間だけです」

 冗談だったのかも知れない。しかし、笑うものはいなかった。

「御堂さん、言い過ぎよ」

 響としては、雪村に穏便に帰ってもらいたかった。もめ事が外に漏れ、チームに波及すると厄介なことになる。

 しかし御堂は容赦しなかった。

「信頼は一度失えば十分です。お引き取り下さい。ここにはあなたの居場所などありません。あなたに支払う人件費もありません。不当解雇で訴えたければご自由に。私は弁護士資格もありますので」

「……金の亡者が何を偉そうに」

 雪村は立ち上がり、慧一に蹴られた肩をさすった。

「貴様らにレースの何がわかる。お前も、お前も! あの南雲の小倅も! どうせ考えているのは広告収入と協賛金のことばかりだろうが! そんな連中が……ワシは……ワシは三十年もレースに関わってきたんだぞ。この業界のことなら誰よりも知っている。お前らでは三年も続かない。すぐに撤退するに決まっている」

 後半はほとんど嗚咽だった。

 また暴れ出すのではないかと備えていた慧一が構えを解く。

 響はスーツの埃を払った。

 徹子は相変わらず、ゴミを見る目をしていた。

「三十年もやってきてこれか。カッコ悪いねぇ」

 声に振り向くと、場違いにのんびりとした様子の竜之介が立っていた。その後ろにはアンジェラと、村雨ら古参スタッフの姿もある。連絡を受けて全員で戻ってきたのだ。

「監督」

 と、声。しかしその呼びかけは、響に向けたものではなかった。竜之介の背後から、プログラム班の酒井ハーレイが進み出た。

「どうしちゃったんですか? こんなことをしてもチームのためにならないって、よくご存じでしょう」

「知った風に言うな、若造」

「わかりますよ! 一緒にスポンサーに頭下げて回ったじゃないですか。雪村監督はあの時、本気でチームのことを心配していた。自分のチームだって言うんなら、もうこんなことやめて下さい」

「お前もか……」

 もう歳なんだから良い機会だ。引き際があるでしょう、と誰もが言いよる。その通りなのだろうとワシも思った。だがなぁ。こればっかりやって生きてきたんだ。いっそレース中に死ねたらとも思ったが。ままならんなぁ。

 その独白はか細く、ほとんど誰の耳にも届かなかった。

 けれど、不思議と最後だけは、誰の耳にも届いていた。

「……ワシだって、まだレースがしたいんだよ……」

 そして、雪村の側に立っていた慧一の耳には、全てが聞こえていた。

 これは自分の身に降りかかったかもしれないことだと、慧一は感じた。

 目指すべきものに気付かないまま辞めてしまったなら、中途半端なまま、断ち切ることも取り戻すこともできなくなってしまう。

 それがどれだけ大事なものだったのか、失ってから気付くのは、あまりにも哀しい。

「オーナー」

 何とかしてあげられないか。そう思った。

 慧一の気持ちが伝わったわけではないだろうが、竜之介は腕組みして首をひねった。

「よし、ではGDで勝負だ」

「は?」

 唐突な提案にあっけにとられる一同の前に出て、竜之介が人差し指を立てた。

「どっちの監督が優秀か判断するんだ。レースが一番だろう? 実戦は無理だからシミュレータで一本勝負。風祭君はそっちに貸してあげよう。どうだ?」

 老人は涙をぬぐって立ち上がった。

「ふん。面白い。受けて立とう」

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