第2話 1
どうして自分はまたここに座っているのだろう。
どうして所信表明の原稿など書いているのだろう。
どうして、
「――」
この辺でやめておこう、と響は思った。どうしてどうしてを繰り返して「どうして仕事をしているんだろう」が危険域の入り口。
「どうして私はまだ生きているんだろう」まで行ってしまったらガチで人生の危機。
己の存在に疑問を持ってはいけない。それは五十嵐響が二十七年かけて学んだ、「うまくいかない人生を乗り切るための極意」であった。
とにかく今はここにいる。そのうちどうにかなる。そのためには当座の生活費が必要。だから仕事をしている。その程度の認識でいる限り、突発的にエアロックを解放したり、有機溶剤のプールに飛び込んだりしないで済む。
しかし、
「……書けない」
〈来島モータース〉が買収されると決定したのは、昨年末のことだった。その後の展開はよく知らない。ずうっと、アパートで電話の前に正座していた。
国連事務所からの通知は、ついに来なかった。見所が全くないという意味だろう。独学がいけなかったのか。あるいは最初から能力がなかったのか。原因は不明だが、来年も挑戦する熱意は持てそうにもなかった。さようなら、水と空気が無料の楽園。いやいや地球に住むことそれ自体は、まだ不可能になったわけではない。一般居住権の入手に、まともな手段では稼ぎ出せない額のお金がかかるというだけで。ええそうですとも、地球は金持ちの星ですよ。いやいやいや、まだ玉の輿に乗る、という手が、
「っておい」
自分に突っ込む。いけない。脱線してしまった。
ともかく現状を整理してみる。
チームには買い手がついた。新しいオーナーは南雲竜之介。三十歳。月に本拠を置く、南雲グループ総帥の四男だそうだ。
どうせボンボンの道楽よね。今週末には最初のレースが行われるっていうのに、光電子素子の在庫は切れたままで、欠けた整備士の補充もできていない。元いたスタッフを拝み倒して――おかげで響は飢え死にしないで済んだのだが――それでも最低数を確保できていないんだから「ろぼっとのおーなー」にあこがれるただのガキよ。慧一クンがかわいそう。まともな機体に乗っけてあの子なら撃墜よりも敵機の運動性を奪うことを念頭に一撃離脱戦法で行けば、カテはしなくても上位に付けられる。それで注目を浴びたら新しいスポンサーを募って……。
――何を考えているのよ私は。また脱線している。
響は頬を叩き、指をキーボードに乗せた。まだ一度も事務所に顔を見せていないオーナーのために、就任の挨拶文を考えるのが、今期の初仕事だった。
チームの運営方針をくそまじめに考えてどうする。それは私の仕事じゃない。監督がやることだ。監督といえばあのじいさんも問題だ。友人の逮捕は相当なショックだったのだろうけれど、だからといって当たり散らすのはやめて欲しい。あれじゃ残った人まで辞めちゃうわよ。そして登録番号181は、一度もレースに出場しない幽霊チームに成り下がるのだ。
――書けるわけがない。うん。やめた。
南雲氏にはアドリブでしゃべってもらおう。そもそも新オーナーの趣味嗜好がわからないのだ。「彼が言いそうな」言葉を選んで文を組み立てるなど不可能だ。スタッフの前で白紙の半ペラ見て青くなるがいい。
意地悪く一人で笑ったところに、ノックの音が響いた。響はしゃっくりみたいな声で「どうぞ」と言った。
「ご苦労様。進んでいるかしら?」
事務所のドアを開けたのは妙齢の美女だった。波打つ前髪が片目を隠す様が陰気にならないのは見事だが、薄紫のスーツ、プラス大振りの真珠のネックレスは一体いつの時代のセンスなのだろう。
「御堂さん。さっぱりです」
御堂徹子。オーナーの愛人……ではないらしい。雇用関係の上では〈南雲開発火星支部〉の社員であり、チームの頭数には入っていない。南雲グループとの連絡役が主な仕事になる、と言っていたのを響は思い出した。
「そう? あんまり難しく考えないことよ。それと、無茶は言わないこと。嘘つきが信用をなくすのは、企業でもレーシングチームでも同じでしょう?」
その通りだが、だったらオーナー自ら原稿を書いて欲しい。
「それで、そちらの方は?」
響が視線をずらしたのは、話題をそらすためではなかった。徹子が入室したときから、もう一人の存在が気になっていたのだ。
長い銀髪、褐色の肌の外国人。かなり鍛えているようだが、パイロットという風ではない。空きポストはいくつあったかな。響は社内配置を思い出そうとしたが、うまくいかなかった。
「みんなガレージに集まってもらっているのだけど、先に紹介しておこうかしら。……こちら、新しいオーナー」
「……は?」
オーナーの名前は、南雲誠一郎だ。時代劇に出てきそうな、逆さにでも読まない限り――いや、逆さに読んでも日本人の名前だ。事務所のドアに寄りかかっている外国人とは、イメージに隔たりがありすぎた。
「ちっす」
外国人は片手を小さく上げてあいさつした。
あいさつに用いられた言葉のインパクトに、響は唖然として言葉を失った。……ちっす? 日本語学校で教えるあいさつでは、絶対にない。
「……あのぅ、日本の生まれなん、ですよね?」
「親父の愛人がさらに浮気した相手との間に出来た子供なのよね。要するに南雲家とはゼンゼン血縁ないのよ僕。アフリカ系らしいんだけどそれ以上は自分でもよくわかんない。ああ! ちゃんと火星市民登録は済ませたから火星人でいいや」
それは良かったですねえ、と声には出さずにおく。とりあえず、意思の疎通で困ることはなさそうだ、と思ったのだが、あっという間に裏切られた。
「正直、チームの運営とかさっぱりなのよ僕。専門用語なんかひとっつも覚えてこなかったし。だからみんなが頼り」
響が固まっていると、竜之介はつかつかと歩み取ってきて、響の手を取り、キスをした。
「そーゆーわけだから、がんばってね、五十嵐監督」
「………………は?」
いま、なんていったのでしょうかこのがいこくじんは。
響は混乱していた。いや、錯乱していた。
「……かん、とく?」
「そう。監督。現場で一番エライ人」
響の反応の鈍さに、竜之介は首をかしげた。
「契約書読まなかった?」
「三ヶ月の短期契約で、月給は二十五万円で、双方の合意で延長ありで」
そこまでしか読まなかった。だってそれだけわかっていれば生活できるじゃん。
「なんだ、ちゃんと読んでるじゃん。大丈夫大丈夫。はじめはみんな素人さん」
徹子が腕時計を見た。「そろそろ参りましょう」
それから、真っ白なパソコンのモニタを見て、
「就任の挨拶はアドリブで結構です」
響は青くならなかった。状況が理解できず、顔色を変えるところまで行かなかったのだ。
「納得いかんッ!」
怒鳴ったのはもちろん、任を追われた雪村監督――元監督である。集められた人間のほとんどが雇用内容の確認をしたのに対し、雪村だけが「来週から来なくていいから」の一言で片付けられたのだ。これで怒らない人間の方がおかしい。
「いや、ほら。監督ってのはチームの顔でしょう? しわしわジジイより若い女の子の方がよっぽど適任じゃん」
お気楽に言う外国人――もとい、新オーナーであるところの竜之介。
「実況しかできないしょんべん小娘に何がわかる!」
「何も知らなくてもいいんじゃない? ……レースそっちのけで公判傍聴に行った年寄りよりはずっとマシってものさ。そうでないかい皆の衆?」
誰も答えない。どっちに味方してもまずい。そんな空気があった。雪村は歯を食いしばって何かに耐えていた。
友人のためとはいえ、預かっている現場を放棄したのは事実なのだ。竜之介は正しいことを言っている。だが、こんなふざけた調子で言われる筋合いはない。
「ああそうかいッ!」
判決以来短くなっていた雪村の血管が、一本切れた。
「わかったよワシはお払い箱ってことだな。そこまで言うなら若造、お前の好きにすればいい」
「だから最初ッからそう言ってるっしょ? はい、お帰りはあちら~。御堂さん塩まいて塩」
「機体が錆びます」
「冗談だって」
ひゃっひゃと下品に笑う竜之介。雪村の血管がまた一本切れる。
「貴様らッ! 覚えてろ! 頼まれたって手伝ってやらんからなッ!」
走り去る雪村。ざわめく一同。「いいのか、あれ」「泣いてたぞ」「マジ?」
「はいはい皆さんご注目。人事に不満がある人はみんなクビです。GDレースは公共性皆無ですから、労働局に掛け合っても無意味なのはわかってますねー? 他に行く当てがある人は止めません。シーズンが本格化する前にとっとと辞めちゃって下さい」
竜之介はにやりと笑って、ガレージを見回した。
「ただし、僕を信用できる人には、銀杯からシャンパンを飲ませてあげます」
ご冗談、と誰かが呟いた。
シーズンが終わると、賞金王には金杯が、最優秀チームには銀杯が贈られるのが習わしだ。
銀杯とは、銀河一のスタッフであることの証。孫の代まで自慢できるありがたい代物なのである。
「まあ、今年いきなりは無理ですから、余所に行って修行したい人も止めません」
なーんだ、と誰かが言った。とげとげしい雰囲気が去ったのを察して、竜之介は椅子に腰を落とした。
「新しい登録名は〈181サザンクラウド〉です」
「安直」
その呟きを、徹子は視線で殺した。
「では、新監督の挨拶を……」
一斉に視線が動く。
「監督?」
「………………」
響はまだ混乱している。いや、放心していた。
解散を寸前で免れたチームは、しかし分解寸前のまま、開幕戦に臨むこととなった。
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