第4話 6

 秘密の工場で聞こえるのはエアコンのうなりと、アンジェラが身じろぎする衣擦れの音。

 ――君は恵まれているのだよ。

 自分を認めてくれる相手がいて、事故は起こしても怪我はなく、応援してくれるファンがいる。パイロットとして、これ以上望めない環境にいる。

 竜之介の言いたかったことは、多分そういうことだ。

「……アンジェラ」

 慧一は初めて、整備班長を名前で呼んだ。

「はい」

「一つだけ、聞きたいんだけど」

「はい」

 慧一は真新しい機体を見上げ、それからアンジェラを見た。

「どうしてレースに参加する気に?」

 レースというよりは、「どうしてGDに関わる気になったのか」が聞きたかった。

 一流大卒の、前途洋々な――国家的プロジェクトに関わってもよさそうな成績を収めていたアンジェラが、何を好きこのんで、賭博業界に足を突っ込む気になったのか。

 どうして競争がしたいのか。

「そんなの簡単ですよ」

 だって、とアンジェラは慧一の目をのぞき込んだ。

「勝てば楽しいじゃないですか」

「そ、」

 そんな簡単なことか?

 そんなはずがない。

 そう思うのだが、否定の言葉が一つも出てこない。

 勝てば楽しい。負ければ悔しい。

 単純であるがゆえに、反論が難しかった。

 いや、慧一は気付いていた。

 それが競争の「真理」だ、と。

 人が競い合うのは、相手より優位に立ちたいからでも、生存のためでもなく、まして、他人を蹴落とすためでもない。

 競技ゲームというものは、双方の合意があって行われるのだ。後腐れもなければ周辺事情も無い。あるのは挑戦と結果だけ。

 そして、結果が勝ちであればうれしい。

 それ以外にどんな理由が必要だろう。

 一秒でも一ミリ秒でも速く。

『どうだすごいだろう』

 そう言いたいがため。それだけで、十分なのだ。

(……そうだよな? 父さん)

 何か、慧一の心に沈んでいた澱のようなものが、すうっと流れて消えた。

「勝てばすっきりする?」

「もちろんです! 今まで負けた分、今度勝ったら一万倍すっきりします! 断言します!」

「俺は一万回も負けてないよ。……だけど、気持ちの上ではそのくらい楽しいかも知れないね」

「はいっ!」

 大きくうなずいたアンジェラの満面に、花開くような笑みが広がっていた。

 それを見て、慧一も大きくうなずく。

 ここらで一つ勝ってみよう。

 ようやく、慧一はそう思えた。


 さて、視線をちょっとだけずらしてみよう。

 まっさらの新機体を見上げる二人の背後、気密ハッチと壁の隙間から四組ばかりの視線が工房をのぞいていた。

 上から、野武士のような中年、国籍不明の怪しい男、鉄面皮秘書、寝不足あきれ顔監督、である。

「……ごちゃごちゃ策を練った割りには、あの子一人で十分だった気がするわ」

「費用対効果が今ひとつですね」

「うちの女どもは厳しいねぇ。……別に予算は使ってないじゃないか。ちょっと電話使ったくらいで」

「静かにしないと感づかれるぞ」

 下から順に、そう呟いた。

「この姿勢、腰にくるわね」

 響が言って、ハッチの隙間から抜ける。

 続いて竜之介がのぞきをやめた。

「まあ、男なんてあれだ。百回説得されるより、一回女の子にすがられた方が心が動く」

「あんたが言うと説得力あるわ」

「僕は結構硬派なつもり?」

「問い返している時点で問題外」

「それはそうと機体の名前は?」と、今は南雲開発GD研究開発室長である村雨。

「それはもう決めた。〈テンペスト〉。いいだろ」

「業界に嵐を巻き起こす? って発想はしないわよねあんたは。……もしかして」

 響の顔が引きつった。

「ピンポーン。「五十嵐」からいただきましたー」

「ちょっとやめてよそーゆーの。今日の今日まで新型のことを知らなかったのよ、私」

「だからいいんじゃん」

「静かにしていただけますか?」怒気をはらんだ声で徹子が言った。「今、いい雰囲気なんです」

「え!」×3。

 思わず身を乗り出した竜之介の体重におされ、気密ハッチがきいぃ、と鳴った。

「誰かいるんですか?」

 反響を伴って、アンジェラの声が聞こえてくる。

「やば。撤収!」

 監督の号令を受け、大人たちは見事な逃げっぷりを披露した。観客がいないのが残念なほどだった。

 通路を見に来たアンジェラが「お化けだったみたいです」と慧一に告げたのは、まあ、どうでもいいエピソードである。

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