第2話 2

 戻ってきてしまった。慧一はそう思った。ロッカーを開け、自動的に体を動かす。

 パイロットスーツは目を閉じていても身につけられる。一年間――訓練生時代も含めれば三年間――毎週毎週やってきた手順だ。

 着替えを終えて歩き出す。

 職を変えようとは、何度も思った。就職斡旋サイトもチェックして、けれど、踏ん切りがつかなかった。新しい仕事で生活を安定させるのには、長い時間がかかる。父の残した財産はもういくらも残っていない。日増しに不安定になっていく母を一人にしておくのも気がかりだった。自分が働きに出ている間は、誰かに見てもらうしかない。けれど、普通のサラリーマンの、しかも新入社員の給料では、ヘルパーを雇うことなどできない。危険でも見返りの大きい仕事に就くしかなかった。そして慧一には、GDの免許があった。

「スーツは問題ないか?」

 整備士がそう尋ねてきた。データリンクやパイロットの保護、その他重要な機能がいくつも搭載された優れものだ。唯一の欠点は、これを着ると誰でも寸胴に見えること。

 パイロットスーツは服であると同時に装着型情報端末であり、パーツの一つと捉えるのが正しい。スーツの良し悪しがパフォーマンスに大きく影響することは言うまでもない。大手チームには専用の仕立て屋部門を用意しているところまであるくらいだ。

 オフの間に体重が増えてしまったらしく、腰の辺りがちょっときつかった。けれど慧一は不満を漏らさなかった。地上にいるうちに体を鍛えておくのはパイロットの義務だ。続けるか迷っていたとはいえ、さぼったのは自分の責任だ。言えば新しいスーツぐらいは作ってくれるだろうけれど、懐事情の厳しいチームに負担はかけたくなかった。

 慧一はコックピットに潜り込み、シートに背中を預けた。ヘッドギアをかぶり、結線する。

「お願いします」

 どうなるかはわからない。けれど、パイロットの他にできることなどない。

 ハッチがゆっくりと閉じていく。暗闇の中、慧一は目を閉じていた。

 ギミックドールはパイロットを乗せてから、最終組み立てを行う設計になっている。

 卵形の――シェルと呼ばれるパーツにパイロットを閉じこめ、皮をかぶせるように、胴体を接続する方式は、GD黎明期に採用され、今に続いている。緊急時にも機体は捨てない。殻が一種の保護カプセルとして機能するようになっているのだ。一見、安全上の問題があるように見えるが、殻が破壊されるようなケースは、この十年――第四世代型と呼ばれるレギュレーションになって以来、一度も発生していない。コックピット内には緊急脱出時に使うためのヘルメットも用意されているが、これなど一般家庭における非常食のようなもの――「使わなければならないときにはもう手遅れ」というやつだ。

 パイロットがシステムのチェックを行うのと平行して、外部では各パーツの取り付けが進む。

 まずはセンサの集中している頭部だ。メインカメラが使えるようになり、モニタに外部の映像が映し出されると、パイロットの閉塞感は少し和らぐ。手足を装着するのは宇宙空間に出してから。

 GDは、足があっても歩行はできない。重力下で支えを外すとあっと言う間に転倒してしまう。宇宙専用として設計され、接地のことなど考えられていない上、飛行姿勢を基準にバランスを取っているので、まっすぐ立つこともできないのだ。

 そもそも足など必要ないのだ。宇宙には地面がない。

 人型をしている理由だって「その方が見栄えがいいから」というのが開発者の本音で「手があることで汎用性が高くなった」というのは――嘘ではないが――開発予算獲得のための屁理屈に過ぎなかったらしい。もっとも、足もただの飾りではなく、姿勢制御のためのサブスラスターを設けたり、固定火器を内蔵したりと使い道はある。

 全てのパーツをセットし終えたら、いよいよ武器を持つ。

 他のモータースポーツでは考えられない、GDレース最大の特徴は「妨害自由」というルールにある。

 邪魔な相手は撃ち落せ。単純明快この上なし。

 レース結果そっちのけで、GD同士の戦いだけを楽しみにしているファンも多い。

 とは言っても、勝利とは一着でゴールすることの他にはない。

 装備の基本は銃器が一つと近接武器が一つ。一度に装備できる武器は予備を含めて三つまでだが、ピットでの交換は自由となっている。また、三つの装備を一度に使うような状況もまずないので、フル装備で出場するチームは滅多にない。なお、手持ちであれば盾も武器とみなされる。本体から取り外せない――重量的に不利を背負う――装備は無制限に使用できるが、全身武器庫にしたら重すぎてレースどころではなくなってしまう。弾薬補充の問題もある。

 先手を取って火力で押すか、速力で逆転を狙うか――。勝利のための戦略は無数にあり、そのため、レースの予想も難しいものとなっている。

 組み立ての終わったGDは、多くの物語でたとえられたような、ロボットとは少し違う。鋼の骨格に装甲をまとっているのは同じだが、いわゆる鎧騎士然とはしていないのだ。

 装甲は必要最小限、可動範囲を確保するためと軽量化のため、内部構造がむき出しの箇所も多い。細長い手足と相まって、どちらかと言えば華奢なスタイルをしている。

 あえて皮肉った表現をするなら、昔のSFに出てくる「露出過剰の女戦士」に近いが、何か特別な意匠があるわけではない。防御より回避を優先し、破壊された箇所を迅速に交換する――少しでもタイムを縮める――ために必要な設計を突き詰めた結果こうなったに過ぎない。

 全ての準備を終えたら待機エリアへ。後は出走時間を待つだけだ。

『第二レースは間もなくスタートです。出場機体は速やかに所定の位置へ』

 慧一は大きく息を吸い込んだ。音声コマンド。

「セイフティ解除。Gドライブ起動」

『Gドライブ機動確認』オペレーターがコール。

 シートから蠕動が伝わってくる。膨大な電力消費と引き替えに、機体背面のGドライブ――重力子推進機関が動き出す。

 ある航宙事故から偶然に発見された新粒子――重力子を生み出し、機体背面に力場を発生させることで、GDは宇宙を駆ける。

 歴史的発見であるはずの重力子は、現在のところ、GDの推進器としてしか実用されていない。発見当初は惑星間航行に活用できると期待されていたのだが、その不安定さが、不特定多数の利用する一般航路での使用を難しくしている。出力を安定化させる研究は現在も続いており、GDレースの売り上げからかなりの額が、税金という形を経て――その際にいくらか目減りしつつ――各研究機関に回されている。

 その意味では、GDパイロットは未来に向かって飛んでいるのだが、いざレースに挑むパイロットは、そんなことは考えない。

 迷いはとりあえず忘れる。前に出る。慧一はそれだけを考えようと努力した。


 管制モニタには、光の翼を広げる十五の人形が映し出されていた。

 Gドライブが発生させた重力子は、コンマ何秒かの間に崩壊し、推力と光を放ちながら消滅する。細長いスリットから広がり、崩壊していく重力子は、肉眼では翼のように見える。

 コントロールラインに向かっての展示飛行を、ある解説者は「妖精の行進のようだ」と言った。それはさすがに詩的に過ぎるが、美しい光景であることには違いない。

 過酷なレースの前の、つかの間の幻想。

 が、響はそれを青ざめた顔で見ていた。

「始まっちゃった……」

 就任の挨拶から、まだ一週間も経っていない。なのにレースは始まってしまった。

 さすがにもう混乱はしていないが、監督としての心構えなどまるでできていない。何年もレースを見ていて、思うところは色々あったけれど、それだって結局は傍観者の勝手な感想、テレビを見ながら言いたい放題のおっさんと何ら変わらない。

 自分が責任を持って、何かを決定するなんてとても無理。採決を仰がれるたび、「任せるわ」と言って逃げ回った一週間だった。

「……何で私が監督なのよ……」

 その問いは何度もオーナーにぶつけた。返ってくる答えはいつも、

「見栄えがいいから」

 だった。

「大丈夫。チームが軌道に乗るまでの辛抱だから」

 とも言った。多分、オーナーにはスカウトしたい人材がいるのだ。その人物が首を縦に振らないから、とりあえず響を――いつでもちょん切れる短期契約の人間を――代わりに突っ込んでいるだけなのだ。

 月給二十五万というのがその証拠だ。どこの監督だって、響の十倍以上は絶対にもらっている。

(あたしはきっと、火星リーグで薄給な指揮官だわ)と響は思った。

 当のオーナーは、新チームのデビュー戦だというのに現地入りしていない。秘書も行方を知らないらしい。お目付役のように管制室の入り口に立つ徹子を、響はちらりと見た。

 冗談ではない。

 私は隙間埋めのパテか?

「……あんの似非日本人」

『監督』

「ごめんなさいっ!」

 絶妙のタイミングで入った通信に、響は思わず謝っていた。声は竜之介のものではなかった。船のガレージ――レース中は側壁を解放し、ピットとなっている――からの内線。整備班の村雨班長だ。名前に似合って野武士のような体格の古参。響よりもずっとGDに詳しい。はっきり言ってやりにくい相手だ。

「……何でしょう?」

『右股関節のサーボがおかしい』

 いつの間にかレースは始まっていたらしい。慌ててモニタに目をやる。〈リンドブルム〉がふらついているように見えたが、もしかしたら揺れているのはカメラの方かもしれない。その程度の判断もできなかった。

『どうする? 一旦戻すか?』

 右足が動かなくなるかもしれない。それはわかったが、どうすればいいのかわからない。足がなければどうなる? 多分、バランスを取るのに苦労するようになる。

「データをこっちに」

『常時表示になっている』

 村雨が冷笑したように、響は感じた。だって知らないんだからしょうがないじゃない。そう思いながら、管制卓につくオペレーターの指差す表示を見る。サーボモータの戻り値が平均より五ポイント高い。これってどういう意味なのかしら。

「パイロットは何て?」

 言わなければ良かった、と響は思った。また、結論を他人任せにしてしまった。

『やれと言われればそのまま行く、だそうだ』

 不調があればすぐに直す――が常に正しいわけではない。ピットインとなれば時間がかかる。当然、順位が落ちる。だが、放置して行動不能になったら完走すらできない。

「もう一週様子を見て。機動がおかしくなるようならピットインを早めて対応」

 考えて答えたつもりだった。

 だが、〈181リンドブルム〉は、翌周回でコースアウト、そのまま復帰できなかった。

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