第3話 1


「予算がなーい!」

 うだる熱さの中、響は発狂していた。

 宇宙には冬も夏もない。

 なのに熱いのは、空調の使用制限をかけているからだった。

 ドック船のガレージで、耐熱コートに使う薬剤の調合が行われている。十メートルの機体に必要なコート剤は二百キログラム程度。ただしこれは、コート剤が乾燥した状態での重量である。反応させる前の原液は、重量で七百キロ、体積で二キロリットルもある。これが一度に反応し、発熱しているのだ。ドッグ船はやたらめったら湿度が高く、不快指数もうなぎ登り。

「蒸し器の中のシューマイにでもなった気分」

「ダイエットにはちょうど良いかと」

「あんたそれあたしが太ってるって言いたいの?」

 この暑さにも平然としている徹子を、響は恨みがましく睨め付けた。

 七月に入って、チームはちょっとだけ上向いた。といっても、整備不良が原因のリタイヤが減っただけで、相変わらず低空飛行が続いている。

 あの日焼け過ぎボンボンとこの鉄面女に「どうだ参ったか」と言いたいがために、響は契約を更新してしまった。給料は倍になったがうれしくはない。仕事の目的は、もう金ではなくなっていた。何が何でも、あの男をあたしの前に平伏させてやる。オーナーとその秘書に敬意を払おうという気持ちは、ガレージでぶち切れたあの日に捨ててしまった。

「ところでオーナーは今日も来ないのかしら? いや別に顔なんか見たくもないんだけど。どうせ遊んでるんでしょうあのハーレム育ち」

「竜之介様は日本のお生まれですよ。幼少時は大阪にお住まいで、しばらくはあちこちを放浪なさっていらしたとか……」

「どないでもええねんそんなの。あいつに言いなさい。チームには顔出さなくていいからもっと金出せって。ダイヤモンドでも掘ってこいって」

 響は机に突っ伏した。ああ、スチールのひんやりした感触が気持ちいい。

「それでしたら問題ありません。今日は新しいスポンサーとの会合でオポチュニティに向かわれましたから」

 竜之介の懐から出せ、という意味だったのだが、言い合うのが面倒になってきた。早くも温くなってしまった机にべったり頬をつけたまま、受話器を持ち上げる。電算室を呼び出す。

「ハーレイ君、進んでる?」

『監督? 風邪ですか? なんか声が』

「心の病だから気にしないで。……展開装甲のバグ、取れた?」

『……すいません』

「いいわ。慧一君も嫌ってたようだし、あれは使わないことにする。整備にはあたしから言っておくから。代わりに適当な回避モーション入れて」

 返事は聞かずに受話器を戻す。

「あ。……まいっか」

「何ですか?」

 独り言に反応した徹子を胡乱に見て、

「重量バランスの計算もし直して射撃モーションの変更もねって言うの忘れた。あの子几帳面だから放っておいても気付くでしょうけど。しかし暑ーい。誰か氷買ってきてー」

 わざわざ氷を買ってこなくても、宇宙服を着て船外に出れば済む話だと、徹子は気付いていながら黙っていた。一円たりとも余計な出費をさせないのが彼女の仕事なのだ。


 正面に敵。右にも敵、左にも敵。

 いずれも慧一に正対し、まっすぐに向かってくる。正面の一機がのけぞるようなモーションで斧を振り上げた。ぎりぎりで回避。避けたところにばかでかい砲弾飛来。手持ちの大盾で受ける。ふくれあがった爆風で視界が埋め尽くされる。回復したモニタ一杯に三ツ目の兜。その額が発光――ゼロ距離からのビームが炸裂して慧一は絶叫した。

『ああ、何てことでしょう』

 アンジェラの声が、やけにクリアに聞こえた。

 どこからか音楽。

『こんな時のために、ホーリーウッドの終身傷害保険・宇宙生活パック。月々わずか百UNドルのお支払いで、不意の災害からあなたを守ります。ガン保険とセットでさらにお得』

 暗転。

 テレビ画面に保険会社のロゴが表示されるのを、慧一はむっつりと眺めていた。

「こんな感じです。エフェクトはまだ手直ししますけど、いかがですか?」

 ビデオの再生を止めて、スーツの男はにっこりと微笑んだ。

 面白くない。ろくでもない。縁起でもない。

 大体ビームって何だ? そんなものレースでは使わないし、仮に使ってもいいとして、あの距離で食らったら傷害保険じゃなくて生命保険の出番だ。

 慧一の胸中はナイナイづくしだったが、

「結構結構」

 保険会社の役員は拍手した。

「出演くださったお二人にもありがとうを言いたい。まさか現役のパイロットの方に出ていただけるとは思ってもいなかった。南雲さんとはこれからも良いおつきあいを是非」

「ええそりゃあもう」

 竜之介と役員が握手する。

 一同が見ていたのは、来月から放送予定のテレビコマーシャルだった。

 パイロットも有名になればレース以外の活躍の場が増える。〈大中人形公司〉のユン・イーモウなど、色男ぶりも手伝って、芸能人でもないのに十本ものコマーシャルに出演していた時期がある。これは特殊な例としても、シーズンオフにバラエティ番組に出たり雑誌の取材に応じるのは、ごく普通の営業活動だ。

 だけどこれはひどい、と慧一は思った。

 撃墜されるパイロットの役を、現役のパイロットに演じさせるなんて。

(……一体俺は何をやっているんだ?)

 撮影に参加したのは、チームの台所事情を考慮して、納得ずくだった。けれど、完成試写会は出ない方が良かった。ダメな自分を世界中に見られるのだと思った。

 むっつりしたまま保険会社のビルを出た。

 テラフォーミングされた火星の、人工の日差しは常に穏やかだ。それがかえってむなしさを募らせる。こんなことを続ける価値がどれほどあるのか。

 母親の、美沙子の状態はかなり良くなった。雇ったヘルパーが親切な人で、時間外でも話し相手を務めてくれたおかげだ。最近、美沙子は初心者向けの無料プラグラム講座をネット上に開設したそうだ。プログラマ復帰のためではなく、外の人間と触れ合うのが主目的だ。ただ、やはりGD関連には拒否反応があるらしく、週末にはテレビをつけようとしない。今回のCMが放送されたら風祭家からテレビがなくなるかもしれないな、と慧一は思った。

 ――残酷ですけれど、お母さんにはあまり合わない方がいいです。今はまだ。

 ヘルパーの言葉が胸に残っている。

 パイロットをやめたら母に会えるのだろうか――それはない。慧一の顔を見れば、美沙子は嫌でも将臣を思い出すことになる。帰らない方がいい。だけど心配だ。帰りたくなる。だから帰れない方がいい。パイロットを続けていれば、シーズン中は帰省する暇もない。

「慧一さーん」

 CMと同じ声が、ビルの中から追いかけてきた。慧一は歩を早めた。

「慧一さーん、待って下さーい」

 何となく、さらに速度を上げてしまう。迷ったことなど一度もないような、おっとりした声が何とも癇に障る。

 超名門校出身の、就職なんかでは絶対に困らない立場にいたのに、何を考えてかロボットレースに参加した変わり者。あっと言う間に整備班のアイドルになってしまった、キャリアのなさをルックスで補えてしまう恵まれた少女。そしていつの日にか、銀河最速のチームに所属しているであろう、才能の持ち主。そのチームに慧一が所属しないであろうことは、まず間違いないように思えた。世の中には明らかに能力の違う人間がいて、なのに競争が繰り返されている。そう思った。

 慰められたら怒鳴り返しそうで、それが恐くて、慧一はほとんど走るような速度になっていた。

 少し進んで、慧一は妙な予感めいたものを感じて振り返った。追跡をあきらめたにしては、声が聞こえなくなるのが早すぎる。

「…………」

 慧一は、うつぶせでもだえるアンジェラを見た。ただ転んだにしては尋常ではない痙攣っぷりだ。

 無視して帰るのは後味が悪い。誰もアンジェラのことを「ヤン班長」と呼ばない理由が、少しわかった。


「大丈夫?」

 起きあがったアンジェラの額に血がにじんでいた。眼鏡が割れていないのは奇跡だが、ささやかすぎてありがたみなどかけらもない。

「逃げないで下さーい」

 逃げてなんか……。

 反射的に思ったことは、言葉にはならなかった。走り去ろうとした慧一への抗議。それだけの意味のはずなのに、何かが、慧一の胸の奥深くに突き刺さっていた。

 俺は何から逃げようとしたのだろう。

 アンジェラから? レースから? それとも他の何かから?

「この後健康診断ですよ? 遺伝子バンクの更新もしておかないと、いざというときに困っちゃいますよ?」

 宇宙生活とは切っても切れないのが、放射線被曝による健康問題だ。火星では、GDパイロットに限らず、宇宙を職場にしている人間全員に、遺伝子検査を含めた健康診断が義務づけられている。技術が進んで放射線の遮断も可能になり、被爆の心配はほとんどないのだが、やはり完璧ではない。遺伝子治療・再生治療も一般的になり、よほどの重度でない限りガンも治せるのだが、早期発見するに越したことはない。若いうちはガンの進行も速く、健康診断をさぼることが、生死を分ける場合もある。

「わかってる。……ああいう席は息が詰まるから」

 そう言って慧一はごまかした。自分の内にわだかまるものを。

「そうですか? 私は結構面白かったです」

 悩みがないから気楽に構えていられるのだ、と慧一は思った。

「これで知名度アップしたらファンが増えるかもしれませんね」

「……」

「慧一さん?」

「……気安いんだよ」

「はい?」

 やばいことを言いそうだ。自分でもそれを自覚していた。これから自分はこの純真な少女を傷つける。でも止まらなかった。

「気楽にそんなこと言うな。俺がどんな気持ちで撮影に参加してたかお前にわかるのかよ。面白かった? そりゃお前はそうだろうさ。悩みもなくて、みんなにちやほやされて」

「…………」

「わかってるのか? 俺の被撃墜数、先週で二十になったんだぞ? その意味が、お前なんかにわかるのか!」

 さんざん撃墜されたあげく、それをCMのネタにされた。情けない。ふがいない。

 もうこんなこと続けられない。

 そう、はっきり自覚した。

「……ごめんなさい……」

 眉をハの字にして縮こまるアンジェラを見て、慧一は後悔に襲われた。

「連敗してるのは、私がしっかりしないからですよね。私にキャリアがないから、慧一さんに合うセッティングがわからないから……」

 それも原因の一つではある。だけど、

「……悪い、言い過ぎた。班長のせいじゃない」

「本当に、そう思ってます?」

「え。あ、その……」まずい。何か言わないと。「予算が足りないのが悪いんだよ。欲しい装備があっても用意できないんだからしょうがない」

「慧一さん、使いたい武器があるんですか? あるなら言って下さい! 何が何でも用意します、使えるようにセットします!」

「え、いや……」

 別になかった。展開装甲は邪魔だと思っていたが、調子が悪いからもう使わない、と監督に言われたばかりだ。

 アンジェラはじっと待っている。パイロットが要望を告げるのを、今か今かと期待している。

 口から出任せは言うものではない。

「その辺にしときましょうや」

 窮地の慧一を救ったのは、竜之介のにやにや笑いだった。

「どいつもこいつも予算予算って。僕が出し渋ってるみたいに聞こえるじゃないか」

「……そんなつもりじゃ」

 GDのオーナーは総じて金持ちである。が、個人資産のみではチームの運営ができないことは、誰もが知っている。資金力とは、オーナーの人脈と交渉力を差す言葉だ。

「足りないのは痛感してるけど。南雲グループは火星に足場がないし、僕は一族のみそっかすだからね。お小遣いをもらうようなわけにはいかないんだ。そのことは申し訳なく思うけど」

 そう言って、竜之介はサングラスをずらし、慧一を見据えた。

「だからといって勝てないのを僕のせいにするのは間違っている。レースをしているのは君だ。君が未熟だから負けるんだよ」

「……っ」

「引退する気ならいつでもオフィスに来たまえ。なに、手続きの心配はするな。僕がいなくても御堂がいるはずだ。引き留めはしない。ただしこちらにも都合がある。契約期間が残っているうちは、文句を言わずに黙って飛べ。健康診断もさぼるな。パイロットである以前に、社会人としての常識の問題だ」

「……失礼します」

 そう答えるのが精一杯だった。

 悩めるパイロットが立ち去るのを、竜之介はにこにこと見送った。それを見て、アンジェラは疑問に思った。

「オーナー、どうして笑ってるんですか?」

「若いなぁ、って」

「慧一さんが本当に辞めちゃったらどうするんですか」

「辞めないよ」

 断言。

「今回の仕事で屈辱を感じるってのは、悔しいからだ。何で悔しい? こだわっているからさ。胸の奥ではあいつもわかっているのさ。自分がどうしてパイロットを続けているのか。今やめるのは自分を否定することだってな」

「ですか」

「うん。でも、あの姿勢はちょっと問題だな……」

 うつむき気味に歩くパイロットの姿が、通りの角に消えた。

「ですね」

 したり顔でうなずくアンジェラを、竜之介は呆れた目で見下ろした。

「……君さ、今勘違いしてるでしょ?」

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