第4話 1
窮屈なばかりだったネクタイも、もう体の一部になった。それでも、首輪のイメージが消えるわけではない。休みの日にふぬけた顔になるのは当然のことだろう。
近頃はデブリの衝突事故が多い。今週直したはずの衛星は、来週にはまたいかれているに決まっている。超過勤務に耐える日々は、新居のローンを完済するまで続くのだろう。おかげで残業手当は結構な額になるが。
やめたやめた。
休みの日まで仕事のことを考える必要はない。
「パパ」
「なんだい?」
舌っ足らずな声に、くわえ煙草で庭いじりをしていた慧一は振り返った。間もなく小学校に入る息子が、自分の頭より大きな箱を頭上に掲げて立っていた。
「ぷらもでる」
「おばあちゃんにもらったやつか」
慧一はむっくりと起き上がり、息子に向き直った。
精巧な作りのスケールモデルは、五歳児には難しそうだった。
「作って欲しいのか?」
「うん!」
と息子は楽しそうに紙箱を降ろした。箱には迫力満点のロボットの絵が印刷されていた。
さっそく内袋を破ろうとする慧一の手を、息子はぺしっと叩く。
「だめだよパパ。さいしょにせつめいしょをよむんだよ」
苦笑して、慧一は日本語の読めない息子のために、取説の解説文を読んでやる。
「――なあ慧介」
と慧一は息子に呼びかけた。
「なあに?」
「パパは昔、ロボットの運転手だったんだぞ」
自分は何を言っているのだ? 慧一はそう思った。
「うそだぁ。ママはそんなことひとこともいわなかったよ」
「ママ?」
ママって誰だ? 誰かの声が、脳の裏側から聞こえた。
「ママはママでしょ? へんなパパ。……あ、ママ!」
「ただいま。お父さんに遊んでもらっているの?」
声は庭の方から聞こえた。慧一は取説を置いてそちらを見た。ささやかな家庭菜園はいつの間にか姿を消していた。
庭があるはずの場所に宇宙の闇が広がっていた。足場もないのに平然とそこを歩く女は、ちぎれた右腕を引きずっていた。虚空にべっとりと、赤い流れ。
「どうしたの? あなた?」
血まみれの笑顔で、アンジェラがそう言った。
「うわぁああっ!」
叫びながら跳ね起きる。勢いあまって体が浮かび、当然の流れとして尾てい骨を打ち付けて着地。失神する寸前でどうにかこらえた慧一は、びっしょりと額を濡らす脂汗をぬぐうのも忘れて、周囲を見回していた。
畳敷きの六畳間。古くさいオーディオ一式。中身が行方不明になって久しい記録メディアのケース。放り出したままのスクーターの鍵と財布。隅には、既に懐かしいものになりつつある、訓練学校の教科書類がビニール紐で束ねて積んである。
自分の部屋だ。
夢だったのか。
覚めたばかりの夢は総天然色であまりにも生々しくて、自分が仮想空間にいるような錯覚から抜け出せない。
タオルケットで顔をぬぐって布団から出た。とりあえずシャワーを浴びよう。
洗面所を抜け、風呂場で冷水を浴びているうちに、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
(……『慧介』だって?)
とんでもない夢を見てしまった。
パイロットを引退して何か普通の仕事――ぺこぺこしていたような記憶もあるが、夢の内容はもう、半分以上消えていた――に就いて、ローンを組んで新居を建てて……。
その辺はまだいい。可能性としてはあり得る未来だ。意識のどこかにあったことが、夢になって現れたのだろう。
しかし、何って相手がアンジェラなのだ。整備班の連中はアイドル扱いしているが、自分は班長のことなど何とも思ってない。結婚したいなどとは夢にも思って……
いるのだろうか。
だから夢に。
「……っ」
慧一はシャワーのコックを限界までひねった。
『181サザンクラウドを出場停止五週間に処す
所属パイロットは同二週間に処す』
慧一は一ヶ月前の事故のことを思い出す。
コースに飛ばされたアンジェラを救助するため、レースは中止になった。午後のレースにも多大な影響が出たのは、パニックに陥ったアンジェラが、やたらめったら姿勢制御ガスを噴射したせいで、救助が遅れたことが原因だった。
億単位の払い戻しが発生して、響と竜之介はGD協会長直々の訓告――お説教を食らったらしい。対外的には減俸二十パーセントを発表。
チームとパイロットで処罰期間が違うのは、責任の度合いの違いだ。ピットに入った機体は自動制御に置かれるため、たとえ気付いていたとしても、慧一がアンジェラを避けることは不可能に近かった。ただし、もっと早くに注意していればどうにかできたのも事実で、責任の大半が管制側にあるとしても、慧一だけおとがめなしというわけにはいかなかったのだ。
アンジェラは肩を脱臼して全治二ヶ月。宇宙空間での事故がこの程度で済んだのは幸運といえる。
激突の衝撃を受け止めたMS作業服はお亡くなりになった。アンジェラが着ていたのが一般用宇宙服だったなら、原形を留めなかったのは彼女の方だっただろう。コロニー建設現場などでは、太陽電池パネルに挟まれるとか、ワイヤーに刎ねられてずたずたになるとか、悲惨な事故が今も絶えない。安全は金や技術ではなく、気配りで購われる類のものなのだ。
〈サザンクラウド〉は臨時休業に入った。入らざるを得なかった。
やることのなくなった慧一はチームを離れて火星に降りた。気乗りはしなかったが、ちょうどお盆であり、父の墓参りを無視するわけにもいなかった。
墓参りと言っても、居住地の限られた火星の住民に墓はない。遺体は火葬された後、所定の施設から灰を宇宙に撒かれることになっている。火星の仏教徒が「墓参り」といったら、葬儀場から宇宙を眺める行為を差す。
所属チームが一着になると、父は決まって『どうだすごいだろう?』から始まる電話をよこした。負けた日は『次はすごいからな』で終わる電話を。
唯一の例外が、あの事故の日だった。
因果なものだ、と思った。父が競技中の事故で死に、今度は自分が、競技中に人を死なせそうになった。やっぱり、自分はパイロットを続けない方がいいんじゃないか。そう思った。
しかし、まだ迷っている。
――君は本心ではやめたいなんて思っていないんだよ。
「…………」
そうなのだろうか。
思い出す。変な夢を見た原因に、もう一つ心当たりがあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます